勘違いから始まる、婚約破棄劇場の行く先は?
「アリーセ・プレーデル。お前との婚約を、今この時を以って破棄。そしてデボラ・リッチェルを私、アルバン・ヴィーガントの新たな婚約者として迎える事を宣言する!」
王宮のとある一室。
一人の令嬢に、机を挟み複数人の男たちが向かい合う、中々に異質なその空間――男たちにの後ろに庇うかの如く、一人の令嬢がいるのもその異質さを際立たせているだろう――
そんな異質な中。そこに響いたその声を聞いて、婚約破棄を言い渡された、たった一人で男たちに立ち向かっていた令嬢、アリーセ・プレーデルは。取り乱し、叫び――
「家同士の取り決めが、当人たちの采配で如何にか成る訳が御座いませんでしょう。何よりそこな女は我が公爵家と比べるまでもなく、格下の男爵家。誰が王妃と立つに認めると思いますか?」
――ださなかった。
それどころか、ひどく冷めた目で淡々と。そう、部屋の温度が一気に五度は下がったのではと思わせるくらいの、冷たい口調で。婚約破棄を言い渡した男――アルバン・ヴィーガントに言い聞かせるように言う。
「っ……! またそうやってディーを馬鹿にして……! 由緒あるヴィーガント王国の貴族、それも最高位にあるはずの公爵家の人間とは思えない。品性を疑う。恥を知れ!」
「恥を知るのは其方の方です。寄ってたかって、その公爵家のか弱き令嬢を糾弾するなど……王族として、貴族として、許されざる行為です。中にはわたくしよりも低位の方が混じっているようにも見受けられるのも、無礼極まりない。何より、貴方は自分の言葉の重さを知らないのですか?」
どうやらそれが癪に触ったらしい。顔を僅かに赤く染め、唾を撒き散らさん勢いで反論するアルバンだったが、対するアリーセは不快だと言わんばかりに、手にしていた扇で口元を隠すのみ。その表情に怯えの色は、一切見えない。
だがそれが、余計にアルバンの怒りを増長させる。
「誰がか弱い、だと……? 俺は知っているんだぞ! お前がディーを虐め抜いていた事をな!」
「まあ……わたくしの先程の言葉は受け取って頂けなかったばかりか、まだ虚言を重ねるのですね」
呆れたような視線。一つ、零される溜息。それらは何れもがアリーセがアルバンにほとほと愛想が尽きた、と言わんばかりの様子で――元から尽きる程愛想があったかどうかは、別として――
馬鹿にされたと思ったのだろう。アルバンも、そうしてその取り巻きたちも。その顔を怒りに染め。アルバンなど、拳を作り、目の前にあったアルバンとアリーセを隔てていた、机に思い切り叩きつける。
まるで、アリーセを怯えさそうと、威嚇するかのように。
無論それを受けてもなお、アリーセは眉一つ動かさず。アルバンは余計に苛立っただけであったが。
「虚言ではない証拠を見せてやる! リンケ!」
「……は。ではプレーデル嬢には此方を――」
「必要ありません」
意気揚々と証拠を出そうとし、二人の側へと寄ったリンケと呼ばれた少年は。アリーセの余りにもばっさりと切り捨てるその台詞に、一瞬行動を止め、唖然としてしまう。
だが然しそれはリンケのみならず、この場にいるアリーセ以外の全員に当てはまる。
アルバンも例外なく、驚きからか。目を瞬かせてアリーセを凝視してしまい。
「どうせ、わたくしがリッチェル男爵令嬢にどんな嫌味を言ったとか、ワインを掛けられたとか、足を引っ掛けられたとか。その程度のものでしょう」
「っ……お前は取り巻きを使って、ディーを孤立させていただろう!」
「あら、まあ。わたくしそんな事は致しておりませんわ。ただ少し、リッチェル男爵令嬢は言動に気を付け、節度を持って行動するべきでしたわね、と仲間内で呟いたくらいですもの」
「それが原因だろう! お前は自分が他の令嬢に与える影響力というものを知らないのか!」
「その言葉。そっくりそのままお返し致しますわ。――あなた方全員に言える事ですが、御自身がどんな立場にあり、どんな影響を与えるか。ご存知の上でリッチェル男爵令嬢の取り巻きをやっていらっしゃるの?」
