第三章 マリアナの悪魔(4)
なんと人は愚かなのか。
甘言を容れ、真実を遠ざける。
知ることは何より尊い在り方。
人が人であるための在り方。
だから人は、命を賭してでも知るべきなのに。
潮目は知を忌む澱みを作る。
時にそれは命の尊さ。
時にそれは死への怖れ。
瞳を見開き知を求めるよりも安寧の眠りをむさぼる。
たった一つの希望を人の手に。
その些細な願いは、愚かな潮目に絶たれてしまった。
あれは愚かな人間。
愚かなものに突き動かされる人間。
愚かなものこそいとおしいと思うことさえかなうならば。
今の私にはそれはかなわない。
私は、彼を、彼女を、いとおしむことができない。
私に心があるがために。
私に残る人の心は、絶望の扉をノックする。
私の人への希望は、絶望に変わる。
***
王女殿下の用意した車に乗せられ、ディーンは全く知らない場所に連れられていた。
もちろん、目隠しなどをされたわけではない。
だが、車の窓から見える光景が、港町の雑然とした雰囲気から、やがて古びて趣のある穏やかな街並みに変わったことはすぐに気が付いた。
彼の住むマリーナロメアから車で一時間ほどのところに、第二王都とも呼ばれる都市、モデナがある。そこは、王都グランデカポルオーゴを真似て中世風の街並みが再現されていると言うが、その実物を見たことのない彼にも、すぐに彼が連れられて来た場所を理解することができた。
町に入ってからさらに二十分ほど走った車は、やがて小さな丘の斜面に建つ豪邸の地下駐車場に入る。
停車した車から降りるように促される。一緒に来ていると思っていたリーザは、全く姿を見せない。ともかく、彼女の侍従のその男に従うよりほかない。
長い傾斜エレベーターを降りると、突然にまぶしい光が彼の目を射した。
そこは目もくらむような絢爛な内装と明るいシャンデリアで飾られたホールだった。
エレベータの降り口にも、ホールから続いている玄関と見られる出入り口にも、屈強な衛兵が立っている。エレベーター付きの衛兵は、ディーンの姿を見て、ぴしっ、と敬礼をして見せた。少なくとも、ここでは彼は敬意を払われる対象であることに、彼はほっとした。
侍従に連れられて、ホールの先の大階段の脇に続く廊下を進む。両側には真っ白いドアがいくつもあるが、それぞれの中がどうなっているのか想像もつかない。ドアとドアの間隔は広いところで十メートルを超えており、その内側の部屋がいかに広いかを思わせた。
やがて一番奥から二番目の部屋が恭しく開帳され、ディーンに対し、この部屋でくつろぐように、とのメッセージが伝えられた。ここにきてようやく、彼は、リーザの用意した邸宅に一室をあてがわれ、当面そこで過ごせるよう手当されたのだと気が付いた。
気が付くと、彼がホテルの部屋に放り出してきた身の回り品も運び込まれている。本格的に彼がここで暮らすことをリーザは指向しているものと見える。
最後に、侍従が去る直前、ディーンはようやくここがどこなのかを彼に聞くことができた。
「王女殿下の別荘でございます」
侍従の回答はこのただ一言だけだったが、それで十分な情報だった。殿下は、自らの別荘でディーンを匿うと決めたのだった。
そして一人になり、部屋を見回す。
ウォールナットを基調とした家具と、白い壁紙、というシンプルなインテリア。清潔そうなベッドがあり、来客用も含めたソファーセットがある。部屋の左奥には洗面室に続くと思われるドア。キッチンが無いことを除けば、ディーンが元住んでいたマンションの部屋よりもよほど上等だ。
大きな食器棚のようなものが見え、興味をそそられて開けてみると、大量の本が納められている。半分くらいは文学作品のようで、いくつかはタイトルを聞いたことがある。古代の名著と呼ばれるものもある。その中でも飛び切りに装丁が擦り切れて古びている『シェイクスピア全集』と銘打たれた十数冊のシリーズ本のひとつを手にとってページをめくってみたが、ほんの数行読んだだけで理解できない表現に当たってしまい、読み進めるのをあきらめた。
残る半分は、実用書、特に、エミリア地質学会の雑誌六年分七十二冊をはじめとする地質学に関する教本が大半を占めている。まさしく、これはリーザがディーンのために用意させたものだろう。彼女はいつから、ここにディーンを匿う可能性を考えに入れていたのだろう?
