第6話:森の哲学者と迷子のカボチャ
肺が焼き切れそうだった。
薔薇の香りが染み付いたネグリジェの裾を掴み、ジュディは闇雲に走った。
隣で眠るジュリアの腕を抜け出し、窓から庭へ飛び出したのだ。靴を履く暇さえなかった。素足に踏まれる枯れ枝や小石が鋭く食い込むが、立ち止まることはできない。
あそこに戻れば、私は私でなくなってしまう。
「マディ」という名の人形として、あの歪んだ愛の檻に閉じ込められてしまう。
屋敷の裏手に広がる深い森。
どこまで逃げればいいのかも分からないまま、体力の限界が訪れた。
ジュディは巨大な樫の木の根元に崩れ落ち、泥と落ち葉にまみれて意識を手放した。
チュン、チュン……。
小鳥のさえずりで、重い瞼を持ち上げた。
木漏れ日が眩しい。生きて朝を迎えられたことに安堵し、体を起こそうとした時だった。
「おや、こんなところに小さなカボチャさんがいる」
頭上から降ってきた野太い声に、ジュディは飛びのいた。
目の前に、一人の男がしゃがみ込んでいた。
伸び放題の無精髭。目元を隠す色付きのサングラス。つぎはぎだらけのヨレヨレの服。
屋敷の使用人だろうか? それとも庭師?
男は地面にうずくまっていたジュディの丸まった背中を指差して、可笑しそうにニヤニヤしている。
「カボチャ……?」
昨夜からの恐怖と理不尽さが、一気に怒りとなって噴き出した。
ジュディは涙目で男を睨みつけた。
「私はカボチャじゃないわ! どうしてみんな、私の名前を呼んでくれないの……」
「おっと、失礼」
「私はジェルーシャ・アボット! ジュディよ!」
叫ぶと同時に、涙がこぼれ落ちた。
男は少し驚いたようにサングラスの位置を直し、それから穏やかな声で言った。
「これは失敬、レディ。てっきり森の妖精か、ハロウィンの落とし物かと思ったものでね」
彼は足元をゴソゴソと動かした。そこには、一匹の大きなカメがのんびりと草を食んでいた。
「こいつはプーリー。私の相棒だ。挨拶しな、プーリー」
その飄々(ひょうひょう)とした態度に、ジュディの警戒心が少しだけ緩んだ。
目の前の男からは、屋敷の人間特有の、あの突き刺すような「値踏みする視線」を感じない。ただの、薄汚いけれど気の良さそうな変人に見えた。
「……あなた、ここで働いているの?」
「まあ、そんなところだ。森の番人みたいなもんだよ」
男は適当に答えると、持っていた水筒を差し出した。
「飲みな。カボチャも水分がなきゃ干からびちまう」
ジュディは礼を言って水筒を受け取り、喉を潤した。
一度口を開くと、堰を切ったように言葉が溢れ出た。誰かに聞いてほしかったのだ。
「私、逃げてきたの。あの屋敷の人たちは、私を『マディ』って呼ぶの。私の名前なんてどうでもいいみたいに」
「ふむ」
「コルセットで締め上げたり、真っ赤な口紅を塗ったり……。それに、私が泥棒だなんて言うのよ。大切なブローチを持っていただけで」
男の手がピクリと止まった。
「ブローチ?」
「ええ。鷲と盾の紋章がついた、銀のブローチ。あれは頂いたものなのに、私が盗んだって……」
男はサングラスの奥で目を細めたようだったが、口調は変わらなかった。
「そうか。そいつは災難だったな」
「信じてくれるの? 私が盗んでないって」
「ああ、信じるさ。君の目は、嘘をつくやつの目じゃない」
その言葉が、凍っていたジュディの心を溶かしていった。
この人は、あの丘の上の「王子様」とは似ても似つかない。薄汚くて、少し汗臭いおじさんだ。けれど、父親のような、あるいは歳の離れた兄のような、不思議な安心感があった。
男は大きな手で、ジュディの頭をポンポンと撫でた。
「君は泣いている顔より、笑った顔の方がずっといい」
ジュディは袖で涙を拭い、ぎこちなく微笑んだ。
「……ありがとう」
「さて、ジュディ」
男は立ち上がり、屋敷の方角を指差した。
「そろそろ戻ったほうがいい。これ以上騒ぎが大きくなると、もっと立場が悪くなる」
「……うん。私、頑張って説明してみる」
この人のおかげで、少しだけ勇気が湧いた気がした。
森の出口まで送ってくれた男は、「また会える?」と聞くジュディに、ひらひらと手を振って森の奥へと消えていった。
ジュディは深呼吸をし、屋敷の裏庭へと足を踏み入れた。
大丈夫。私はマディじゃない。ジュディだ。ちゃんと話をすれば――。
「――みーつけた」
背筋が凍るような声が、鼓膜を震わせた。
ビクリと振り返った先。
手入れされた生垣の前に、二つの影が立っていた。
腕組みをして冷ややかな視線を向けるジュリアン。
扇子で口元を隠し、目は笑っていないジュリア。
「朝から散歩とは優雅だね、マディ」
「心配したのよ? 私たちの可愛いお人形が、勝手にいなくなるなんて」
二人の背後に、絶望の影が伸びる。
森の安息は、幻のように消え去っていた。
「脱走した悪いペットには、もっと厳しい『躾』が必要みたいね」
「ああ。徹底的に教え込んでやろう。誰が主人なのかを」
双子がゆっくりと近づいてくる。
ジュディは後ずさりしようとしたが、足がすくんで動かなかった。
【次回予告】
「おかえり、悪いペット」
連れ戻された私を待っていたのは、地獄のような「お茶会」でした。
「一滴でもこぼしたらアウト。代わりにお友達が痛い目を見るわ」
震える腕、目の前で脅かされるシータ。
私のミスの数だけ、彼女が傷ついていく。
許して。ごめんなさい。声にならない叫びが、カップと共に砕け散る。
そして、無慈悲な警察の足音が近づく。
絶体絶命のその時、扉を叩くのは――?
次回、『悪役令嬢・令息 〜双子のジュリアとジュリアン〜 華麗なる悪逆の調べ』 (新訳・あしながおじさん/Daddy-Long-Legs: A New Translation) 第7話
『沈黙のお茶会と、砕かれた連帯』
その手紙は、福音か、それとも新たな契約か。