最も先に、我へと戻ったのはアルバンだ。慌てたようにアリーセに言い返せば、然し一が十にもなって返ってくる。
アリーセのそういうところが、アルバンは嫌いだった。女は黙って、三歩後ろを歩くか、男を支え、立てれば良いと考える、典型的な男であったが故だろう。
その点デボラは良くアルバンを見、アルバンを支え、アルバンを立ててくれた。それはこの場にいる他の男たちにも当てはまる事なのだけれども。
見ようによっては尻軽に見えるだろう。他の男にも色目を使っているようにも、見えてしまうに違いない。
だが、それでも許してしまう程にデボラはアルバンを――いや、男を立て、その気にさせるのがとても上手かった。
「何を言っている。当たり前だろう? だからこそ、悪影響を及ぼし兼ねないお前を排除し、清廉潔白なディーを妻に迎えようとしているのだから」
そう。だから、アルバンは当然だと言わんばかりにアリーセの言葉を肯定する。そうして、他の男たちも。アルバンの言う通りだと言わんばかりに頷いて。
アリーセは、やってられないと言わんばかりに首を振った。付き合うだけ馬鹿馬鹿しいと、その表情にはしっかり書かれている。
無論男たちは、気が付かないけれど。
「第一に。清廉潔白な人間が本意はともかく、男を侍らせる事なんて、ありません。第二に、本当にそうであればあなたの父君、国王陛下が真っ先に動く筈です。第三に、悪影響を及ぼし兼ねない? 何を以って言ってるのですか。本当にそうなら、今頃あなた方は全員廃嫡されていますよ」
「……? どういう事だ」
反論の言葉を考えていたアルバンの耳に飛んできた言葉。
廃嫡。
その意味を知らない訳ではない。だからこそ、何故そんな飛躍した話になるのかと。そうして、それに何故アリーセが関わっていると言わんばかりな口調なのか。
疑問に思い、気が付けば問い掛ける言葉が口から漏れていた。
「当たり前でしょう。家同士の取り決めである、婚約者を蔑ろにして、一人の女――それも、男爵家の娘を取り巻く。将来の資質を疑われ、不利益を被る前に手を切ろうとするのは、家や国を守るものとして当然の行いです。それ以前に、我が娘が可愛くない親なんていないんですよ。娘が蔑ろにされ、あまつさえ婚約者は一人と女の取り巻きになっている。あなた方の婚約者が一つ、不満を漏らせば。理由が理由ですので、すぐさま親である当主様たちは動いたでしょうね」
「だが、そんな様子は――」
「ええ。なかったでしょう? それを抑えていたのは、一体誰だったのか、という話です」
「そんなの、彼女たちが自分で――」
「そう思うなら、あなた方の婚約者の家を回って聞いてきてみれば如何です? ……まあ、門前払が落ちでしょうけれど」
何処か馬鹿にしたように言われたその言葉に、男たちは全員堪忍袋の緒が切れたのだろう。口々に何かを言い出した。が、残念な事に、言っている事が混じり合い、何一つとして分からない状況に。
それが続くかと思いきや。風船が割れたような音が室内に響き、突然の事に全員に驚いて口から音を出すのを止め、音の発信源を探す。
とはいえそれは直ぐに見つかった。アリーセが手に持っていた扇を、机に叩き付けた音だったのだから。折れる事なく健在する扇は、余程の物質で作られたものなのだろう。音からしても、それは間違いないかもしれない。
「自業自得、という言葉をご存知で? わたくしの言葉が信じられないなら今すぐ確認に向かえば良い話ですし、信じられるなら、先に述べた通りです。あなた方が文句を言う筋合いなんて、少しも御座いません」
にこりとも笑わないアリーセの顔は、怖いくらいに無表情だ。感情という感情が削げ落ちたような、いっそ微笑んでくれていた方がマシだと思える程に。
普段は令嬢然とし、常に穏やかに、優雅に微笑んでいるアリーセだったけれど。遂に堪忍袋の緒が切れたのだろう。むしろ今まで持った事を、褒めて然るべきだ。
