第三章 マリアナの悪魔(1)
■第三章 マリアナの悪魔
翌朝、王立保険組合から多額の災害補償金が振り込まれていることを知ったディーンは、ひとまずどこかのホテルに居を構えることに決めた。
ただ、現実に王女の鋭い興味がエレナに向いていることを考えると、不用意な同居を避けるべきだと考え、エレナの部屋は隣室にしてもらうことにした。
車の中にわずかに持ち出していた荷物と、部屋に燃え残っていたわずかな雑貨をホテルの部屋に持ち込んですっかり住む準備を整えるのに結局一日を要した。
すっかり暗くなって、エレナのいない部屋に一人でいることの違和感を覚えながら、ディーンは一人でベッドに腰掛けている。
あの襲撃者たちは、いったい何者なのか。
リーザは、それを知る必要はないと言う。
あるいは、知ってはならない、と。
ディーンが知ることが不都合なのだろうか。
不都合なのは、誰にとってだ?
僕自身か? 殿下か? そのほかの誰かか?
リーザの言い方では、そこが分からなかった。だから、それ以上推測が進むことはない。
しかし、以前にリーザがほのめかした、貴族同士の争いのようなもの、このヒントはまだ残っている。
例えば、リーザに対抗する貴族、それこそ、第七位の前後付近の王位継承権を持つ極めて高位の貴族が、あの襲撃を指示していたとしたら、どうだろう。
ディーンがそれを知る。彼はそれを誰かに吹聴できる。そのとき、不利になるのは当然、その『高位の貴族』だ。それは、リーザにとっては喜ばしいことのはずなのだ。仮に王位に就かなくとも、新王即位に伴って高順位の継承権者がその権利を失うときには、例外なく高い職位や爵位が与えられてきた。そのために、たった五代しか王位継承が行われていないにもかかわらず侯爵クラスの貴族が増えすぎつつあるという嫌いもないではないが、この『伝統』は当面は続くだろう。何しろ、侯爵以上の貴族が私有できる大地は、隣接惑星も含めてまだ有り余っているのだから。私有が認められる民の数こそ、まだその上限に達するほどの頭数には足りないが、いずれは余った大地に人は満ちる。これ以上、人間の所有欲を満たすものがあるだろうか。
リーザが真っ当な私欲を持つものなら、対抗貴族の失脚はこれ以上無い好機に違いない。そのために、『友誼』を交わした平民がどうなろうと知ったことではないだろう。
とすれば、やはり、『敵』は、リーザ自身の立場を危うくしうる何者か、ということになる。そのようなものがこの世にいるだろうか?
例えば、彼女の父親である王弟殿下は?
その可能性はありうる。むしろ、その辺りにこそ真実があるのに違いない。それをあえて知ろうとするのは、平民であるディーンにとっては僭越に過ぎるのだろう。
こうした考えともつかぬ考えをめぐらせているうちに、ディーンはひどい疲れから眠りに落ちていた。
***
目を覚ますと、すでに昼前だった。
そして、ベッドサイドにエレナが座っていることに気がついた。
いったいどうやって入ったのだろう?
そう思う気持ちはあったが、考えてみれば、荷物の持ち運びのときに、面倒になってオートロックをオフにしていたような記憶がある。
彼の目覚めに気づいたエレナは、軽く微笑む。
「おはよう。よく眠ってたから」
「あ、ああ、おはよう」
寝起きでそれ以上の言葉は思いつかなかった。
「朝起こそうと思ったんだけど」
「……なにか?」
「宇宙船に置きっぱなしのいくつかの荷物を取りに行こうと思って」
そうか、本格的に腰を落ち着けるつもりだな、この家出娘は。
そんなことを心の中でつぶやいてから、それにしては――つまり家出娘にしては――エレナはあまりに危機への対応に慣れているものだ、と考える。あるいは、金持ちの娘となれば、危険とはいつも隣り合わせの人生だったのかもしれない。
「宇宙船は――まだ海の上か、そう言えば。どこにあるのか役所に問い合わせないと」
「大丈夫、もう行ってきた」
そう言いながら、エレナは横に下ろしたリュックを持ち上げて見せる。
「どうやって」
「私みたいな生活をしてればなんとでもなるもの」
にやっと悪そうな笑顔を浮かべてみせるエレナ。
こいつめ、袖の下か何かを使ったな、とディーンは苦笑する。
「クレジットには困って無さそうだしな。――いや、今の僕も、か。驚いたよ、あの振込み額には」
「あの人からのせめてものお詫びってことかな」
