第一章 空と地からの来訪者(3)
自宅に帰るとエレナが待っている生活が、五日間、続いた。
ディーンも二十二歳だし、エレナも見たところは二十前後の女性であれば、何か間違いが起こるのに十分な時間ではあるが、不思議とディーンにはそのような気が起こらなかった。
それは、彼女が時折見せる深い知性のようなもののせいだった。
ふとした会話の中で、彼女はとてつもなく分厚い知識の裏付けがあるとしか思えない言葉を発し、あるいは、知能機械『ジーニー』にも匹敵する深い論理的洞察を見せた。
仮にも科学者を名乗り博士号を若くして取得したディーンにとって、エレナは性的興味よりも知的興味を強く刺激するのだ。あるいは、性的な興味を行動に移すことが、そのガラスのように脆い知的な芸術品を壊してしまうのではないかという恐れさえ生んだのだ。
おそらく、僕の想像は誤りではあるまい。
彼女は、どこかの大金持ちの令嬢様で、小さなころから僕等よりはるかに高度な英才教育を受けてきたのだ。
彼はそう思い、また、そういう者に図らずも触れることで自分の知的欲求不満が満たされていることをうすうすと感じていた。
一方のエレナはどう考えているだろう?
エレナにとって、ディーンは確かに好ましい男性だという感情があるにはある。だが、彼女は、もっと大切なものをディーンの中に見出している。
男性としてではなく、知的存在として。
彼女は、彼に匿われなければならなかった。彼のそばにいることこそが目的なのだ。その確信は、彼とともにある時間が長くなるほど、深まっていくのだった。
図らずも、お互いに相手を同じような対象として見ているのだ。その根源的な動機は全く異なるにしても。
「ディーンは、ほかの星のことをまるで知らないね」
いつものように、雑談の中で、エレナは広い知識をディーンに披露して見せてから、最後にそう言った。
「いや、今君が言った程度のことは、ざっとは知っていたよ。宇宙船で宇宙旅行をしょっちゅうしている君とは、経験が違うだけだ」
ディーンはいつものように、エレナの知識に心中で舌を巻きながらも、口をとがらせて反論する。
「そうじゃない。このエミリアってところが、どれだけ奇妙な国かってこと」
「奇妙? そりゃたしかに王制なんて珍しい国だが――」
「たとえば、この国には、教会がある」
「そんなものどの星にだってある」
「そうね、でも、この国には、国教としての正教会があるでしょう。エミリア正教。地球上の国を除けば、こんな国教会があるのは、この星だけ」
「教会が?」
「昨日は当然のようにお祈りに行ったから。それが珍しい習慣だってこと、知らないみたいで」
「――そうなのか?」
エミリア王国をあまねく守護するエミリア正教会。
誰もが週に一度はお祈りを捧げに行く。
それが珍しい習慣だと考えたことなど、ディーンには一度もなかった。
「毎週のお祈り、それから、お布施。よほど熱心な信者でなければ、ほかの星じゃあ、こんなことしている人なんて、いない」
「……じゃあ、ほかの星の人は、一体何を信じているんだい?」
「信じる?」
「そうさ。そりゃ僕だって、本当に神様がいるなんて思い込んじゃあいないよ。だけど、法律が人々の行動を律しているのと同じように、神父様の教えが僕らの道徳を支えている。いないかもしれないけれど、同じ神様を信じている――隣の人もきっとそうだと思うから、僕らは隣の人を慈しむことができる。それを持たない人々は、じゃあ何を信じているのかい? それとも、彼らは隣人を愛する必要はないとでも思っているのかい?」
エレナは、その言葉にうろたえる。
そうした類のことを――つまり、人が道徳心を持って隣人を愛するといった類のことを、彼女は、『長い人生』でほとんど考えることが無かった。人が人を傷つけ、あるいは傷つけないのは、あらゆる意味で合理性にもとづく思索の結果に過ぎないと理解していたからだ。
だから、彼女の合理主義に反する信教というものを知ろうとすることは無かった。少なくとも、後回しではあっただろう。『人』が信教の何たるかを完全に理解するのはまだまだ先だろうと、なぜ信教というものがありそこに慈しみと争いが同居するのか人はまだ答えを得ていないだろうと、考えていたから。それゆえに彼女はあえて知らずに来たと言えよう。
