第8話:親愛なる敵、そして見えない守護者
その男の一言は、部屋の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「ジョン・スミス……?」
ペンドルトン夫人の仮面のような無表情が崩れ、狼狽の色が浮かぶ。
「まさか、あの投資家の? 鉄道王とも噂される、あの大富豪のジョン・スミス氏ですか?」
「左様でございます」
弁護士らしき男――グリッグスは、冷徹な眼差しで室内を見渡した。
床に伏したジュディ、怯えるシータ、そして勝ち誇っていたはずが、今はポカンと口を開けている双子の姉弟。
「それで、我が主の被後見人に対して、これは一体何の騒ぎですかな?」
「ひ、被後見人ですって!?」
ジュリアが甲高い声を上げた。
「何を言っているの? その子はただの孤児よ! しかも、我が家の家宝である紋章のブローチを盗んだ泥棒よ!」
ジュリアンも勢いづいて叫ぶ。
「そうだ! 現にそいつのカバンからブローチが出てきたんだ。警察の方、早くその泥棒を連れて行ってくれ!」
警察官たちが再びジュディの手を引こうとした時、グリッグスが静かに、しかし威圧的に手を挙げた。
「お待ちを。そのブローチについてですが」
彼は懐から一枚の書類を取り出した。
「それは『盗品』ではありません。『譲渡品』です」
「はあ? 嘘をつくな!」
「嘘ではありません。なぜなら、そのブローチは我が主ジョン・スミス氏が、先日森で出会った少女――ジェルーシャ・アボット嬢に、友好の証として個人的に手渡したものだからです」
シン、と静寂が落ちた。
ジュディは驚きに目を見開いた。あの森の哲学者、ボロボロの服を着ていたあのおじさんが、大富豪ジョン・スミス?
「そ、そんな馬鹿な……」
ジュリアンが顔を青ざめさせて後ずさる。
「じゃあ、あいつが言っていた『王子様』っていうのは……」
「我が主のことでしょうな。もっとも、主は自身の身分を隠して散策するのが趣味でして」
グリッグスは冷ややかに双子を見下ろした。
「主は申しておりました。『あんなに利発で面白いカボチャはいない』とね。……ですが、どうやらペンドルトン家の分家の方々には、その原石の価値が分からなかったようだ」
グリッグスはあからさまに軽蔑の視線を向けた。
「あまつさえ、主からの贈り物を『盗品』と決めつけ、暴力を振るい、警察沙汰にするとは……。ジョン・スミス氏は、あなた方の『教育』と『品格』に深く失望しておられます」
「ひっ……!」
夫人がその場にへたり込んだ。ジョン・スミスという強力な後ろ盾を敵に回せば、ペンドルトン家の分家などひとたまりもない。社交界での地位も、事業への融資も、全てが終わる。
「ご、誤解です! 私たちはただ、躾を……」
「言い訳は結構」
グリッグスは警察官に向き直った。
「状況は理解されましたな? 彼女は無実だ。即刻、解放していただきたい」
「は、はいっ! とんだ失礼を!」
警察官たちは慌ててジュディの手錠を外し、逃げるように屋敷を出て行った。
自由になったジュディは、よろめきながら立ち上がった。
目の前には、屈辱と恐怖に震えるジュリアとジュリアンがいる。さっきまでの傲慢な態度は見る影もない。
「……さようなら、ジュリア。ジュリアン」
ジュディは静かに告げた。
「私はもう、あなたたちの人形じゃないわ」
「待て! 待ってくれ!」
ジュリアンが縋り付こうとするが、グリッグスの部下の屈強な男たちが壁となって立ちはだかった。
「近寄らないでいただきましょう。彼女はこれから、あなた方が逆立ちしても手の届かない場所へ行かれるのですから」
グリッグスは恭しくジュディに手を差し伸べた。
「参りましょう、ミス・アボット。お迎えの車が待っております」
「あ……待ってください!」
ジュディは振り返り、部屋の隅で震えているシータに駆け寄った。
「シータ……ごめんね、私だけ」
「いいえ、マディ様……ううん、ジュディ様」
シータは涙を拭いて、精一杯の笑顔を見せた。
「良かった……本当に、良かったです」
「ご安心を、ミス・アボット」
グリッグスが耳元で囁いた。
「この屋敷の監視は強化します。使用人への不当な扱いや八つ当たりがあれば、即座に主からの『制裁』が下る手はずになっておりますので」
その言葉は、双子たちへの最後通告として十分な威力を持っていた。
屋敷の外には、見たこともないような高級リムジンが止まっていた。
ジュディが車に乗り込むと、柔らかい革のシートが彼女を包み込んだ。
窓の外、屋敷の窓からこちらを見ている双子の顔が、どんどん小さくなっていく。
それは、悪夢の終わりの光景だった。
「どこへ行くの?」
ジュディが尋ねると、グリッグスは封筒を差し出した。
「名門『聖ファーガスン学院』。それがあなたの新しい居場所です」
「学校……! 私が、学校に行けるの?」
「ええ。主はあなたの文才と知性を高く買っておられる。全ての学費と生活費は、彼が支援します」
夢のような話だった。けれど、一つだけ条件があった。
「月に一度、彼に手紙を書くこと。日々の出来事、学んだこと、感じたことを。それが唯一の義務です」
「おじ様……あしながおじ様……」
ジュディは封筒を抱きしめた。
あの不愛想だけど温かいサングラスの男。彼はもう、私の「王子様」ではないかもしれない。けれど、もっと大きな、見えない守護者となって私を見ていてくれる。
車は森を抜け、丘を越えていく。
遠くに見える空は広く、どこまでも青かった。
心の中の嵐はまだ完全には止んでいない。傷跡も痛む。
けれど、私はもう一人じゃない。
新しい名前。新しい生活。そして、顔の見えない「親愛なる敵」。
ジュディの新しい物語が、今、始まろうとしていた。
(第一部 完)




