第五章 科学者の心(1)
■第五章 科学者の心
ディーンは、その『日誌のようなもの』を開いた。
それは、語る。
『私は生かされた。あの男は死に、シャーロット君は去り、私にはもう何も残っていなかった。だが、私の研究室に、彼女が残っていた。エレナ。あの男にいいように利用され、傷つき、死を待つだけだったはずの彼女。エレナは、傷つきながらも、そこに残ることを選んだ。彼女自身の意志はもはや確認のしようがなかったはずなのに。だから、私は、もう一度だけ、自分を試すことにした。救いを求める彼女に、手を伸べることにした。彼女のブレインインターフェースを再設定し、彼女を呼び起こした。古き記憶と機械の記憶を取り戻した彼女は、彼女自身の行った残虐をひどく悔いていた。悔いるべきは私なのに。だから、私は、彼女に新しい目的を設定してやらねばならぬ、と思い至る。生きることを命じられた私はそれをやらねばならぬのだ』
「……エレナ。エレナと書いてある」
ディーンは思わずつぶやく。
「……それは?」
リーザがそのつぶやきを捉えて、彼に近づき、ノートを覗き込む。
「表紙のタイトルを信じるなら……リチャード・エンダー博士が三百年前に書いた手記だ」
「馬鹿な」
リーザはため息をつく。
もしここに書かれたエレナの名が、あのエレナだとするなら、三百年前の亡霊がよみがえったということになる。
まさに、馬鹿な、としか言えない。
『エレナの古き記憶は機械の記憶と交じり合い、彼女に混乱をもたらした。インターフェースの結合強度を強めたことは、やはり悪影響しか及ぼさない。これでは彼女の寿命も、もって数年だろう。混乱した彼女に、再び、私の、我々の物語を聞かせることにした』
『フェリペ・ロドリゴ・デ・パルマ。エレナを作った張本人。戦争孤児だった”エレナ”を調達し、普通ではありえない強度で脳改造を施した。その目的は、彼自身の知への欲求を満たすこと。完全なる知。それが彼の目的だった。私の発見した脳量子情報学は、それを可能にするかもしれなかった。少なくとも、たった一人だけ、それらしい成功例を見つけたのだ。だがその一人は、すでに我々の手から失われていた。だからフェリペは、エレナを作ったのだ。そして、エレナは貴重な二例目となった。言い換えれば、作為的に作られた”魔人”としては初の成功例となったのだ』
『君は魔人だ、と告げた私の言葉の意味を、エレナは理解していただろうか。明日にでももう一度、確かめねばなるまい。全知の魔人。時と不確定性の壁を超え、あらゆる事象の真実を見抜く瞳を持つ魔人。彼女が何を道しるべに生きていくべきか、私は科学者としてではなく、保護者として、彼女と接しなければならない』
ページをめくるディーンの指が止まる。
文字を追っていたリーザの目もそうだ。
「……全知の魔人だって?」
ディーンは独り言のようにつぶやく。
それなりの科学的素養を見込まれて研究員となった彼だからわかる。
『全知』などありえない。
観測されるあらゆる量は、誤差を含まざるを得ないのだ。
「どういう意味?」
ディーンのいぶかりの真意を計りかねたリーザが、ディーンのつぶやきに問い返す。
「――全知、全てを知る、科学的にそんなことがありえるのか――ありえないはずなんだ、なのに、エンダー博士は、ここにそう書いている。僕には計り知れない何かがあるのか――」
「博士がもうろくした、か?」
リーザの言葉に、ディーンはうなずく。
「それにしても、ここに出てくるエレナは、あのエレナと同一人物なのだろうか」
「ありえないわ。三百年前の人物よ」
ディーンも、その言葉を肯定するように頭を振る。
そして、次のページをめくる。
『エレナはそれを理解していた。当然だ。彼女は全知の魔人なのだから。彼女の混乱した記憶は、徐々に再統合されつつあった。すなわち、エクスニューロの中に、昔消えたはずだった全人格が再構成されつつあるということだ』
『彼女の知らぬところで進んでいた物語。フェリペは、シャーロット君――最初の魔人――をも手に入れようと、策を弄した。エレナを直接けしかけたこともあれば、シャーロット君が身を寄せる武装集団を壊滅に追い込むこともした。最後にシャーロット君を追い込もうとしたときには、エレナの同僚たちを何ダースも犠牲にした。フェリペの身辺警護を命じられていたエレナは、その事実を知らなかった。彼女は再び涙を落とした』
