ヴェロニカ Ⅱ ――、動く ⑥
「ガイ!」
レニーがガイの異変に気付いて、駆け寄る。
「なにを、ぼやっとしてる?」
ガイの近くまで来たところで、レニーは顔をしかめた。
(……この臭いは……?)
強張った表情でガイが、見つめる先の坑道には――
「! …………」
闇のなかに、ぬらりと黒光りする巨大な生き物が蠢いている。
しゅう、しゅうと、毒の息をはき、黄金の目を光らせ、長い身体をうねらせて、――もうすぐそこまで近づいてきていた。
「ふたりとも、鼻と口を布で覆え! ウィルムだ!」
……ウィルム。――主にアルマに棲息する、巨大な蛇の魔物――
「……いつからこいつが、ヴェロニカでも出るようになったんだ?」
レニーは舌打ちをした。
(――ウィルムが相手では、ガイの剣では無理だ)
間合いをとり、手早く手巾で鼻と口を覆う。
(……七十年留守にしてただけで、こうも勝手が違ってるとはな……)
体勢を整え、剣を抜き放って、仲間の状況を確認し、――レニーは驚愕した。
「……ガイ?」
ガイは鼻を覆うこともせず、――棒立ちのままでいる。
(――毒か?)
ウィルムの毒々しいまでに赤く巨大な口が、ガイの間近に迫った。
「ちぃっ!」
レニーがガイに体当たりざま、剣でウィルムの牙を受ける。
ウィルムの圧倒的な力に、レニーはそのまま地面に叩きつけられた。
レニーの眼前に、毒息を吐くウイルムの凶暴な口が激しく迫る。
とっさに目をとじ、顔を横にむけたが、ひりひりとした痛みが追いかけてきた。
……『火炎弾』
ウィルムの胴にアリエルが放った火の球が炸裂し、レニーはかろうじてウィルムの牙から逃れることができた。
耳障りな悲鳴をあげ、蛇体がのたうつ。
ブーメランのように振り回される巨大な尾を、レニーはすんでのところでかわした。
――ウィルムの怒りに燃える目が、アリエルをとらえた。
「レニー!」
「……くそっ」
アリエルに肉薄するウィルムに、レニーが背後から切りつける。
……だが、――ウィルムに、急所以外の攻撃は意味をなさない。
どんな深傷も、たとえ切り離されたとしても、すぐにまた元にもどってしまうのだ。
――今のように……
ウィルムの注意をレニーにひきつけ、アリエルとの間に割って入るための時間稼ぎにしかならないことを、レニーは承知していた。
――戦況は最悪だった。
レニーは、ウィルムの毒で目をやられている。
ガイは、レニーにホールの端に飛ばされて、倒れたままだ。
アリエルは、坑道内では大規模な攻撃魔法は使えない。
(……ちくしょう!)
――レニーは目が、かすんでいるだけではない。
身体にも、痺れがきていた。
――この時、ホールの天井にぶら下がっていた一体のプテラが飛び去っていくのに、気付いた者はいなかった。
フィーが伏せていた目を、静かに開いた。
「――あまり、よくありません」
隣で心配そうに見つめるラキシスに、プテラの目を通して見たままを報告する。
(――あんなに、強いひと達が……?)
ラキシスは、ショックで言葉も出ない。
、
「あちらが決着したら、ウィルムがこちらへ来るか、それとも外へ向かうかは、なんとも言えません」
――そんな非情な……と、言いかけて、ラキシスは喉まで出かかっていた言葉をのみこんだ。
「ラキ。――彼らが引きつけてくれている間に、ここを脱出しましょう」
「……脱出?」
ラキシスは、耳を疑った。
「それって、……どういうこと?」
「わたしが魔法を使って、あなたを連れてここから外へ移動します」
「そんな……。そんなことができるんだったら、最初からそうしていたら、レニーさん達は危険な目にあわなくてもすんだんじゃないの?」
「――いいえ」
ラキシスの抗議にも、フィーの淡々とした口調は変わらない。
「あの、ウィルムという魔物は、わたしが初めて目にする魔物です。――気配を感じ取ってはいましたが、正体がわからなかったので、どうしたらよいか考えあぐねていたのです」
ラキシスも今、初めて耳にした。
ゲルトに教わった、ヴェロニカで遭遇する魔物のなかにはなかった名前だ。
「……フィー、僕は、レニーさん達を助けたい……」
意を決して、ラキシスはフィーに自らの思いを伝えた。
「なにを……?」
フィーの菫色の瞳が、困惑の色を浮かべる。
「僕は……こんな風に、助かりたくない。 レニーさん達を囮に使うような真似をして、そうまでして、自分だけ助かりたくない!」
「彼らは、ラキを警護すると言っていました。たとえ彼らがラキを助けるために死んだとしても、ラキが責任を感じる必要はないのではないですか?」
(…………)
「むしろ、彼らのためにあなたまで死んでしまうようなことにでもなったら、それこそ彼らの献身は無駄になってしまいます」
(……わかってる。……理解できないほど、子供じゃない……だけど!)
「そんなのは、――イヤなんだ!」
「アリエル。……転移魔法は使えるか?」
レニーが、背後にいるアリエルに声をかける。
「え? ……え、ええ。でも、得意じゃないから、みんなを連れて、なんてとてもムリ」
「……そうか」
レニーの身体は、もう限界にきていた。
――目眩にくわえ、麻痺が徐々にひろがってきている。
気力だけで立っているが、それも長くはもちそうにない。
ウィルムの攻撃を防ぐだけで精一杯で、とても仕留めるどころではない有様だ。
「……今度の仕事は、いろいろおかしなことばかりだったよな。――放置された採掘場所を指定され、……採掘場所を変えたいと言い出す魔導士に、……落盤事故。――そもそも、採掘の警護をするだけの簡単な仕事に、――なぜ、カイロン帰りの俺が選ばれた?」
「……レニー?」
アリエルは凍り付いた。
レニーは、気付いている――、アリエルのしたことに。
……だけど、だけど――
(……こんなの、知らない!)
