第三章 マリアナの悪魔(3)
ディーンの前に戻ってきたエレナは、体中に返り血を浴びていた。
それは、純粋に彼を怯えさせた。
近づく彼女に対し、彼は、一歩後ずさり、それ以上後ずさることを抑えるのに非常な努力を要した。
「――もう大丈夫。敵はいない」
エレナが言うが、ディーンにとっては、神経銃を持った黒尽くめの男一ダースよりも恐ろしいものが目の前にいるように思えるのだ。
「君はいったい――」
何者だ、という言葉が出てこない。
それを聞いたとき、自らの命も失われるのではないかという恐怖に口をつぐむ。
「……どうしたの」
そのエレナの言葉は、あまりに無邪気だった。
たった今、恐るべき殺戮劇を繰り広げた人間の口調とはとても思えなかった。
「……君は、人を殺した」
震える声でディーンが指摘する。
「――あっ。ごめんなさい、説明するべきだった。殺してはいない。ちゃんと急所は外してるから――」
「急所? どういうことだ? 意味が分からない。君はあの古い銃であいつらを撃ち射抜いて、ナイフで切り裂いて――殺すのと何が違うんだ」
ディーンは混乱で自分が何を言っているのかさえ分からない。
分かるのは、もしエレナの言葉が事実であれば、相手の血しぶきを浴びながらも、殺す相手と殺さない相手を選べる悪魔のような人間に自分が対峙しているということだ。
「なるべく殺したくないから。ずっとずっと昔私は――」
「やめてくれ、聞きたくない。『なるべく』だって? じゃあ君は殺せるのか? 少しの勇気だかなんだかを振り絞れば君は人を殺せるのか? 僕はそんな――」
「ディーン、お願い、聞いて」
「嫌だ!」
叫ぶように拒否の言葉を吐きだし、ディーンは耳をふさぐ。
エレナは、このような人を、何度も見てきた。
彼女が彼女自身と――――を守るために、時には敵対するものを手にかけたとき。
感情を押し殺し仕事として働いたときにはそのような目を向けられることは無いのに、彼女が、その本当の目的のためやむにやまれずそれを行ったとき、それを見ていた『守るべきもの』の反応は、やはり同じだった。
――そうなると分かっていた。
彼女の知性が知り得ないその反応は、しかし、彼女の経験が理解していた。数少ない、彼女自身の理解による『知』だった。
彼女は、彼女自身の理解外の力で、ディーンを守るためにこの星に来なければならなかったことを知った。
だから、こうして彼を守るべき行動をとることを知っていたし、その結果、彼がどのような感情を彼女自身に向けるのかを知っていた。
ただ薄ぼんやりとした予見があり、直感の命じるままに行動し、そして、やはり、こういう結果にたどり着くのだ。
いずれは消える。交わした約束を守ることなく。それをとがめられることも無く。
今度もそうなるだろう。
あきらめに似た感情が湧き起こり、エレナは踵を返した。
「……私が必ず守るから。そのために私は来たんだと思うから……あなたに迷惑はかけないよう努力する」
その言葉だけを吐き残し、エレナは非常階段に向かう小さな四角い枠をくぐり抜けた。
***
ディーンが放心していると、エレナが消えた扉が、ふたたび動いた。
そこに姿を現したのは、彼がもう一度見たいと願った姿ではなく、長いダークブラウンヘアをなびかせた、リーザだった。
彼女は後ろについてきていた侍従だか衛兵だかに素早く何かを命じ、命じられた者は、それに従って転がって呻いていた男たちを片付け始める。手際よく、というには準備が良すぎるほどに、担架など応急処置のための機材があざやかに展開される。
気が付くと、リーザは一人でディーンの目の前に歩み寄っていた。
「……途中から見ていたの。本当は、衛兵を繰り出して守ることもできたんだけど……あの女を少し試してみたいとも思ったのよ。そうしたらこれ」
彼女は低い声でディーンに告げる。
王女自身が、彼を守るために動いていたこと。
その結果、予想だにしない結果を目の当たりにしたこと。
「正体がつかめないところから、おかしいと思っていたのよ。言って。あの女は、何者?」
リーザの厳しい詰問に、精神を疲弊させたディーンは、気づかぬうちに口を開いていた。
「――家出娘なんだ。いや、そう思っていたんです。ある日沖合に不時着した宇宙船から出てきて――いなかったことにして匿ってくれと言われて――それから、一緒に過ごしていたんです」
「――それで?」
それは、結局、正体はなんなんだ、という質問なのだが。
「僕にも正体は分からない、分からないんです、リーザ。助けてください。僕はいったい何に巻き込まれているんです」
「あなたが分からないんなら、誰にも分からないのよ。……そう、あなたにも正体を隠しているわけね。その割には、あなたは随分とあの娘に肩入れしていたようだけど?」
「――正直に言って、若い家出娘、それに大富豪――役得だな、と思わないでもなかったんです」
「大富豪?」
「……こんなものを、ことあるごとに懐から出すんです」
エレナにもらってポケットに入れたままだった匿名クレジットクーポンを出して見せる。
「……ふん、庶民には過ぎた大金ね。あなたも随分な俗物なのね」
「すみませんリーザ……こんなことになるなんて思わなかったんです」
「……こんな時にあれだけど、半端な敬語はやめない? これから私とあなたは――もっと力を合わせる必要があるの。いい? あれは、悪魔よ。私の衛兵の中で一番の腕利きに、勝てるか、って訊いたら、一対一なら五秒以上立っていられる自信が無いって言うのよ? あんな華奢な体で、いかつい男たちを七人、瞬く間になぎ倒す悪魔……いい? あれはこれからあなたの――エミリア王国の敵になるのよ?」
「まっ、まだそうと決まったわけじゃ――」
「エミリア臣民を害したものはエミリア王国の敵です!」
リーザは、鼻息荒く宣言する。
たしかに、ディーンを手荒に扱おうとしていたとはいえ、その男たちはエミリア人であり、それを傷つけたのは外国人のエレナなのだ。
「……それに、あの冷酷さ。あなたは、これまでそういうところをちっとも感じたことは無かったの?」
「いや――ただちょっと、無愛想な娘だと思ってた」
何とか敬語をやめ、応える。彼がリーザの指示に素直に従ったのは、彼女への共感とエレナへの恐怖が半々くらい寄与していただろう。
「じゃあ今すぐあの女から離れて。何をたくらんでるか――もちろん、これから徹底的に調べなきゃならない。でも、あの女の用事がすんだら、あなたはきっと――殺されるわ」
「殺される……僕が?」
「分からないの? あれだけの男たちを表情一つ変えずに殺せる女よ? 目的を果たしたら……たとえば、あなたから鉱石サンプルを奪ってしまったら、もうあなたには用が無い。結果は火を見るより明らかよ」
「待ってくれリーザ、だったら、彼女はただ僕を殺して鉱石を奪って逃げればいいじゃないか。だが、彼女は随分と回りくどいことをしてる」
「その通りよ。だから、あの女の目的がつかめないの。でも必ず突き止める。目的さえ分かれば、あなたを守ることもできる。いい? これはもう駆け引き抜き。確かに私はあの鉱石サンプルを欲しいと思ってる。私自身の目的のために。でも、あなたを害してまでなんて思ってない。貴族連中の目が光ってるってこともあるし――私は人を傷つけたりするのは苦手だから」
ためらいがちにリーザがそう言ったとき、彼女を後ろから呼ぶものがある。衛兵の一人だった。処理が終わった、と告げる声だった。
「――続きは、別の場所にしましょう。あの女がまだ近くにいるかもしれないと思うと、落ち着かないわ」




