第四十二話 操りし者③
「『自動書記』って、聞いたことある?」
夜遅く、文化会館に隣接した宿舎の先生の部屋。
先生の問いかけに私と渡瀬さんは同時に首をぶんぶん振った。
「ある日突然、勝手に腕が動いて知らない言語で文章を書いたり、
本来そんな才能はないのに立派な絵を描いたり。
そんな怪現象のことを言うんだ。
あの男はそれをしたんだよ。」
「『なるほど~。』」
渡瀬さんと二人、ふんふんと頷く。
でも一人部屋って小さくて皆の間隔がなんだか狭くて。
先生はベッドに胡坐で座ってるんだけどドキドキしちゃう。
渡瀬さんのせいだよ~ッ。
前に「夜這いしよう」とか言うからぁ~ッ。
その渡瀬さんはすぐ目の前の備え付けの机の前の椅子に腰かけて。
私は二人の間に、あ・い・だ・に・ッ ベッドから上半身だけ出していた。
だって……ねえ?
先生は静かに説明を続ける。
(ごめんなさいッ。ちゃんと聞きます!)
「普通、憑依ってのは霊体が全身に乗り移ることを言うんだが、
あんな風に人の体の一部分だけを操ることもできるんだ。」
『操られている人は、気がつかないんですか?』
先生はコクンと頷いた。
「憑依と違って部分的な乗っ取り……多くは腕なんだけど、
その場合、意識はちゃんとある。
ただ不思議なことだと感じても、自分の腕だから違和感がない。」
あ! それなら私、先日渡瀬さんにしてたじゃない?
夜這い止めようとして……。
でも当の渡瀬さんは気づいた様子もなかったみたいだし。
「だからあのグループの生徒達、あんなに驚いていたのね?」
「ああ。
男の子が叫んでたっけ。『神ってる』って。
昔から『神懸かり』なんて言われる現象もその一つだよ。」
『でもあの幽霊の右腕、一度に二人の生徒に憑いてましたよ?』
「それは簡単さ。その気になれば何人にでも取り憑ける。」
「簡単なの?」
渡瀬さんが私の顔を覗き込む。
思わず首を振っちゃった。
でも先生は今度は私を見つめて言う。
「そもそも幽霊は、もう実在しなくなった人間がそこにいる。
言ってみれば存在そのものが残留思念だ。
思いさえ込めれば腕だけを別にして残すことも可能だ。
俺が初めて見た幽霊は、足首だけだったしな。」
『じゃあ、私にもあんなことが?』
「縁が持ってる常識を壊せばね。」
あ~、でもそれがなかなかに難しいんですよねぇ……。
「ねえ、あの女学生の亡霊って、天野さんを恨んでいたわよね?」
そう。
あの時、私達は同時に女学生の亡霊から一つのビジョンを叩きつけられていた。
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彼女は高校生の頃、難関のN美大への進学を志し、そこで勤務していた天野さんから個人指導を受けていたらしい。先生は「それは天野のアルバイトだろう」って。
そこで彼女は『神懸かり』にあったかのように実力を伸ばした。
そしてこの春、念願のN美大へ合格を果たすことができた。
意気揚々と彼女はそこでさらに自分の力をつけるつもりだった。
でも……突然、それまでのようには描けなくなってしまった。
こんなはずじゃないと彼女は焦り、部屋に引きこもって寝食を忘れ、狂ったように絵を描いた。紙がなくなれば、壁や床、一面に描き続けた。
でも、全然納得がいかなくなっていた。
打ちひしがれた彼女が再び天野に相談に訪れた時、天野は彼女に告げた。
「私は才能の芽を開かせたまで。
育てるのはあなたの責任。
描けなくなったのは、あなたの問題よ。」
彼女は絶望し……パレットナイフで自分の利き腕を刺した。
一晩中、何度も何度も。
鋭い刃ではないから、鈍い音を延々と響かせながら。
骨が見えるほど肉は裂け、細い指の骨は砕け、終には血だまりの中、彼女はひきつった笑いを浮かべながら息を引き取った。
天野さんへの、歪んだ恨みだけを残して。
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「女学生がN美大に合格できたのは、
あの男の幽霊による『自動書記』のおかげだったのね?」
渡瀬さんに先生は頷いた。
「あの男が描いていた時間が長いほど、本来の自分自身の腕は鈍る。
合格後、あの男が部分憑依を解いたんだろう。
狂ってしまったあの女学生の霊が、俺を呼んでいたんだ。」
『でもあの女学生さん、食べられちゃいましたよね?』
「あれって、食べたの? クリオネみたいだったわ。」
バッカルコーン!
