8 失われた10年は戻らない
「だ、大丈夫ですか!?」
だが、彼の耳に聞こえたのは予想外の言葉だった。恐る恐る、目を開ける。するとそこには心配そうに眉尻を下げたティアナが居た。
彼女は嫌悪感を抱く素振りなど一切見せず、懐から取り出したハンカチで、それが汚れるのを一切厭わずにサイラスの口元を優しく拭ってゆく。
その姿が、かつての光景と重なって。
「顔色が優れませんわ。少し横になったほうがよろしいのでは?」
「あ……」
サイラスは青ざめた顔で、呆然と彼女を見つめる。
「ティア、ナ……?」
小さく名を呼ぶと、ティアナは不思議そうに小首を傾げた。
「どうされました? お水を持ってきましょうか、それともお医者様を呼んで――」
彼女が心配です、と眉尻を下げ言葉を続けようとしたその時。
「すまなかった、サイラス! 俺が事を急きすぎたようだ。ティアナ嬢も巻き込んでしまい悪かった、非礼を詫びさせてくれ。サイラス、ひとまず王宮へ戻ろう」
王宮、という単語にティアナの肩がピクリと震える。
そして金髪の男が、片膝をつきうな垂れるサイラスの肩に手を置いた瞬間――二人の姿は、まるで幻のようにその場から掻き消えてしまったのだった。
後には、ぽかんと口を開けたティアナと老紳士だけが残される。
(消えた。転移魔法? そんな高度な魔法が使えるなんて何者? それに王宮って……)
二人は一体何者? という疑問が喉まで出かけたが、ティアナはその疑問を飲み込んだ。聞けば、何かとんでもないことに巻き込まれてしまいそうな予感がしたからだ。
(それにしても、サイラス様というお方だったかしら、とても顔色が悪かったわね。無事だといいのだけれど)
初対面でストーカー扱いされるという無礼を働かれたというのに、どうしてか彼のことが心配で落ち着かない。
そんな彼女の胸の内を察するように、老紳士が声を発する。
「閣下のことは心配いりませんよ、お嬢さん。あちらで手厚い治療を受けられるはずですから」
「そ、それならきっと大丈夫ですね」
「えぇ、ですからお嬢さんはこちらの『魔力測定証明書』をお受け取りください」
「!」
そう言って老紳士は、青いリボンで巻かれた一枚の羊皮紙をティアナへ差し出した。彼女はパッと目を輝かせると、おずおずとその羊皮紙を受け取った。この証明書があれば、魔法学院へ編入することができる。
「ありがとうございます紳士様! これで念願の魔術学院に編入することができます……このご恩は忘れません!」
「恩など。最初にも申し上げましたが、学びたいという気持ちに年齢は関係ございませんよ。ですがどうしてもというのなら、どうぞ学園で学び、楽しんで。そうしていただくことが、私にとっても何よりの喜びです」
「……はいっ!」
柔らかく微笑まれ、ティアナは思わず涙ぐんだ。
魔力測定塔から一歩外へ出ると、強風が彼女の前髪を攫った。魔力測定証明書が風に飛ばされないよう、ティアナはぎゅっと大切そうに証明書を抱きかかえる。
――失われた10年は戻らない。
けれど、これからは自分の足で未来を歩んでいくことはできる。
ティアナは真っ直ぐに前を向くと、やがて長い石階段を下り始めたのだった。
*
「なぜですか父上! ティアナとの婚約を当人不在で勝手に解消するなんて……! こんな横暴、許されていいはずがない!」
ミズーレ侯爵邸の執務室。父親が腰かける机の上に、アレンがバン! と激しく掌を打ち付ける。その衝撃にミシリと机が軋む音が鳴り、アレンの父親はビクリと肩を小さく揺らした。
だが息子に怯えるなど矜持が許さず、すぐに表情を厳しいものへと変化させる。
「はぁ、やれやれ。何回言ったらわかるのだ。そもそも婚約破棄はお前が言い出したことだろう。今回は両家の話し合いで婚約解消で収まったが、本来であれば我が家は慰謝料で破産するところだったのだぞ」
その言葉を聞くと、アレンはばつが悪そうに視線を彷徨わせた。
「あ、あれは……婚約破棄は言葉のあやで、ティアナをからかっただけです。それを彼女が本気にとって――」
「だがティアナ嬢を第三夫人に据えるという話は本気だったのだろう? ……まぁいい。婚約解消されたおかげで、我が侯爵家は王家とつながりを持てる可能性を手に入れたのだからな」
「っ、僕と王女を婚約させるおつもりですか!?」




