第二章 火花散らす攻防(2)
「エレナっ! なぜあんな馬鹿なことを!」
もはやこれまで、と観念したが、結局二人は無事に喫茶店を後にした。
その帰り道、ディーンの車に乗り込んですぐに、ディーンはエレナを怒鳴りつけたのだ。
「そのサンプル鉱石を奪われるところだった。それは絶対にとられちゃだめ」
「だからって、今後ただじゃすまないぞ!」
「――大丈夫。あなたは不問。私は幽霊。彼女が罰する相手はいない。あの場は監視されていて、それは他の王族がその権限で開示させることができるもの。あなたが不敬な態度を取ったわけじゃないし、彼女は自分の身を守るために、あなたを罰することができない」
「そんなもの、推測じゃないか」
「いいえ、事実。私だって、この国の仕組みについてはだいぶ勉強した。貴族は貴族が監視することで暴走を抑えられている」
エレナの言葉に、ディーンは黙り込む。
貴族たちの雲の上の世界のことなど、自らの興味で詮索することさえ恐れ多かったからだ。それを知ることをせずに来た自らの不明を恥じる。
「とにかく、サンプルを奪われなくてよかった。あの人は、多分その価値を理解できない。最高に近い権限のものがそれを持ってしまうことは避けなくちゃならない。あの人の手に渡さないことがまずは――」
「殿下のことを『あの人』などと呼ぶのはよせ!」
ディーンは、その叱咤の言葉がどのような機構で自らのうちから湧いてくるのか、ほとんど理解できなかった。
王族に対する理由無き畏れ。
彼自身、それが存在することを認めていない。
エミリアに生まれたものが生まれたときから魂に刻み込まれた呪いのようなものと言えた。
「……ディーン。聞いて。あの人――殿下は、まだ自分がしていることを理解できていない。きっといつか理解する、だけど、それまでは、あなたこそが、あれを持ってなくちゃならない」
後部座席に置いた鉱石サンプルの入った鞄に、エレナは視線を送る。
「だからと言って殿下を怒らせたことはまったく無意味だ。丁寧に断ることもできたはずだろう」
「……ごめんなさい。あなたに類を及ばせずに断るための一番の近道だと思った。そもそも、あなたは断る気は無かったでしょう」
「……当然だ」
「だったら殿下もそう思っていたはず。この話が漏れれば、殿下は大恥をかくことになる。怒りに我を忘れたなんてことになればなおさら。だから殿下はおおっぴらにあなたに手を出せなくなる」
エレナの深謀を目の当たりにして、ディーンは、エレナを匿うと決めたとき以上に、彼女の才にめまいを覚えた。
そして、ひとつの冷静な疑問だけが残る。
「……なあ、聞かせてくれ。そもそもの話だ。なぜ、殿下に鉱石サンプルを渡してはならないんだ。僕には、そこが分からない」
ディーンの問いに対して、エレナは少し考え込む。
なぜ私は、彼女にそれを渡してはならないと直感したのだろう。
その答は、シンプルだった。
「殿下は、知るに足る人間ではなかった」
「……知るに足る、だと?」
ディーンは声を裏返しながら聞き返す。
「人が新しいことを知るとき、新しい知恵に対する畏れを持たなくてはならない。謙虚に教えを請う姿勢をとらなければならない。あの人があなたの官報掲載を批判したとき、あるいは、あなたの話をさえぎったとき、あの人にそれがないと分かった」
エレナは、ディーンに禁止された『あの人呼ばわり』をあえて舌に乗せ、リーザの問題点を指摘した。
「……いくらなんでも、実際にあれを研究するのは殿下自身じゃない。殿下にその姿勢が無くても、殿下の雇う研究者はそれを持っているんじゃないか」
「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。……でも、殿下は、例えば、ディーンと、あなたの上司のような研究者、どちらを選ぶと思う? ――きっと、自分の考えに近いものを選ぶと思う」
人の心にそういった作用がきっとあるだろうことを、ディーンは論理的に否定できないことを知った。現に、彼の上司マクフライは、一行官報掲載にさえ苦い顔をしてみせた。とすれば、同じ考えを持つ王女も、実のところはマクフライ並の『事なかれ主義者』である可能性はあるのではないか――むしろ、その可能性は高いのではないか。
なぜ王女殿下がそのような考えを持つのか、僭越に過ぎて推測が及ばないが、その可能性を否定できないことに気づいて、それから、今、鞄の中に鉱石サンプルが無事に納まっていることに胸をなでおろす。そう、まだ誰に託すかを決めるのは、尚早に過ぎるのだ。
「分かったよ、エレナ。君はぎりぎりのところでうまくやってくれた。そう、僕が断れないことまで知った上で。僕は、一度は断るべきだったのかもしれない」
「……いいえ、私こそ、ごめんなさい。きちんとディーンに相談してから、ああいうことはすべきだった」
「そこは、うん、まあ、これからはそうしてくれ。だが、結局、君は誰にあれを託すべきだと思うんだ?」
本来は門外漢のはずのエレナにこのようなことを訊くことさえ馬鹿げているはずなのだが、ディーンはエレナの知性に対して、尋常を超えた信頼を寄せるようになっている。
「分からない。このエミリアにはいないかもしれない」
「……やれやれ。いずれ君は、あのサンプルを持ってこの星を飛び出せと言い出しそうだな」
この娘が一体何者なのか、という疑問が改めてディーンの脳裏をよぎる。
ただの家出娘とも思えぬ知性と機転。
だがともかく、彼がせっかく見つけた貴重な科学的成果は、一時は守れたのだから、その機転に素直に甘えてもよかろう、とディーンは考える。
