表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/8

第6話:森の哲学者と迷子のカボチャ

 肺が焼き切れそうだった。

 薔薇の香りが染み付いたネグリジェの裾を掴み、ジュディは闇雲に走った。

 隣で眠るジュリアの腕を抜け出し、窓から庭へ飛び出したのだ。靴を履く暇さえなかった。素足に踏まれる枯れ枝や小石が鋭く食い込むが、立ち止まることはできない。

 あそこに戻れば、私は私でなくなってしまう。


 「マディ」という名の人形として、あの歪んだ愛の檻に閉じ込められてしまう。

 屋敷の裏手に広がる深い森。

 どこまで逃げればいいのかも分からないまま、体力の限界が訪れた。

 ジュディは巨大な樫の木の根元に崩れ落ち、泥と落ち葉にまみれて意識を手放した。


 チュン、チュン……。


 小鳥のさえずりで、重いまぶたを持ち上げた。

 木漏れ日が眩しい。生きて朝を迎えられたことに安堵し、体を起こそうとした時だった。


「おや、こんなところに小さなカボチャさんがいる」


 頭上から降ってきた野太い声に、ジュディは飛びのいた。

 目の前に、一人の男がしゃがみ込んでいた。

 伸び放題の無精髭。目元を隠す色付きのサングラス。つぎはぎだらけのヨレヨレの服。

 屋敷の使用人だろうか? それとも庭師?

 男は地面にうずくまっていたジュディの丸まった背中を指差して、可笑しそうにニヤニヤしている。


「カボチャ……?」


 昨夜からの恐怖と理不尽さが、一気に怒りとなって噴き出した。

 ジュディは涙目で男を睨みつけた。


「私はカボチャじゃないわ! どうしてみんな、私の名前を呼んでくれないの……」

「おっと、失礼」

「私はジェルーシャ・アボット! ジュディよ!」


 叫ぶと同時に、涙がこぼれ落ちた。

 男は少し驚いたようにサングラスの位置を直し、それから穏やかな声で言った。


「これは失敬、レディ。てっきり森の妖精か、ハロウィンの落とし物かと思ったものでね」


 彼は足元をゴソゴソと動かした。そこには、一匹の大きなカメがのんびりと草を食んでいた。


「こいつはプーリー。私の相棒だ。挨拶しな、プーリー」


 その飄々(ひょうひょう)とした態度に、ジュディの警戒心が少しだけ緩んだ。

 目の前の男からは、屋敷の人間特有の、あの突き刺すような「値踏みする視線」を感じない。ただの、薄汚いけれど気の良さそうな変人に見えた。


「……あなた、ここで働いているの?」

「まあ、そんなところだ。森の番人みたいなもんだよ」


 男は適当に答えると、持っていた水筒を差し出した。


「飲みな。カボチャも水分がなきゃ干からびちまう」


 ジュディは礼を言って水筒を受け取り、喉を潤した。

 一度口を開くと、せきを切ったように言葉が溢れ出た。誰かに聞いてほしかったのだ。


「私、逃げてきたの。あの屋敷の人たちは、私を『マディ』って呼ぶの。私の名前なんてどうでもいいみたいに」

「ふむ」

「コルセットで締め上げたり、真っ赤な口紅を塗ったり……。それに、私が泥棒だなんて言うのよ。大切なブローチを持っていただけで」


 男の手がピクリと止まった。


「ブローチ?」

「ええ。鷲と盾の紋章がついた、銀のブローチ。あれは頂いたものなのに、私が盗んだって……」


 男はサングラスの奥で目を細めたようだったが、口調は変わらなかった。


「そうか。そいつは災難だったな」

「信じてくれるの? 私が盗んでないって」

「ああ、信じるさ。君の目は、嘘をつくやつの目じゃない」


 その言葉が、凍っていたジュディの心を溶かしていった。

 この人は、あの丘の上の「王子様」とは似ても似つかない。薄汚くて、少し汗臭いおじさんだ。けれど、父親のような、あるいは歳の離れた兄のような、不思議な安心感があった。

 男は大きな手で、ジュディの頭をポンポンと撫でた。


「君は泣いている顔より、笑った顔の方がずっといい」


 ジュディは袖で涙を拭い、ぎこちなく微笑んだ。


「……ありがとう」

「さて、ジュディ」


 男は立ち上がり、屋敷の方角を指差した。


「そろそろ戻ったほうがいい。これ以上騒ぎが大きくなると、もっと立場が悪くなる」

「……うん。私、頑張って説明してみる」


 この人のおかげで、少しだけ勇気が湧いた気がした。

 森の出口まで送ってくれた男は、「また会える?」と聞くジュディに、ひらひらと手を振って森の奥へと消えていった。

 ジュディは深呼吸をし、屋敷の裏庭へと足を踏み入れた。

 大丈夫。私はマディじゃない。ジュディだ。ちゃんと話をすれば――。


「――みーつけた」


 背筋が凍るような声が、鼓膜を震わせた。

 ビクリと振り返った先。

 手入れされた生垣の前に、二つの影が立っていた。

 腕組みをして冷ややかな視線を向けるジュリアン。

 扇子で口元を隠し、目は笑っていないジュリア。


「朝から散歩とは優雅だね、マディ」

「心配したのよ? 私たちの可愛いお人形が、勝手にいなくなるなんて」


 二人の背後に、絶望の影が伸びる。

 森の安息は、幻のように消え去っていた。


「脱走した悪いペットには、もっと厳しい『しつけ』が必要みたいね」

「ああ。徹底的に教え込んでやろう。誰が主人なのかを」


 双子がゆっくりと近づいてくる。

 ジュディは後ずさりしようとしたが、足がすくんで動かなかった。

挿絵(By みてみん)


【次回予告】

「おかえり、悪いペット」


 連れ戻された私を待っていたのは、地獄のような「お茶会」でした。


「一滴でもこぼしたらアウト。代わりにお友達が痛い目を見るわ」


 震える腕、目の前で脅かされるシータ。

 私のミスの数だけ、彼女が傷ついていく。

 許して。ごめんなさい。声にならない叫びが、カップと共に砕け散る。

 そして、無慈悲な警察の足音が近づく。

 絶体絶命のその時、扉を叩くのは――?


 次回、『悪役令嬢・令息 〜双子のジュリアとジュリアン〜 華麗なる悪逆の調べ』 (新訳・あしながおじさん/Daddy-Long-Legs: A New Translation) 第7話


 『沈黙のお茶会と、砕かれた連帯』


 その手紙は、福音か、それとも新たな契約か。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