アリエルは、今にも泣き出しそうだった。
(――わたしは魔導士長様に言われたとおり、坑道の壁に仕掛けられていた彩剛石の鍵を開けただけ……)
『――ラキシスのことなら、心配ない。彼には、第一世代がついているからね』
翠緑の目にいっぱいの涙をため、肩をふるわせるアリエルに、レニーは苦々し気に唇をかむ。
(……また、やっちまった……)
レニーには、アリエルを責めるつもりなど毛頭なかった。
ただ最期に、確かめておきたかっただけなのだ。
――なんで、こうなってしまったのか、と……
……途切れそうな意識に、今のアリエルに重なる、懐かしい、茶色い瞳………
「…………逃げろ」
「……え?」
「俺が食いとめている間に、転移魔法で外へ出て、一刻も早くこのことをギルドへ知らせろ」
――ウィルムが牙をむいてレニーに襲い掛かろうとした、そのとき――
ウイルムの目の前をかすめて、プテラが飛翔してきた。
プテラの軌跡から落下する、ふたつの光――
ふたつ目の光が落ちた地点を中心にして、光の波紋がひろがり……
――玲瓏な光をまとってフィーと、ラキシスが出現した。
ラキシスが、両手に剣を構える。
伸ばされたフィーの右掌に、紅い一筋の線が走った。
――――フィーの顔がかすかにゆがみ、……掌に鮮血がほとばしる。
さながら、真紅の宝玉が砕け散ったように――
「フィー!」
驚いたラキシスが動こうとするのを、フィーの硬く厳しい眼差しが制止した。
――今しも、レニーに食らいつこうとしていたウィルムの動きが止まった。
ゆっくりと頭をめぐらし、新しい極上の獲物に狙いを定める。
「来ます。ラキ……」
ウィルムが、フィーをめがけて突進する。
フィーの手前で、ウィルムの身体は突如光の柱に包まれた。
――――ひとつ目の光が、落ちた場所だ。
ウイルムの動きが止まる。
同時にラキシスの身体は、ウィルムの頭上にあった。
――――すぐ足元に、ウイルムの頭が見える。
ウィルムの眉間のある一点が、紅く輝いている。
(あれが、的。……小さい!)
―― フィーの言葉が、よみがえる……
『あなたが、確実にできる攻撃は?』
『正面からの、振り下ろし。…………それだけ?』
『移動しながらの攻撃の、命中率は?』
『相手も、動いている場合には?』
『空中で落下しながら、正確に、的をとらえることができなければなりません』
『チャンスは、一度きりです』
『難易度が、高過ぎるのではないですか?』
『……それでも、――やる、と言うのですか?』
「ぅ、わあああああぁ!」
バスタードソードを、渾身の力をこめて振り下ろす。
ウィルムの眉間に刀身がふれる――――
抵抗を感じたのは、最初の一瞬だけ……
まるで、そこになにも存在していなかのように、おりていく。
稽古で切った杭にとりつけた獣の肉塊のときとは、ぜんぜん感触が違う。
――――これは、魔物を斬るための、剣……
剣の軌跡は、紅い光点の、わずかに右……
――――外した?
その刹那。
――刀身が、濃紫の眩い光につつまれる。
光が、ウィルムの急所を示していた、紅い光点をのみこみ、四散した。
――――ウィルムの巨大な身体が、跡形もなく霧散する。
勢い余ったラキシスは、着地に失敗し思いっきりすっ転んだ。
坑内に、静けさが戻る。
……皆が、ほっとしたのもつかの間。
……ずずっ
――――一同は戦慄した。
もう、一体!
だがこのウィルムは、坑道からホールへ侵入しようとしたところを、疾走してきた男の一撃であえなく倒された。
「……ゲルトさん!」
懐かしい師匠の姿に、ラキシスが破顔する。
「ラキシス。よく、頑張ったな」
ラキシスの目が潤む。
――色々なことがありすぎて、ラキシスはゲルトにもう何ヶ月も会っていなかったような気がしていた。
最後に会ってから、まだ六日しかたっていないのに……
「……ゲルト、おせーよ……」
レニーはゲルトに悪態をつける、数少ない人間のひとりだった。
「……随分だな。お前達のおかげで転移魔法で中継地点を三か所も経由して、連続で飛ばされたんだぞ」
「……それで、平気なのか?」
「……ああ。ここに着いた当初は若干感覚がおかしかったがな。今はなんともない」
ゲルトは平然と言ってのけた。
レニーはゲルトに聞こえない、小さな声でつぶやいた。
「…………それ、ふつーは酔ってるぞ……」
駆けつけた張り番の魔導士が、応急的に治癒の魔法を行い、レニーはだいぶ楽になったようだった。
ガイも身体は動かせないが、なんとか意識は回復している。
――レニーには、もうひとつ気になっていたことがあった。
「ラキ。おまえ、稽古ではその剣を使ってたのか?」
「はい」
「…………」
この場にいる、全員の動きが止まる。
――ただひとりを除いて……
「…………まぁ、間違って、振りそこなって自分に当たったとしても、せいぜい打ち身程度だからな……」
「――で、まさかとは思うが、対戦形式の稽古の時は……?」
「…………この剣、でした」
「……………」
この場にいる、全員の動きが止まる。
――ただひとりを除いて……
(――バケモノ!)
この場にいる誰しもが、彼のことをそう思った。
――――ただひとり、当の本人を除いて……