プロローグ
今日は最悪な日だ。
まず、自転車を盗まれた。
カギはちゃんと掛けていた。だが、ちょっとコンビニに寄っただけなのに、店を出ると、自転車は忽然と消えていた。近くを探したが、何処にもなかった。
それでトボトボと、歩いて帰路についていたら、突然後ろから、不良っぽい自転車にぶつかられた。左腕に衝撃が走り、思わずよろけた。
ヤツは謝りもせずに、凄い勢いで走って行ってしまった。
ヤツが乗っていたのがわたしの自転車だったということに、後になって気が付いた。
ズキズキと痛む左腕を見ると、腕時計が壊れていた。
なんだか帰るのも嫌になって、わたしはしょんぼりと人通りの少ない遊歩道を歩いた。
歩きながら、つい溜息をつく。
今日は、本当に最悪な日だ。
一陣の風が吹き、桜の花びらが舞った。
見上げると、大きな桜の木がこちらを見下ろすようにして聳えていた。
わたしは少しだけ立ち止まり、桜の木を見上げたままつっ立っていた。
「……」
そして再び歩きだした。
「人間は、夢を持つことのできる生き物だというのに……」
……
「どうして、あんなに哀しそうな顔をしているのかしら……?」
……ん?
「人間の子供たちは、いつも私を見て笑ってくれるのに」
……誰だ?
「あの方は、私を見ても笑ってくれなかったわ」
わたしは、立ち止まって辺りを見回した。だが、誰もいない。
「一体何があったのかしら……あら?」
さんざん辺りを見回した後、わたしは、今さっき通り過ぎたばかりの桜の木を見上げた。
桜の木が、ざわりと揺れ、花びらが散った。
「私の声が聞こえるのですか?」
その声は、桜の木から聞こえていた。
初めは、木に誰かが登って喋っているのかとも思ったが、
「聞こえているのなら、返事をください」
声は紛れもなく、桜の木そのものから聞こえている。
わたしは、驚いて声も出せなかった。ただ、木を見上げてうなずくのが精一杯だった。
「驚きました。私の声を聞き取る人間がいるなんて」
驚いたのはこっちだ。
「あの……よかったら……」
木が、再びざわめいた。
「おはなしを聞いてくれますか?小さくて儚い……そして少しだけ悲しい、おはなしです」
わたしは、少し考えて、うなずいた。
桜の木が、語りだした。