海の天使なのにあれだけは怖いのよね。
「言われてみれば確かに捕食みたいだったな。
あの男にしてみれば、天野を守ってるつもりなんだ。
だが一体何を考えてるのか……。
あの男の声は全然聞こえなかったんだ。」
それで先生、最初に会った時に汗を滲ませていたんだわ。
でも、声が聞こえなかったからだけじゃないんじゃ……。
『先生、もしかしてあの男の幽霊の生前のこと、知ってるんじゃ?』
先生はドキっとしたみたいに私を見た。
「実はね。知ってる相手なのに声が聞こえなくて余計焦ったが。
大学は違うが俺も天野も学生の頃のことだ。
確かあの男、天野の後輩で……そうだ、影沼!
影沼直人!!」
『じゃあ悪いのは全部、影沼って人ですよね?』
「一概に良し悪しは言えないが、天野はきっと知らないことだからな。」
先生は口をへの字に曲げて頭をかいた。
すると突然、渡瀬さんは悪戯っぽい顔をして先生を覗き込む。
「ねえ、雨守クン。その頃誰かと付き合ってた?」
「なんだよ? いきなり。」
ホント、いきなりすぎですよッ?! 思わず目をむいてしまう。
「だって雨守クンの高校の時の先生、結婚がどうとかって。
ちょうどその頃じゃない?」
『渡瀬さん! よして下さいよ。今そんなこと。』
「ああ。いたよ。『あいつ』のことだ。」
『うええッ。』
躊躇もなく即答!!
「やっぱりそうなんだ。
別にいいじゃない。その時々で付き合ってる人いてもね~。
私もいたし。」
なんの告白コーナー?!
でもおッ!
『うえええッ。私だけいなかった~。』
「いいじゃない。縁ちゃん、今、雨守クンと同棲してるんだし。」
「そう言われてみればそうだな。」
『どっ、同棲ッ!! どっどどどっどど……くはッ!』
その、なにかいけないことしてるような響きにクラッときちゃったッ。
もう!
皆、夜のおかしなテンションなのッ?
「だから!
天野さんも、きっと好きだったんじゃない?
雨守クンのこと。」
「そんなわけあるか。
初対面で『あなたは私の言うとおりにしなさい』って、
描画技法だけならともかく、来てる服とか関係ないだろ?」
「それが好きってことじゃないのぉ~。独占欲が強いのよ。」
『好きって言わなきゃ好きってことにならないなんてこと、
ないんですよ?』
「そうそう。
縁ちゃんから色々教わりなさい。
雨守クンの恋愛感性、小学生以下よ?」
「なんなんだよ、二人して。
好意なんてあるもんか。
会えば嫌味しか言ってこないんだぜ?」
「それは雨守クンが自分の思い通りにならなかったからでしょう?
天野さん、はっきり言ってたじゃない。」
「知らん。
それに『あいつ』のこと、あんな女呼ばわりした女、知らん。」
「それは私もされたわ! だから怒ってくれたのね、雨守クゥン!」
「変な声出さないでくれよ。単に天野の人間性の悪いとこだ。」
『それって、嫉妬だったんですよ、きっと。
先生が自分に振り向いてくれないばかりか、
先生が他の人を好きになっていたから。』
「絶対そう。
それに私が雨守クンと付き合ってるって言ったらムキになったし。
天野さん、雨守クンのこと今も好きに決まってる。」
「でもあれ、渡瀬さんの芝居だろ?」
「ええっ? う……うん! そう!! そうなのおッ!!」
泣いてんだか笑ってるんだかわかんない顔して渡瀬さんはのけぞった。
『先生~。
渡瀬さん、あの男の幽霊……影沼さんが先生に敵意剥き出しだったから
少しでも自分に注意を向けさせようとして言ったんですよ?
