第四十三話 操りし者④
明け方近く。
渡瀬さんは夕べの服のまま、ベッドでまだ静かに寝息を立てていた。
その足元の床から、先生が突然、むくりと起き上がった。
『先生?』
「影沼が動いた。
今、影沼に敵意を向けた新たな霊が現れた。大ホールで戦っている!」
『私も行きますッ!』
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講習会場の大ホールの扉を開けた先生と私は、同時に息を飲んだ。
『これはッ?!』
天野さんのグループの作品パネルが黒い炎を上げて燃え上がっている。
昨日は整然と並べられていた椅子やテーブル、絵画用具がビュンビュンと音を立てて会場内を飛び交っている!
『先生! 危ないッ!!』
先生は飛んできたテーブルからかろうじて身をかわした。
振り仰ぐと目で追えない速さで動く影が二つ、空中でぶつかり合うたびに獣のような咆哮が響く!
壁が、床が、轟音をあげて震えていく!!
なに? まるで地震のようだわ?!
突然目の前にひっくり返ったテーブルに、一人の霊体が打ち付けられた。
反射的に天井を見る。
そこには割れた頭がシュルシュルっと戻り、分散させていた腕を本体に戻している影沼さんがまるで蝙蝠のようにぶら下がっていた!
昨日までの大人しそうな印象は消え失せていた。
クワッと裂けた口を開き、赤く光った目をむいて私達を威嚇してる!
『影沼さん、溜まった怨念が勝って、もう悪霊に?』
「いやまだ……何? むしろ、怯えてるのか?!」
先生が困惑してる。
「影沼ッ! お前の狙いは俺だけで十分だろう?!」
先生の声に反応した影沼さんの目が、左右に揺れた。
でも!
『シャーッ!』
目を剥いて最後に身を乗り出すように吠えると、影沼さんは足から天井に溶け込むように消えていった。
『ま……待てッ!!』
呼び止めた声は私達の背後からだった。
テーブルに打ち付けられていた霊が天井に向け、震える手を伸ばしながら呻く。
それは首がギプスで固定され、頭を包帯で覆われた、パジャマ姿の男の人の霊だった。
『あなたはいったい……誰ですか?!』
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変わり果てた会場に先生達は集まった。
「先ほど高熱が出た生徒達は病院に搬送しました。
今、保護者が向かっています。」
天野さんのグループの生徒達だ。
熱が出た時間は、どうやらさっきの戦いと重なっていた。
影沼さんが戦いのためにきっと部分憑依を解いたから……。
やっぱり悪影響がでてしまったんだわ。
責任者の先生は報告してくれた先生に頷くと、唇を歪め周囲を見渡した。
「この有様は今朝の地震のせいとは考えられないな。」
守衛さんは強張らせた顔を振りながら言う。
「昨夜見回りをした時には異常はありませんでした。
それに外から入って来た者は誰一人いませんでしたよ?」
「他の生徒達も先生方も、皆それぞれの部屋にいましたし。」
「やはり警察に知らせた方が?」
先生達のざわめきを打ち消すように、天野さんの声が響いた。
「熱の出た生徒はともかく、このホールの被害は関係者……
この中に犯人がいるとしたら?」
「え?」
またどよめきが起きた時、天野さんは呟いた。
「第一発見者の雨守先生、どうして早朝ここに来たのかしら。」
そして次に渡瀬さんの前に立った。
「渡瀬さん、あなた夕べ、ご自分の部屋にいなかったわね?
私、隣の部屋だったから知っているのよ?」
「私がこんなことするわけないじゃない。」
「どうかしらね?」
先生は無表情のまま、天野さんだけを見つめた。
「彼女ならずっと、俺の部屋にいたよ。
別に不思議でもないだろう?
俺達、付き合って長いんだ。」
天野さんは一瞬、顔をひきつらせた。
「きょッ、教育に関わる者がなんて不謹慎な!」
「することはするだろ? 人間だもの。」
先生ッ。
その、ソレは嘘ってわかってるんですけど、ちょっと困りますそういう発言はッ。
渡瀬さんも一瞬真っ赤になったじゃないですかッ。
「お二人とも、やめてください!
こんなこと、一人二人で短時間に出来っこないでしょう?
とにかく状況は深刻です。
合宿は中断した方が良いと思いますが、如何ですか?」
場をとりなす責任者の先生の提案に、先生は強く頷いた。
「そうしてください。
残りの生徒達は早いとこ帰宅させてください。」
でも天野さんがすかさず異を唱える。
「いいえ、続行しましょう!
生徒の中にはもう不安を感じ出している子もいます。
中止にすればいたずらにそれを煽るだけです!」
「確かにそうですが、準備を整え直すには……。」
眉をひそめた責任者の先生を、天野さんは黒目がちな眼で見据えた。
「午後の予定にあったこの文化会館の絵画資料見学を午前に入れ替えて
その間に私達の半数の人員でここの整備を。
午後からは課題変更と生徒には伝えてグループも編成しなおして。
それならよろしくて?」
「は、はい。
その方法ならなんとか……。」
先生達は手分けして、会場の片付けや生徒への説明へと当たった。すると二人の先生が何やらぼやいてるのが目にとまった。
「なあ、確か、前にもこんなことなかったか?」
「あ? ああ……。」
「そこ! つまらない噂に振り回されないで、手を動かす!」
「あ、は、はい。」
天野さんの厳しい声に、慌ててお二方は従った。
ん? 噂? なんだろ?