「さて。如何致します? 此処で御退場下さるなら――嗚呼、殿下とリッチェル嬢はお残りになってくださいませね。それ以外の方は、御退場なさるなら今ですわよ。今、出て行かないのであれば……殿下とリッチェル様と共に、わたくしの長い話を聞いて頂くことになりますけれど」
静かになったその場で、今度は一転。花も綻ぶような笑みを浮かべて、僅かに首を傾げ、男たちに視線を走らせながら問い掛ける。
常時の社交界であれば、流石プレーデル公爵のご令嬢だ、と言われるような笑みであったけれど。今は先程の無表情が可愛く思えるほど、その笑顔が怖い。
誰ともつかぬ小さな悲鳴が一つ上がる。そうして、気が付けば男たちは我先にと扉を目指し――残ったのは、出入り口を固めていた騎士に捉えられた、逃げ出そうとしていたデボラと。呆然とソファに座ったままのアルバン。
そして、この場に、これから起こるだろうことに似つかわしくない笑みを浮かべたアリーセの三人。
「……お邪魔虫もいなくなったことですから。三人で、お話致しましょうか」
「いえ……その、あたしは……」
「お座りなさい。リッチェル様。真相が如何であれ、あなたに拒否権はありません」
有無を言わさぬアリーセの様子に、デボラは音にならぬ悲鳴を上げた。身体を震わせ、騎士に囚われたままのデボラを。アルバンが抗議する間もなく、アリーセはアルバンの隣に座らせるように騎士たちに言う。
ずるずると引き摺られ、漸くアルバンとデボラが、アリーセの前に並んで座れば。アリーセは、その笑みを一層深めた。
アルバンはデボラの背を摩り、顔色を伺おうとして。けれど視線は少しも交わらない。それどころか、意図的に逸らされているような気さえしてしまう。
だが、直ぐに気の所為だろうと思う事にして、デボラを落ち着かせる事に集中しようとしたが。
「何処からお話致しましょうか。そうですわね……ええ、では先ず殿下の勘違いからお伝えいたしましょう」
「勘違い……?」
アリーセの口から飛び出したその言葉に、アルバンは眉間に皺を寄せ、首を傾ける。相変わらず片手は、デボラの背にあったが。然しその手は、止まっていた。
「ええ、そうです。勘違い。リッチェル様、あなた様の口から殿下にお伝えになっては?」
気味が悪い程の、場に似つかわしくない笑みを浮かべたままアリーセは視線をデボラに向ける。促すように一度顎を小さくしゃくらせ。
「……っ」
視線を俯かせていたデボラは、アリーセのその姿や行動を見る事はなかったけれど。その言葉には、怯えたような様子で息を呑み、浅く、けれども何度も首を振る。
「……嗚呼、不敬罪に問われるのではと気にしていらっしゃるのですね。宜しいでしょう。プレーデル公爵が娘、アリーセ・プレーデルの名を以って、デボラ・リッチェルが今より発言する事は、全て不問に帰すとお約束致します」
デボラの様子を見。一瞬怪訝そうに、眉間に皺を寄せたアリーセだったけれど。思い当たる節に気が付けば、納得したような声で一つ。
それはアリーセが家の、プレーデルの名を以って約束した証。非公式ではあれど、早々ない事だ。
現にアルバンは驚いたように目を丸め、アリーセを凝視している。デボラもアルバンと同じように、けれどそこには安堵の様子が少し、混じっていて。
「……あの、アルバン様。申し訳ありません。あたしには、婚約者がいるんです」
「………………はっ?」
視線を上げ。それでもアルバンの胸元辺りに視線を彷徨わせながら。デボラは、はっきりと告げた。
「アルバン様の事も、好きですけど、アルバン様と同じ好きじゃないっていうか……お友達、みたいな感覚で。他のみんなも、そうなんですけど……だから、ごめんなさい」
デボラからアルバンに対しての、明確な拒絶。拒絶。――拒絶。
余りにも突然だと感じるその言葉を、当然の事ながらアルバンは全く以って理解出来なかった。
――一体ディーは何を言っているんだろう?