先生のこと、心配して。』
「そんなことまで考えて……いや、それはすまなかった。
でもおかげであの瞬間だけ、影沼の心が読めたよ。
ありがとう、渡瀬さん。」
「役に立てたんなら嬉しいわッ!」
ぱあって、それ今日一番の笑顔じゃないですかッ。
立ち直り速いですよッ。
でも先生、いったい何に気がついたのかしら?
「あの時、影沼は戸惑っていたんだ。
どう反応すれば天野のお気に召すかってね。
影沼は天野に気に入られたいって一心らしい。
だから天野が憎らしく感じてる俺には最初から敵意を。」
『憎らしい、というよりはそれも嫉妬じゃないかとぉ~。』
「嫉妬?」
先生は怪訝そうに私を見る。
でも説明を継いだのは渡瀬さんだった。
「だから!!
その影沼って幽霊もきっと天野さんが好きなの。
その天野さんは雨守クン、あなたのことが好きなの。
それじゃあ、やきもちも焼いちゃうでしょ~?」
「うわぁ……。」
今更ハッとしたような顔をして頭を抱えた先生に、渡瀬さんは鼻から吐息で呆れたように言う。
「やっとわかった? 無駄に恋バナしたわけじゃないわよ?」
あっ、なるほど! 流石渡瀬さん♪
でもでも……。
『あの、ちょっと心配なんですけど
嫉妬に狂って影沼さん、直接何かしてくるってことはありませんか?』
私の疑問に、先生は冷静な顔に戻っていた。
「今、影沼の気配は女子棟にある。
恐らく今夜は天野のそばから離れないだろうが近づかないほうがいい。
渡瀬さん、今夜はここに。」
「一緒に寝てくれるのッ?!」
『私もいますからね?!』
「ベッド使ってくれ。俺は床に寝る。気になることがあるんだ。」
「床になりたい~イ。」『気になることってなんですかッ?!』
渡瀬さんのぼやきは大きな声でブロック!
先生は私達に静かに話し出した。
「影沼、女学生の亡霊を丸のみにしただろう?
無駄のない動作だったのは、きっと慣れているからだ。
もし、今までもああやって天野を怨霊から守ってきたとしたら、
相当危険な状態かも知れない。」
「『危険な状態って?』」
私と渡瀬さんの声が被る。
「捕食というか、相手を自分に取り込んでしまっている。
天野のことが好きで守りたいという自分と、
天野へ向けられた怨念が同居してしまっているとしたら?」
「おかしくなっちゃうわよね?」
「ああ。さらに怨念の方が増大していったら?」
『それって……まさか、悪霊化?!』
「そうだ。最後はそうなる。
声が聞こえなかったのも、
既に自分で制御が難しくなってるからかも知れない。」
「余裕がないってこと?!」
『そういえば、一度、天野さんの肩に触れようとした手を
引っ込めてましたッ!』
「なんだって?
自分が取り憑いた後、禍を残すことにはもう気がついてるんだ。
天野だけは傷つけまいとしているに違いない。」
「じゃあ、今日『自動書記』を受けた生徒は?」
「明日にならなきゃわからないが、なにかしら症状がでるだろう。」
『大変じゃないですか!!』
私達の緊張はピークに達した。
先生は覚悟を決めたように、右の掌をじっと見つめていた。
「ああ。
もう、影沼を消すしか、方法はないかも知れない。」
既出ですが、雨守がいう『あいつ』は雨守が好きだった女性のことです。
雨守が最初に見た幽霊が足首だけだった、というのは筆者の体験談です。