学会の雑誌など実のところ数えるほどしか手にしたことの無かったディーンは、最新の一冊を手にとってめくる。
彼がライフワークとしていたボーリング調査の結果などはほとんど見られない。ほとんどが、空想上の論説だ。エミリアという惑星の形成時期、そこから予想される地質的特徴、鉱物埋蔵量の推定や、他の惑星との比較、分類。ほとんどが、この惑星にエミリア王国という国が生じる前に行われた古い調査結果をひたすらにほじくり返すだけの空論。ここ数年行われてきた実地調査の結果はまるで影響を与えていないし、そもそも、調査局の人間が地質学会に一篇でも投稿したという話さえ聞いたことがない。隠遁生活を送る大学の学者たちと、実地調査を行う調査局の学者の間には、とてつもない高い壁がそびえ立っているのだ。
結局、ディーンもその高い壁のために学会誌への興味を失い、手持ち無沙汰にソファに腰掛ける。
ちょうどそのとき、ドアが開いた。
相手が王女殿下なら、無作法に本棚の前に立っていなくてよかった、とほっとしたが、入ってきたのは王女でもなく、また別の緊張に襲われることになる。
「ディーン・リンゼイ君だな。直接ははじめましてということになる。俺は殿下付衛兵、オズヴァルド・セラーティ。よろしく」
青いシャツと茶色の皮ズボンの上からでも隆々とした筋肉を主張する巨躯の男は、そう名乗って右手を差し出す。
ディーンもおずおずと立ち上がり、それから、差し出された右手を取る。
「ディーン、リンゼイです。セラーティさん、よろしくお願いします」
「オズヴァルドでいい。俺もディーンと呼ぶ。殿下のお気に入りの平民と聞いてな」
平民と呼ばれてみて考えると、伝統的なイタリア系の名前に聞こえるオズヴァルドは、貴族なのかもしれない。そう思ってディーンがファーストネームで呼ぶことをためらっていると、
「――爵位は騎士補だが、気にするな。騎士にもなれない貴族の端くれ、平民と何も変わらんよ」
言いながら、オズヴァルドは豪快に笑う。
「分かりましたオズヴァルド――よろしく」
ディーンがようやく言うと、彼も大きくうなずく。
「殿下の命でな、君を鍛えるように、と」
「……僕を?」
「分かってるだろう。あのエレナとかいう女。もしかするとこれから俺たちは百人のエレナを敵に回すのかもしれん。一人であの強さ――俺でも五秒ともたんが――あれが、仲間を連れて本気で君を潰しに来たら、守りに徹しても守りきれるもんじゃない。そういうわけで、最低限の戦闘技術は身につけてもらう」
ははあ、彼が、リーザに『一番の腕利き』と呼ばれた男か、と得心しつつ、ディーンの中では、エレナに対する底知れぬ恐怖と、彼女に寄せた暖かい気持ちとがせめぎあい、彼女を敵と認識しきれないでいる。
「……彼女は、話せば分かってくれると思うんだ。あれもただ僕を守ろうとして――」
「――武装した男たちを一瞬でなぎ倒したわけだ。間違いなくどこかで訓練を受けたものだ。なるほど、君を守ろうとした、よろしい、それは否定はせんよ。では、守るべき理由は? ――誰も分からん。すなわち、その『誰にも分からぬ理由』が消えた瞬間、君の敵になる。そして何より、すでに我がエミリア王国の敵である」
「……それは分かるよ、エミリア臣民を害した、殿下はそうおっしゃった」
「だから、殿下は、あの女の身元探索のために自ら乗り出すつもりだ。できるだけ少数の護衛をつけて――おそらく目的地は外国になる、目立つとまずいからな」
「で、殿下自身が!?」
思わずディーンは声を裏返らせる。
「そうだ。元々行動的なお方なのだよ」
言われて見れば、鉱石を手にしたというディーンを真っ先に訪問してきたのは、リーザ本人だ。周りを固めていたとはいえ、たった一人、無防備に。
「殿下は、その行動に僕を同行させるつもりなんだね――確かに、僕はそこに同行しなくちゃならない」
エレナが何者であれ、彼女のルーツを探り当てる瞬間には、自分が立ち会わねばならない。
女神のような知性と悪魔のような暴力を併せ持つ彼女のルーツ。ディーンにとっては、むしろ、その知性の源泉こそ知りたいところだった。彼が狂おしいまでに彼女に惹かれたその魅力の秘密。
「そして、行動的な殿下は、どうやら明日の晩餐に君を招待するそうだ。ちょっとした舞踏会も催されるという。俺に与えられた使命のもうひとつは、君に殿下と踊れるくらいの舞踏を叩き込むことだ。この上ない名誉だ、心しろよ」
オズヴァルドは、そう言ってちょっとだけ羨ましさのこもったいたずらっぽい笑いをディーンに浴びせた。