「……同じ神様を信じていれば、愛し合えるの?」
「うん。少なくとも同じ神父様の教えを信じているのなら。そして、その教えの一番の理解者であり実践者である陛下がこの国を導いている限り、僕らは互いを不幸にせずに生きていける」
エレナには、ようやく、その構造が見えてきた。エミリア王国とエミリア国教の共生関係。
古い歴史の知識の引き出しにも、似たような例が数多くあることに気が付く。
王制国家では、しばしば、教会が王権の権威を承認してきた。エレナにとって、それは、ただ蒙昧な民が科学と非科学の区別も付けられず神の救いと罰を恐れる作用を援用しただけに過ぎぬものだった。しかし、信教はただそれだけにとどまらぬ。人の心の在り方という、科学が語らぬことを語ることで、科学とは別の面の人の支柱となり得るのだという。実のところ、過去の数多くの例にあっても、未開の民の畏れではなく、心理的支柱作用こそが、教会の威厳なのだったかもしれない。
エミリアも同じだ。教会が王家の権威を裏付け、王家は教会を国教として崇める。人々の心理的支柱たる教えを王家が共有している、という事実こそが、王家の正統性を支えているのだろう。
「そっか、確かに、ディーンの言うとおりかもしれない。他の星での教会は――もっと、盲信的な人たちのためのもの。でもここでは、教会がずっと身近で、教育的な役割と持っている。そういうことよね」
「……一言で言ってしまえばその通りだけど」
一言で言ってのけられたことを不満に感じたディーンは、ふくれっ面をしてみせる。エレナはそれを見て、くすりと笑う。
「君も一度、お説教を聞いてみるといい。たぶん君が想像しているような頑迷なものでは断じてない」
「ん、機会があったら」
それから、元の話にディーンは戻る。
「だから僕だって、ほかの星の地質的な特徴の大半が海洋に起因するものだってことくらいは知っているし、だからこそ、テラフォーミングで海洋が作られた星では、地質的多様性が乏しいことくらい知っているってことさ」
「だから、ディーン、あなたの仕事は、エミリアの海洋を隅から隅までなめ尽くすまで――つまり、あなたの使っているボーリングパイルが地殻にすき間なくハニカムのように穴を掘り尽くすまで終わらないということ」
「それは逆じゃないかな、どこを掘っても同じだって言ってるんだ」
「どこを掘っても同じくらい低い確率で希少な鉱物があるってこと。古代から海がある地球のように特定の鉱物が一か所に集まるということが無いって意味じゃない?」
この点に関しては、なかなかに二人の意見が一致をみることが無い。おそらく、ディーンはディーンで地質学で博士号まで取得した意地があるし、エレナは様々な星を自らの目で見てきた自負があるということなのだろう。
「少なくとも君は地質学の専門家じゃないし口を出さないで――いや、そうじゃなかったな、そうじゃない」
「そう。別にあなたのやり方に文句があるとかってわけじゃない。ただ、どんなふうにしているのかを知りたくて――」
「そうだった。そうしたら、君が、そんなやり方じゃいつまでたっても終わらない、なんて言いだしたんだ」
この口論の糸口にようやく立ち戻ってきた二人は、ほぼ同時に小さく笑っていた。
「そうだ、口を出すなって思うくらいなら――」
「――ええ、むしろ口を出してみようかな」
どうせどこを掘っても同じなのであれば、いっそ素人のエレナに口を出させてみようとディーンは結論し、エレナはそのディーンの結論を先回りして知っていた。
「今度、どこを掘ればいいと思う?」
議論の当初に広げた掘削計画図に再度目を落とすディーン。
エレナもそれを覗き込み、睨み付けるようにして何かを考えている。
やがて、指を一点に突き刺す。
「――ここ。メッシュ内座標は6272-0501。深度は5500から6000」
彼女の指した地図上の正方形の区画『メッシュ』の中の座標と掘削深度までを、エレナは精密に指摘する。
「……またずいぶんと具体的だな。そのあたりは確か何度か掘ってるが……ま、どうせあては無いんだ。次の計画に組み込んでみよう」
ディーンは笑いながら、彼女の口にした数字の一揃いを自分の端末に記録した。