『シャーロット君は、エレナに打ち勝ち、そして、フェリペを倒した。そこからは、エレナの知るとおりだ。シャーロット君たちは旅立ち、抜け殻のエレナだけが残された。その人格をエクスニューロの中に残して』
『まずはエレナを再調整しなければならない。少しでも長く生きながらえることができるよう。それでも、その寿命は数年を超えることは無いだろう。この宇宙に二粒生まれた奇跡の一粒は遠く奪われ、もう一粒はここにはかなく消えていく』
「数年……」
「でも、おかしなことも書いてある。この『エクスニューロ』という何かの機械の中に、エレナの全人格が再形成されているということだ」
ディーンはリーザのつぶやきに返す。
「つまり、ある意味で、エレナは、機械の中で永遠に生き続けられる」
「それはそのとおりかもしれないけれど、でも、あなたの見た『エレナ』は生身の人間だったでしょう。私は少なくともそう見たわ」
「確かにそうなんだけど……このまま何冊分も読み進めても仕方がない。……そう、この『エレナ』が消えるところを探そう」
見たところ、一冊に二、三年ほど分の手記が収められている。あてずっぽうに二冊目を開くと、そこにはまだエレナが存命で何の調整をしただの誰が訪問してきただのということが書いてある。
三冊目の終わりのほうをぱらぱらとめくったとき、そのページは唐突に視野に飛び込んできた。
『エレナが死んだ。高熱を発し意識を失ってからはあっという間のことだった。あの事件から八年。あの接続強度で手術を受けながらもよくがんばったものだと思う。これで、私は人生の目標を全うした、そう思い、ほっとした気持ちがあったことは事実だ。だが、彼女の全人格と魔人としての能力を受け継いだ黒い箱――エクスニューロ――は、まだここにある。エレナはまだ生きている。かつて、私はエレナを生かすことだけを目標とし、エレナには生きることだけを目標として設定した。だが、これからも生きつづけるエレナには、別の目標が必要なのだと知った』
そして日付が飛び。
『以前にも書いたとおり、エレナのかつての同僚の数人が私を手伝うために帰ってきている。その中の、ロレッタという娘が、エレナのエクスニューロを受け継ぐことを申し出た。この数日、日誌を書かなかったのは、ロレッタとエレナの接続に奔走していたからだ。ロレッタのインターフェースはエレナのエクスニューロと接続しても正しく機能した。エレナがかつてそうであったように、エレナとしての記憶と、ロレッタとしての記憶をあわせ持っていた。そして彼女自身が、”エレナ・ロレッタ・エンダー”と名乗ることを申し出ると、私はつい親心のようなものを催してそれを受け入れた。この私が、娘、を持とうとは』
――これが、エレナの秘密か。
無言で、ディーンはうなずいた。
元のエレナは、なんだか分からないが『エクスニューロ』という機械にその人格を封じ込められている。それを人間に接続することで、その人間がエレナ自身になってしまう、そういうことなのだ。
「まるで不老不死の化け物ね……」
リーザが言い、ディーンはその言葉にぞっとした。
「全知……不老不死……たしかにここに書いてあることが本当だとしたら――」
化け物、としか言いようがない。まさに、エンダー博士の記したとおり『魔人』という呼び名こそふさわしい。
彼女を不死の女傑と呼び恐れるものがいるが、その二つ名はまさに体をあらわしていたことになる。
では彼女の目的は何か。
何のためにエミリアを訪れ。
ディーンに接触したのか。
急く心を落ち着け、ページをめくり冊子をたぐる。
『マリアナ政府は安定し、大学や研究所も運営が再開されて久しい。研究者公募の知らせを見つける。エレナ・ロレッタの勧めもあり、非人道的なエクスニューロ実験のことを伏せ、その情報処理の核心部分を論文化して応募することにする』
『論文の反響は大きく、思いがけず計算機科学研究所の所長の椅子を与えられることとなった。その場所は、奇しくも第五市の旧計算機科学センター。第三市の自宅にあった様々な機材を運び込む許可も下り、これから綿々と続く”エレナの系譜”は、いずれ、第五市を故郷とするだろう』
ここにエレナが居を構えた理由は、これではっきりしただろう。