アルバンの心は、分かる事を拒否してか。そんな言葉が円を描くように支配して。
「な、なにを……なにを、言ってるんだ? 婚約者……嗚呼、俺の事か。はは、ディーは気が早いな!」
――現実逃避を、選択した。
例え、アリーセのみならずデボラからも哀れだと言わんばかりの視線を、向けられようとも。
「違います。……違うんです。幼い頃からの婚約者で……コリント商会。知ってらっしゃいますか?」
「あ、嗚呼。昔からある老舗だな。目新しさや、急激な伸びもないが、安定した利益を出し、固定客が多いっていうあの……」
「あたしの母と、コリント商会の頭取様の奥方様が旧友で、子供が生まれたら結婚して家族にって約束してたらしく。……だから、そこの年の一番近い子との、結婚が昔から決まってたんです」
思わずアルバンは息を呑む。それは、それではまるで――望まない結婚を強いられているようではないか。アルバンや、この場にはもういない、デボラを愛する同志達のように。
だが、アルバン達とは違い、デボラのそれはアルバンの力を持ってすれば、解消なんて容易いだろう。だけれども、そうすればきっとデボラの母は悲しむに違いない。
嗚呼、成る程。とアルバンの中で何かと何かが合致した。――決してそれは真実に辿り着いたものではなく。アルバンの都合の良い解釈でしかなかったが。
「ディー、君はなんて優しいんだ。母上を悲しませなくないからと、自分の気持ちを押し殺して――」
「いい加減になさいませ。殿下」
デボラが遮るより早く、底冷えする声色でアリーセが止めた。それは何処か、ただをこねる子供を叱り付けるような様子にも見え。
「何を、何をいい加減にするっていうんだ……! アリーセ、君には何もわからないだろう!」
「ええ。分かりません。分かりたくともない。ですがこれはわたくしの役目に御座いますから」
「役目……?」
「そう。役目です。わたくしが一個人として何を如何思おうとも、この未来王妃として、また国母として。人の上に立ち、王を、民を、正しい道に導く為だけに存在する、わたくしの役目なのです。殿下、貴方の暴走を止め、内々で処理を済まし、理解して頂く事が」
顔色一つ変えず、淡々と紡ぐその言葉は、意思を持たぬ人形のようで。デボラは勿論、長くアリーセと共にいたアルバンですら、得体の知れぬ恐怖を感じざるを得なかった。
まだ瞳の奥が濁ってでもいれば、マシだったのかもしれない。だがそんな様子はなく、正気そのものである事が伺える。だからこそ余計、その恐怖は増すというのもの。
然しアルバンという男は存外、怖いもの知らずだったらしい。或いは恋に溺れ、周りが見えなくなっているだけかもしれないが。
「だ、だが……俺はディーを妻に迎えたいと……」
「それは、わたくしに婚約破棄を伝えてきたことから推測するに、側室や愛人としてではなく、王妃として迎えたい。そういう事で良かったでしょうか?」
「嗚呼」
「であれば。……寝言は寝ながらでお願い致しますわ。そんな物語の中でしか押し通らぬような事が、現実で出来る訳がありませんでしょう。リッチェル様と殿下、二人共が稀代の天才などであれば、それも可能であったやもしれませんが」
「何故だ!? いや、違うか。お前はそうやって、俺や王妃の座にしがみつ――」
「気味の悪い事を仰有りませんよう。誰かに簡単に譲れるようなものであれば、喜んで投げ出します。ですが、十四年。……十四年です。殿下」
「十四年……?」
アルバンは首を傾げた。十四年とは一体何を指しているのか、と。少し考えてみたところで、思い当たる節もなく。降参だ、と言わんばかりにアリーセに視線を向ける。
「わたくしが、殿下の隣に立つ為に費やした、時間です」
正しく意味を汲んだアリーセは、けれどその視線に幾らかの侮蔑を含みながらも、端的に説明した。
「自意識過剰と言われるとそれまでかもしれません。ですが、私はそれなりに優秀だと自負しております。確かに他より地位が高かったのもありますでしょう。ですが、数多いる婚約者候補の中より、正式に殿下の婚約者となった事が、その証拠だと」
一旦、アリーセは話を区切る。