「必要だったらね」
久々に微笑みを浮かべながら、エレナは彼の心配をあっさりと肯定して見せた。
***
ここにひとつの希望がある。
人類が手にする最後の知恵。
これは救世の奇跡を生むかもしれない。
これは泥沼の争いを生むかもしれない。
けれども、人々はそれを知る。
それを知って、心に落とす。
いずれそれは、私が知る。
すべてを知ることを義務付けられた、この私が。
さあ早くそれを手にとって。
心に落とせるもののところへいざなって。
***
翌日、朝早くにディーンを叩き起こしたのは、調査局からの通話アラームであり、その通話の内容は、『無期限の自宅謹慎』だった。
謹慎となった理由について、調査局の担当者は言葉を濁しながらも、一行官報が不正なやり方で掲載され、取り下げられたらしいことから、上級官僚から調査が済むまで担当者の出勤を止めるように要請されたらしかった。
こうした『表向き』の理由さえうまく聞き出すのにひどく時間を使ったが、結局、ディーンには分かっていた。本当の圧力は、あの第七位王位継承権を持つ王女殿下から発しているのだろうことを。
今の仕事に、未練が無いと言えば嘘になる。
それは、あくまでサラリーに対する未練ではあるが。
あの仕事を失ったら、次の仕事のあてはない。
あるいは、とディーンは考える。
彼のそばに、無造作に巨額の無署名クレジットを懐から取り出す大富豪の娘がいる。
彼女を匿っている、という自負もある。
ありていに言えば『ヒモ』として生きていく道さえある。
エレナが来てから随分と生活は変わってしまったし、これからはもっと変わるだろう。
しかし、彼は、変化を嫌うエミリア市民らしからず、この変化を楽しみつつある自分に気付いていた。
だからその日は、エレナを伴って、郊外の高原に出向いた。今までは、一人でドライブを楽しむだけだったが、ただその隣にエレナを座らせただけだ。
エレナが楽しんでいるのかどうかは分からなかったし訊こうとも思わなかったが、彼はこの変化を好ましく感じた。
実のところ、自宅にいてまたあの王女殿下の襲撃を受けてしまうのが嫌だったということもある。だから、情報端末の電源も切っていたし、腕時計や車の位置情報送出スイッチもオフにしていた。万一事故でも起こせば問題だが、その時はその時だ、と開き直る気持ちもあった。王国に管理されない人生をいうものを垣間見て、ようやく、エレナがリーザに激しく反抗した理由を仄かに理解した気分になったが、それはうまく言葉にならなかった。
高原にはホテルやペンションが立ち並ぶ観光街があり、エミリアの外からの観光客も多かった。
その一角に、古い地球の鉄道の駅舎を真似た小屋を備えた広い公園があり、恋人たちや老夫婦が思い思いに時間を過ごしている。ディーンとエレナもそこに混じり、小屋のすぐそばの目立たないベンチに並んで腰かけて、ほとんど黙って時を過ごした。
夕刻を過ぎてもただぽつりぽつりと語らい続け、自宅に戻ったのは日付が変わるのに近い時刻になっていた。
駐車場に車を停めて自宅に戻ると、果たして、自宅のドアは不自然に開いていた。それは明らかに異常な光景だ。本来なら彼の持つIDが無ければ開け閉めさえできないはずのドアなのだから。
「――ということのようだ。エレナ、君の勘は冴えてるよ。こんな手を使う殿下だとは思わなかった」
ディーンが言うと、
「どうかな。あの人の仕業と決まったわけじゃない」
意外なことにエレナはリーザを擁護した。
「どうして?」
「……王女殿下は、こんな手を使わなくても、あなたをいつでも拘束できる。他の貴族の誹りを受ける覚悟さえあれば。この手段は、誹りを受けるだけに終わらない結果を彼女にもたらす」
「じゃあ何者だ」
「殿下以外に、あなたの発見を知った者。なおかつ、当たり前の手段であなたから発見の成果を譲り受けるわけには行かない者――つまり、サンプル鉱石をこの世から消して、研究の邪魔をしたいと思っている人」
その言葉を聞いて、ディーンはため息をつく。
「泥棒の真似事までして研究の邪魔を? そもそもこの鉱石が何物なのかさえ分からないというのに?」
狙われたサンプル鉱石は、たまたま車の後部座席に放り出したまま持ち出していたのだった。その不用心を反省して持ち帰ろうとしていた彼の右手にあるサンプルを顔の前に掲げ、青い輝きを見つめながらディーンは苦笑いする。
「世の中にはいろんな考えがある。たとえば科学の発展と市民の開明を――いえ、これはあなたは知らなくていい。とにかく、その研究、あるいはその他のいかなる研究分野でも、このエミリアという国が宇宙の先頭に立つことを嫌がっている人がたくさんいるということ」
「馬鹿馬鹿しい」
吐いて捨てるように言ったものの、現実に自宅に泥棒紛いの何者かが入ったことは事実だし、タイミングから言って、狙われたのはこの新種鉱石に他ならないだろう。
「とにかく、それを身に着けて離さないで。どこにいるときも気を付けて。できたら私を常にそばに置いて。もしあなた自身に危害を加えようとする人がいたら私が――とにかく、私も力になるから」
「……それは、この家で君を匿っているお礼かい? それにしては君自身を危険にさらすが」
「……ええ、そのつもり。私は私なりにいろんなことを心得てるから、ディーンの力になれると思う。これは、匿ってくれたことのお礼。受け入れてほしい」
しばらく、真剣なまなざしのエレナの瞳としばらく視線を交じり合わせたのち、
「分かった、頼む」
ディーンは、うなずいて彼女の提案を受け入れた。