第五章 科学者の心(2)
あの夜別れたきり、エレナの行方は知れない。
リーザは当然の措置として、あの夜以降、ディーンたちが仮の住まいとしていたホテルを監視していたが、エレナが帰った気配はなかった。
だから、数週間ぶりに帰ってきたエミリアで、ディーンがエレナの行方を尋ねられることは当然だったし、一方、それに全く回答を与えられないことも当然だった。
港湾に浮かんだエレナの宇宙船にも捜索の手は伸びたが、そこにも何も手がかりは無いと言う。最低限の身の回り品や食料とおそらくクレジットクーポンの収められた金庫など以外に目立ったものは何もなく、その船が示したのは、『エレナがまだエミリアのどこかにいる』という事実だけだった。
用心のためとリーザの別荘に匿われていたディーンだが、こういった状況を知るや、自ら捜索に加わることを申し出た。当然リーザは反対したが、彼は、自分が単独行動をとることでエレナから接触して来るかもしれない、と論じて、彼女を説得した。実のところ、エレナを釣り出すには、ディーンは格好の餌であり、倫理観さえ邪魔しなければそれが最も有効な手なのだ。
一方、ディーンはそれに一つ条件を加えた。ありとあらゆる監視行為から開放されること。もしエレナが本当にあの手記の通り『全知の魔物』だとすれば、監視の存在は即座に見破られる。ディーンが不用心に一人きりになっている必要があるのだと説いた。もちろん、ディーンにはもう一つ下心があった。――もしエレナに接触できたら、誰にも知らせぬつもりで、彼女の目的を知ることだ。
その日は朝から雨だった。
***
古い自宅にも、最近のねぐらにも、全くエレナの気配がないことを知ったディーンは、もしやと思い、車に乗り込んだ。
彼が車を走らせた先は、いつか、エレナとともに一度だけ訪れた観光高原。
駅舎を真似た小屋の側に車を停め、冷たい霧雨を浴びながら、その脇にある小さなベンチに向かった。
そこには、全身をしっとりと濡らせた彼女がいた。
エレナ・ユーニス・エンダー。
あの恐るべき技巧で敵をなぎ倒した彼女からは想像もつかないほどその背中は小さく、濡れそぼったシャツはそれをさらに小さく見せていた。
「――エレナ」
ディーンの呼びかけに振り向いた彼女の表情は、以前と同じ。何も考えていなさそうで、何かを憂えていそうで。
「ずっとここに来ていたのか」
ディーンがここに来るかもしれないと思って。
リーザたちにも知られていない、二人だけの知るこの場所で。
「いいえ、今日あなたが来ると知ってた」
そのエレナの小さな返事に、ディーンはぎくりとするが、
「いいえ、嘘。毎日……ここに来ていた。でも、あなたが、さっきの私の冗談を冗談とは思えないように変化したということは、分かる」
それは、ディーンが、惑星マリアナで、魔人エレナの秘密を知ったこと。
「……とにかく、濡れない場所に行こう。僕の車がある。風邪をひく」
ディーンが誘うと、エレナは、そうね、と小さくつぶやいて立ち上がった。
車に乗り、タオルを渡すと、エレナは少し逡巡してから、それで濡れた髪を拭いた。シートに備え付けのボディドライヤーの空気は瞬く間にエレナの濡れた服を乾かしていく。
「……鉱石は」
ディーンが何を言おうかためらっていると、先にエレナが口を開いた。
鉱石。
あの、新種の鉱石。こんな状況になっても、彼女はこんなことを気にしているのか。ディーンは、その心中のもやもやを深めてしまう。
「リーザに渡した」
実のところ、その鉱石は、この車のトランクに大切にしまってある。リーザに渡すよう何度か促されたが、エレナとのことを片付けるまでは渡す気になれずにいたのだ。リーザとしてもそれ以上無理強いすることなく、その気になったら渡せばいい、と言った。だから、実のところ、鉱石をリーザに渡したというのは、嘘だった。
「……そう」
今度は明確に落胆の表情を作り、エレナは、ため息をついた。
やはり、エレナの目的の焦点は、あの鉱石なのだ。
エレナの目的とは、何だろう?
あの鉱石を入手して、何かを――マリアナか、マリアナを支配するマカウかに、もたらすことなのだろうか。
「君の正体を知った」
試すように、ディーンは言葉を継いだ。
「……そのようね。だったらこれ以上、話すことは無い。これでお別れ」
エレナは、頬をぬぐったタオルを、右手でディーンに差し出した。
ディーンはそのタオルごと、エレナの右手を捕らえる。
「聞かせて欲しい。君の目的はなんなんだ。エンダー博士の手記を読んだ。彼は、君に何かを託して、旅立った。彼はいったい、君に何を残したんだ」
エレナは、しばらく、つかまれている右手をじっと見つめた。
そして、ようやく口を開く。
「博士は、こう言った。『人類を、頼む』と」
***
しん、と静まる車内、強くなった雨がフロントガラスを叩く音が響く。
ディーンは、エレナの言葉の意味を考える。
人類を頼む、とはなにごとだろうか。
そこから、あの鉱石に、この僕に、どうつながるのだろうか。
「私は、この私の、あらゆるものを見通す眼で、人類の進歩を守るよう、博士から言い付かった」
再び、ぽつり、とエレナがしゃべる。
「どういう意味だい」
「そのままの意味。人間の歴史は、合理と不合理の繰り返し。時に集団意思は、とてつもなく不合理な判断をする。せっかく見つけた進歩の芽を自ら摘み取る愚を犯す。そうしたものを見つけて、保護すること」
「……それが、僕の見つけた鉱石、そういうことか」
「……たぶん、そう、としか言えない」
「たぶん? でも君は――」
「博士の手記を読んだのなら、私が全知の存在だと考えていると思う。けれど、その能力は薄れているの。確かに最初のエレナが持っていた神経の幾何学的相補関係は、エレナとエクスニューロの同化を通して、エクスニューロ内に正確に再現された――けれども新しいエレナの神経が干渉することでそのベクトルポテンシャルにひずみが生じ相補係数は外部干渉強度カッパーの――」
「ごめん、分かった。いや、分からないということが分かった」
ディーンは思わず苦笑を漏らす。
「ともかく、そうかもしれないものを片っ端から見つけては、それを守るために行動してる――そういうわけか」
「ええ、そう」
「いろいろと話は符合する」
符号はするのだが、それでも。
「だが、結局君がやってることは、銃の引き金を引いて誰かを傷つけることだ。君がもし人間に仕えるロボットなのだとしたら、君は人を傷つけてはならないはずだ」
「でもそれは大局的に――!」
反射的に言い返しかけたエレナは、すぐに口を閉じ、首を横に振った。
「信じられないのなら、いい。ただ私は、そうあるだけの存在だから。私はここにいる、リーザに通報したかったら、そうするといい」
エレナは言いながら、ドアノブを引く。
外気の濡れたにおいが車内に充満する。
「――おたがいに、もうかかわるべきじゃないのかもしれないね」
ディーンは、今度はエレナを止めようとせず、背中に声をかけた。
「そうね」
つぶやくように返し、エレナは再び雨に濡れながら、公園を横切って消えていった。




