静かな勝利、次の影
圧力が一段落した頃、灰の谷には、久しぶりに穏やかな時間が戻ってきた。ヨルガ草の収益は安定し、相互扶助の蔵は満ち、移住してくる家族の数も、少しずつ増え続けていた。
「一先ずは、乗り切りましたね」
フィリアが帳面を閉じ、珍しく肩の力を抜いた様子で言った。
「まだ、根本的な問題は解決していません。ロヴェル侯爵家、そしてその裏にあるかもしれない、もっと大きな何か。今回のことは、その入り口に過ぎないと思います」
「分かっています。ただ、今日ぐらいは、少し息をついてもいいと思います」
俺はその言葉に、小さく笑って頷いた。前世でも、一つの案件が落ち着いた時には、次の案件に飛び込む前に、必ず一度、深く息を吐く時間が必要だった。休まずに走り続ければ、いずれ、判断そのものが鈍っていく。それは、俺自身が、前世で身をもって学んだ、重く、そして取り返しのつかない教訓だった。
その夜、館の裏庭で、俺は久しぶりに、自分の中を流れる魔力の感覚を確かめていた。着任した頃と比べて、その流れは、はっきりと強く、そして扱いやすくなっている気がした。
「――あなたも、この土地で変わったんですね」
フィリアが、いつの間にか隣に立っていた。
「そうかもしれません。土地との相性がある、とサイラス殿が言っていました。灰の谷という、痩せた土地との付き合いが長くなるほど、この力も、馴染んでいくのかもしれません」
「これから、もっと大きな場所でも、この力を使うことになるのでしょうか」
フィリアの問いに、俺はしばらく答えを探した。夜空を見上げると、星々が、いつもより鮮明に見える気がした。
「分かりません。ただ、どこへ行っても、俺たちがやることは変わらないと思います。数字を見て、土地を見て、人を見る。それだけです」
その言葉に、フィリアは静かに頷いた。二人は、しばらく、何も言わずに、夜の畑を眺めていた。虫の鳴き声が、遠くから、途切れることなく響いていた。
「――こうして、静かな夜を過ごせるようになったのは、いつ頃からでしょうか」
フィリアがふと呟いた。
「着任した頃は、毎晩、次の日の心配で、なかなか眠れなかった気がします」
「今も、心配事は尽きませんが、確かに、あの頃とは違いますね。誰かと、こうして並んで、同じ景色を見られることが、以前は想像もできませんでした」
数日後、王都から届いた一通の報告書が、この平穏な時間に、新たな影を落とすことになった。差出人はサイラス老。内容は、王都近郊のいくつかの村で、原因不明の熱病が広がり始めている、という短い一文だった。
まだ、灰の谷には直接関係のない、遠い場所の出来事だった。だが、俺はその報告書を読んだ瞬間、なぜか胸の奥に、確かな予感を覚えていた。
――これは、いずれこの土地にも届く話になる。
窓の外、満月に近づいていく月が、灰の谷の畑を静かに照らしていた。俺は、その報告書を丁寧に折りたたみ、これから訪れるであろう、新しい課題への備えを、静かに考え始めた。前世で経験した、ある感染症の流行の記憶が、頭の片隅に微かによみがえった。初期の対応の速さが、その後の被害の大きさを、決定的に左右する。今のうちに、できることを、一つずつ確かめておく必要がある。
翌日、俺はダレンとフィリアに、この報告書の内容を共有した。
「熱病、ですか。灰の谷には、まだ関係のない話だと思いますが」
ダレンが、慎重な口調で言った。
「今はそうかもしれません。ただ、人の往来がある限り、病は、いつか、この土地にも届く可能性があります。今のうちに、できる備えを、考えておくべきだと思います」
フィリアが、すぐに、新しい帳面の一頁を、そのために割いた。彼女の筆先が、真新しい頁の上部に、丁寧な文字で「熱病対策」と書き込んでいく。
「まずは、灰の谷にどれだけの薬草の蓄えがあるか、そして、隣接する領地からの人の出入りの記録を、改めて確認しましょう」
「はい。それに、王都のサイラス殿から、もっと詳しい情報を、早めにいただけるよう、手紙を送っておきます」
灰の谷の記録は、こうして、また新しい種類の備えを、静かに積み重ねていくことになった。窓の外、月明かりの下、ヨルガ草の畑が、これまでと変わらない、穏やかな姿を見せていた。だが、俺の中には、この静かな夜が、そう長くは続かないだろうという、確かな予感があった。灰の谷が、これまで乗り越えてきた洪水や旱魃、そして王都の大貴族家たちの駆け引き。それらとは、また違う種類の試練が、静かに、この土地に近づいてきている。その予感を、俺は、フィリアとダレンの表情の中にも、確かに見て取っていた。
その夜、俺は一人、書棚に並んだこれまでの帳面の背表紙を、ゆっくりと眺めた。相互扶助の蔵の規則、近隣領との協定、フェアバンク家との契約書、そして、この一年余りの間に積み重ねてきた、数えきれないほどの小さな記録。それらすべてが、この土地の、確かな歴史を形作っている。次に訪れる試練が、これまでとは違う種類のものであっても、この積み重ねの上に立てば、必ず、道を見つけられるはずだと、俺は静かに思った。灰の谷の物語は、まだ、終わりに向かっているわけではない。むしろ、これから、新しい章が、静かに始まろうとしている。その予感を胸に、俺は蝋燭の火を、静かに吹き消した。