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「天野。」
床に散らかった絵筆や絵の具を拾い集めていた天野さんに、先生は並ぶようにしゃがんで声をかけた。
「……なによ。あんな女をかばうなんて。相変わらず、いい気なものね。」
天野さんは先生を見ようともせず手を動かす。
「影沼直人、覚えているか?」
先生の言葉に、天野さんの目は一瞬大きく開いた。
「あなたには……関係ないわ。」
先生は気づかないふりをしながら壊れたパネルの破片を拾って話を続ける。
「ああ。影沼がいつ、どう死んだのかすら、俺は知らないしな。」
「え?!」
天野さんの手が止まった。
「いや……覚えがあるならいいんだ。
ところでさっき他の先生に聞いたんだが、
前にもこんなふうに荒らされたことがあったんだって?
その講習会の時にも、あんた、講師として来ていたんだよな?」
「そんなつまらない噂……知らないわ。」
煩わしそうに答えると、再び天野さんは手を動かし始めた。
「奇遇だな。俺も噂は嫌いでね。
だが俺は今朝ここで見たんだよ。
影沼が一人の学生と戦ってるのを。
それでこの会場の今朝の有様だ。」
「ふん。あなた、いつからそんな三文作家のようになったの?
死んだ人間が化けて出てきて喧嘩していたとでも言うの?」
「その学生の名は、辻替幸生。
あんたのN美大四年生、卒業直前に校舎の階段から転落し頸椎骨折。
この三年は病院のベッドで意識不明……。」
「あなたが……なぜ彼のことを?」
愕然としながら、天野さんは先生を見つめた。
黒目がちだった瞳が、すーっと小さくなった感じがした。
「彼には霊感があったようだ。
あんたの学生の腕に霊が憑依して作品作ってるって訴えたんだろ?
異常扱いされて県立美術館の学芸員の内定取り消されたんだってな。
あんたに。」
「どうして……そんなことを?!」
天野さんは立ち上がって先生を見下ろし、小さく呻いた。
先生は顔も上げずに答える。
「辻替君本人が、幽体離脱してここまで来て教えてくれたんだ。
彼を階段から突き落としたのは、あんたの学生に憑依していた霊。
つまり……影沼の霊だってこともね。」
「何を言ってるのか……全然わからないわよ。」
声を震わせる天野さんを、先生は手を止め、しゃがんだまま、冷たい目で見上げた。
「影沼はいつもあんたを見守ってきたはずだ。
シャワーの時に背後に視線を感じたことはないか?
寝てる時に誰かの吐息が顔にかかったことはないか?」
「なんで……。」
「今のは当てづっぽうに言ったんだが、そうか、あるのか。
影沼はあんたに気に入られようと頑張ってるよ。
昨日も生徒の腕に憑依して、あんたが言った技法を忠実に再現した。
その生徒達がそろって高熱を出したのは、果たして偶然かな?」
「まさか……。」
天野さんの手から、ぼろぼろとさっき拾い集めた絵の具が零れ落ちる。
先生は淡々と続ける。
「ところで、あんたが小遣い稼ぎに受験対応で面倒見た女子高生。
N美大に合格した後、絵が描けなくなったと相談に来なかったか?
無理もない。
それもずっと影沼が描いていたんだものな。」
「あの子は……。」
「つい最近、自殺したんだろ?
昨日あんたに恨みをぶつけようと化けて出てきた彼女を、影沼が葬ったよ。」
「嘘よ……。」
「影沼に憑依された後、毒されてしまった人間は少なくないはずだ。
それで体、あるいは精神を病んだり、場合によっては命を落とした者もいる。
だがそいつらには影沼のことはわからない。
あんたに直接恨みを向ける。」
「そんなの、私、知らない……。」
天野さんは両手で顔を覆いながらこわばる。
「幽霊とか、生霊とか、そんな姿になって
見当違いだがあんたに恨みを晴らそうとやってくる者達を、
影沼は葬って来た。
あんたを守ってるつもりなんだろ。」
「知らない……知らない……。」
「だが影沼がそんなふうに動く度、辻替君もやってきた。
まだそんなことしてるのか、もうやめろ、とね。
その度にあんたの周りでは今朝みたいに物が荒らされていたはずだ。」
「そんなこと……あなたに関係ないじゃない!
私にだって、関係ないわッ!!」
髪を振り乱し、見開いた両目で先生を見つめた時、天野さんは呼吸を忘れた。
そして強張った表情のまま、ゆっくりと顔をあげる。
『初めまして。
私は後代縁……死んで化けて出てきた者です。』
私の目から視線を外せなくなったまま、天野さんは立ち尽くしていた。
先生も静かに立ち上がると、隣に立つ私の肩を抱くようにしてくれた。
私の横にはもう一人、どうにか立っている辻替さんの霊が。
そして、渡瀬さんも、そこにやって来た。
「すまんな、天野。
知らぬが仏だっただろうが、一時的とは言え見えるようにしてしまって。
せめて他の生徒達はこれ以上巻き込みたくない。
最悪の事態にならないように、あんたにも協力してもらいたい。」
「あ、あなた達はいったい、なんなの?」
「影沼はあんたを守るため、あんたに恨みをもった霊を喰らい続けた挙句、
悪霊に変ろうとしている。」
先生は瞬きを忘れた天野さんに語り続ける。
「あいつはもう、自己崩壊を起こす寸前だ。
だがここに戻ってくる。
あんたのそばに、いたいから。」