「そうかもな。殿下は何とかするといいつつ――結局、あんな襲撃を許してしまったわけだから」
そのディーンの言葉にエレナもうなずき、小さく鼻息を漏らす。
「そして、多分これからも。きっと、あの人の手に負えない事態になってるんだと思う」
「……そうなのか?」
エレナにそれを訊くことはあまりに的外れだとは分かっていたが、それでも、彼女の研ぎ澄まされた知性がなんと言っているのかを、ディーンは知りたくなった。
「――伝言ゲーム。あなたの見つけた新種の鉱石は、ただ見たことの無い鉱石というだけじゃなく、何かとてつもないものだというようなうわさの尾びれがついて、広まってるんだと思う。それは、発見の直後にあの人自身があなたを訪問したから。そういった情報に関しては、多分この国の貴族たちの視力はとても良さそうだから……」
なるほど、理屈だ、とディーンは思う。
とすれば、もしかすると、盗難未遂事件や先日の襲撃事件の犯人は、それぞれまったく別ということもあるかもしれない。ただ、リーザにはいくつかの心当たりがあるだけで。
「……やれやれ。君はたいしたものだ。そろそろ、一体君がどこの何者なのかくらい、教えてくれないかな」
ディーンは苦笑いを漏らしながら言う。
「ごめんなさい。まだ、言えない」
「じゃあ、いつかは?」
「――分からない」
「出身地くらい」
「……マリアナ」
どうせディーンの脳内地図にはその名前は無かろう、とエレナは答える。
「……知らない国だな」
案の定、ディーンはその名に聞き覚えがない。
「……たとえばの話だ。僕がその――君を愛してしまうような――生涯の伴侶としたいと思うような――そんなことがあった時、そして君もそんな人生も悪くないと思ったとき――それでも正体を明かさないつもりかい?」
その言葉に、エレナは、顔を曇らせる。
長い人生で、彼女にそんな感情を抱かせるかもしれない相手は、確かにいた。少なくともゼロではない。
けれど、彼女に課せられたある種の枷は、その気持ちを否定させた。自ら深く埋葬せねばならなかった。
もしそこから解放されるのなら、その相手は、果たして目の前のこのディーンという男だろうか?
――いいや、違う。
たぶん、違う。
なぜなら、私は解放されない。
永遠に解放されない。
解放されてはならない。
私には、役目があるから。
長い沈黙に耐えかねて、ディーンは、エレナの右手に自分の左手を添える。
「悪かった。意地悪な質問だったな。――たぶん君は、君の親に課せられた人生を持っていて――そこから逃げ出したくて――」
違う。
逃げ出したいんじゃない。
全うしたいの。
とっさに心中で否定するが、一方で、親――そう、あの厳格で寂しげな父から逃げる、という選択肢の存在に、驚く。
「――だから、僕は無責任なことを言うべきじゃないし、ましてや、君の家のことをつべこべ言うべきじゃない。だが、僕が君の知性に心底惚れこんでしまったことは事実なんだ。ある日君が消えて――二度と会えない、そんなことになりやしないかと心配で」
「否定は……しない。私はある日、消えるかもしれない」
「だったら、せめてどうすれば君にもう一度会えるのかを知っておきたい」
「あなたに会うべきだと思ったら私が会いに来る……それじゃ、だめ?」
「――嫌だ」
ディーンは、なぜこんなことで駄々をこねることになってしまったのか、分からない。しかし、エレナと言う存在、彼女の奥深くに横たわる偉大なる知性は、新種鉱石よりもはるかに貴重に思えるのだ。
僕がこんなに知性を欲していたなんて。
ただ、博士号の肩書を振りかざして安定したサラリーを得ていれば十分だと思っていた僕が。
思いながら、自然と、左手に力を込める。それは、エレナの右手を包み込み、握りしめる。
「分かった。約束する。いつか去る時は――必ず、私の正体を明かしてから」
言うと、ディーンの表情がぱっと明るく変化して、彼がうなずくのが見えた。
必ず破ると決まっているこの約束をしたのは、何度目だっただろう。
相手が女だったこともあるし、男だったことはもう少しだけ多かった。
けれど、約束を守ったことは無かった。
ああ。私は、いつかはだまって消えなければならないのに。
知的に成長を続けながらも、最初の型からほとんど変わっていない彼女の心は、嘆きのため息を漏らした。