ここは、エンダー博士の墓標なのだ。
『人づてにシャーロット君のその後を知った。俗にシャーロットコピーと呼ばれる完全なコピーを作成するプロジェクトが動いているのだと言う。いずれ、人類の誰もが設計すらできなかった知能機械となるだろう。ただし、その核心部分である量子予測に関しては正しく機能しないであろう。それは、人類の大きな損失となる。悩んだ末、私は、注意深く、あれが私の手によるものだということに感づかれぬよう、シャーロット君の数理モデルを論文化して公表することとした。いつか、彼らの挑戦に役立つかもしれない。私は、エレナの系譜を守るのみだ』
シャーロットコピーと呼ばれる知能機械があっただろうか? ただ、少なくとも、エレナと同類の機械がどこかでコピーを試みられたことは事実だ。
あるいは、魔人たる『シャーロット』の機械化はどこかで失敗に終わり、もはや残された魔人はエレナたった一人なのかもしれない。
その残されたエレナに託された使命とは。
『エレナ・ロレッタは私より長生きすることになるだろう。私は、せいぜい後数年、短ければ今年中には世を去ることになる。彼女には、彼女自身を次の世代につなぐ術を与えた。そして、ささやかな使命を。とてもエレナの手に負えるような使命ではないし、彼女自身も、そのようなことができるとは思っていまい。言葉にすればささやかだが、それは永遠に果たされぬ使命なのだ。ただ、エレナが永遠に在ること。それが私の願いであり、だから、私はエレナに不可能命題を与えたのだ』
ささやかながら不可能な命題。
それがエレナに課された使命。
エンダー博士の手記は、ここで途絶えている。
おそらく死期の近づいた博士が最後に残した手記だ。
エレナ・ロレッタ・エンダーは、この手記を携えて秘密の地下室に入り、その扉を閉ざしたのだろう。誰にも見つからず、その系譜を守るため。
エンダー博士を見送ったのか、見送ることさえ許されず暗い地下で使命の途についたのか。
ディーンは、彼女が永遠に近い孤独をこの地下室で過ごしたことを思うと、感傷的な気分を覚える。
「……吐き気がするわ」
リーザがつぶやいた。
そのあまりの孤独を想い、そう舌の端に乗せたのだろうと考え、ディーンもうなずいたのだが――。
「あの女は、この記録が正しいとするなら――三百年もの間、こうやって生きてきた。体が古くなると新しい体を乗っ取って――誰かを食い物にしながら。平和で幸せに暮らせるかもしれなかった赤の他人の人生を奪い続けてきたのよ」
ディーンは思わず目を見張り、そして、彼女の瞳を覗き込んだ。
そうだ。
どうしてそのことに気付かなかったんだ。
――やはり自分は、エレナに肩入れしすぎている。
なにか、心の中にあった、エレナに対する甘く苦い塊が、溶けて消えていく感覚を味わう。
エレナとすごした日々は、確かに楽しかった。
だが、あれは――そう、確かに、本来あってはならない存在なのではないか。
仮に彼女の知性に惹かれていたのだとしても、その知性は、この記録に名を残す『エクスニューロ』という機械のそれに過ぎなかったのかもしれないのだ。
彼女に対する何らかの気持ちは、誤解に過ぎなかった。
そうなのかもしれない。
そうだとしても。
「リーザ……その……僕も目が覚めたような気分だが……でも、それでも、彼女はそう生きるしかなかったってことは、理解してあげられないかな」
ディーンは、改めて、エレナの不憫な境遇を想う。そのことを、リーザに訴える。
「……ええ、それは、分かる。頭では分かってる。でも、いろんな人を食い物にして生きてきて、あの戦闘能力で多くの人を傷つけてきて……じゃあ、あの女が、あなたに目をつけたのはなぜ? エミリアに目をつけたのはなぜ? 結局、あなたも――私のエミリアも、あの女の食い物にされるだけかもしれない。そんなことは許せないわ」
改めて、リーザは、エミリア統治者一族として断言する。エレナを許さない、と。
「……戻りましょう。そして、あの女を追い出す準備をしましょう。彼女の目的は分からないし知りたくもないけれど、彼女の目的が何であれ、エミリアに『あれ』はいらない」
毅然とした瞳でディーンを見つめ返すリーザに、彼はそれ以上何も言うことができなかった。
彼自身は、エレナの目的を心から知りたがっているということも。