何か言いたそうに、けれど、正しく夜会などで他の貴族にアリーセが如何評されているか。それを知っているアルバンは物言いたげな視線を送るに止め。
そんなアルバンの視線など気にすることなく、アリーセは話を続ける。
「殿下はご存知ないかもしれませんが、殿下の婚約者……いえ、この国では王太子の婚約者を選ぶ場合。婚約者選定を終えた後、王妃教育での振るい落しが待ち受けています。それを乗り越えた者のみ、婚約者候補として名乗りを上げることが許されるのです。さらに、その中から更に日々の行動を監視の上で、漸く婚約者を決定し、そう名乗ることが許される。分かりますか? 殿下。――王太子の婚約者と名乗ることの、重みがどれほどのものか」
知らなかった。――否、知ろうとしなかった、というのが正しいか。
想像以上のそれに息を呑み、だが。
「分かるが、ディーが君より優秀であると判断されればっ……!」
「そうですね。あり得ない未来ではないでしょう。リッチェル様があなたの隣に立つ事は。ですが――婚約者候補であった家の者が、何も言わないと思いますか? それを跳ね除ける事が出来たとして、殿下が即位なさるまでの残り三年で、終わらせられると?」
諦めが悪いアルバンは食って掛かる。然し返されたその言葉に、思わず押し黙った。
アリーセの優秀さは、多分、アルバンが一番良く知っている。だからこそアリーセと真逆のデボラに惚れたのだから。
とはいえデボラが優秀でない訳ではない。アルバンやその取り巻きたちの話についてこれぬなら、そもそもが相手にしなかっただろう。
然し。デボラは彼らの話についてき、少し上回っていたかのようにも思う。それでもアリーセのように嫌味に感じたり、しなかったのは、人柄故か。
男爵令嬢という身分でありながら、そうであったのだ。アリーセと同じ環境を用意すれば――と思えども。
果たしてそれでデボラがアリーセに敵うかどうか。アルバンは、口には出さぬし、内心で否定形を繰り返しながらも知っていた。
――敵う訳が無いと。例えスタート地点が同じであっても、デボラがアリーセに勝つ事は、きっとなかった事を。
「何より、素行に問題有りとされるでしょう。婚約者ある身でありながら、その真意は如何であれ、婚約者以外の男たちの間を渡り歩くだけならまだしも、密室で二人きりになったりしていたようですから。……何もなかったとしても、ね」
追い討ちを掛けるように、アリーセは言葉を紡ぐ。
それに顔を青くしたのはデボラだ。如何して知っているのかと言わんばかりの表情でアリーセを見。
「お願いします、フーゴには……フーゴには言わないでくださいっ……! お願いします!」
地面に頭をつけんばかりの勢いを以って、頭を下げた。例えアリーセに言われた状況に、己から望んでなった訳でなかったとしても。知られてしまえば、その理由が何であれ、一緒なのだと言わんばかりに。
驚いたのはアルバンだ。フーゴとは誰だ、という疑問を抱くもそれはよく考えなくとも分かる。――デボラの婚約者である、コリント家の者だろう。
愕然して、それから。魂が抜けたような感覚を、味わう。
この時点で漸く、アルバンは正しく現状を理解したのだ。
――デボラは己を、己たちを愛してはいなかった。大切に思っていたのは、婚約者であって。全ては、アルバンの早とちりと勘違いでしか、なかったのだと。
「安心して下さい。知っている者には、わたくしの名を以って口止めしていますし、元より口外するつもりはありませんので」
「ありがとうございますっ……!」
「その代わり、此度の話は、その御心に留めておいて下さいませ」
それは、お願いというより、強制だった。けれどデボラは嫌がる素振りを見せず、それ以上に当然だと言わんばかりに何度も頷く。
「……さて。殿下。幾つか選択肢が御座います」
デボラへの話は、終わったのだろう。アリーセが退出を促せば、アルバンか、それともアリーセに向けたものか。或いは両方に宛てたものだったかもしれないけれど。謝罪の言葉を口にしたデボラは、何の戸惑いもなく部屋を、出て行った。アルバンを置いて。
そうして、残ったのはアルバンとアリーセのみ。
呆然とするアルバンに、まだ終わっていないと。そう言わんばかりに、アリーセは切り出す。
「一つ。このまま茶番劇を続ける。二つ。正妃にするのは諦め、王族の特権を用い、側妃に召し上げる。三つ。なかった事にしてしまう」
デボラの気持ちを知らなかったのなら。一か二を、選んだだろう。けれど今はもう、三を選ぶしかない。――選ぶしか、ないのだ。
何より、この失態が。なかった事になるというのは、幾人かは知っているとはいえ、有り難い。そう、思った。けれど。
「……なかった事には、出来ないだろう。俺の……いや、私の行いは、王太子、ひいてはこの先国を導く王となるに相応しくない」
――出来る訳がなかった。そうしてしまうのはとても簡単だけれど、それが許される立場でない事を、恋の熱から覚めたアルバンは正しく理解していたからだ。
緩く首を振り、アリーセが掲示しなかった、第四の――王太子を辞する意志を口にして。今日初めてアリーセと向き合おうと視線を向ければ、驚き、目を瞬かせる。
だって、そこには呆れり、蔑んだり。無表情ではなく。僅かとはいえ、微笑んだアリーセがいたのだから。
「ようございました。殿下。気付いて下さって。確かにあなたの行いは、褒められたものではないでしょう。王となるに疑問視する声が出るやもしれません。……ですが、恋は盲目と言います。わたくしにはその感覚は分かりませんが、年頃であれば仕方ないでしょう。何より王とはいえ人間ですから。一度や二度の過ちは、ございます。後はそれに己が気付き……正しい道を選べるか。それが、大切なのです。わたくしだって、あんな大見得切りましたけれど……リッチェル様への態度は、褒められたものではありませんでした。もっと、彼女を傷付けず、穏便に皆の怒りを納める方法だって、あったに違いありません。そうできなかったのは、ひとえにわたくしの実力不足です」
話すにつれ、情けなさそうに表情が変わり、自己反省の様子を見せるアリーセを見て。アルバンは、なんだか遠くにいたアリーセが、とても近くに、手の届く範囲に来たように感じた。
――嗚呼、なんだ。アリーセだって同じ人間なんじゃないか。
そう思ったそれは、驚く程にアルバンの心の中に落ち、全身に染み渡る。抱いていたはずの嫌悪感や苦手意識は、少しであったが薄まり。
「……だったら、正しい道を、一緒に探していかないか。一人より二人の方が、きっと気付きも多い筈だ……なんて、私にそう言う資格があるのかどうかは、分からないが」
先の未来を、一緒に歩いてみるのも悪くないかと、素直に
思えた。そうしてそれは、無意識のうちにアルバンの口から漏れ。発した本人が、一番驚く。
「言われなくとも。それがわたくしの役目ですので」
相変わらず薄く笑ったままのアリーセに返された言葉は、然しアルバンの中で薄まったそれを元通りに戻す。――否、戻そうとして、引き下げ、そして己を恥じた。
「……いつか、役目と言わなくとも済むように、なりたいものですね」なんて、言われたのだから。
むしろさっきの今でアリーセが素直に頷く訳がない。非は完全にアルバン側にある。
そもそも謝罪もまだで――嗚呼、とまたアリーセに気付かされた事実を前にして、アルバンは敵わないな、と思った。ただそれは以前のような嫌悪感に苛まれたものではなく、正しく受け入れ、素直に落ちて――。
ヴィーガント王国第七十二代国王は、後世にも賢妃と名高いプレーデル公爵第二子、アリーセ・プレーデルを、即位と共に王妃に迎えた。
以降、後宮を開く事もなく、王妃アリーセとの間に三男四女に恵まれ。家臣にも民にも大変慕われた慕われた良き王であり、良き父であり、良き夫であったという。
王妃アリーセとの仲は大変睦まじく、家臣も民もそれはそれは、微笑ましく見守ったのだそうだ。
2/21 ご指摘ありがとうございます。加筆・修正しました。
以下反省点
アルバンの周囲が無能っぽくなってる(実際取り巻きは無能というか恋に溺れてましたが)
暴走機関車にさせているのだから「デボラに婚約者がいるのは人から聞き知っていたが、信じていなかった」こういう程にすれば良かったかなと、感想頂いて思いました。
と書き留め。