第5話:薔薇の檻と毒の口紅(ルージュ)
馬の排泄物と湿った藁の匂いが充満する、暗い納戸。
ジュディは膝を抱え、冷たい土の床にうずくまっていた。ドレスは泥と埃で汚れ、頬には乾いた涙の跡が張り付いている。
寒さと空腹、そして絶望で意識が朦朧とし始めた時だった。
コツ、コツ、コツ……。
静寂を破り、硬質なヒールの音が近づいてくる。そして、錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、重い木の扉が開かれた。
差し込んだランタンの光に、ジュディは目を細める。
光の中に立っていたのは、豪奢な夜着をまとったジュリアだった。彼女は鼻をハンカチで覆い、汚物を見るような目でジュディを見下ろしていた。
「立ちなさい、マディ。ひどい匂いね」
氷のような声だった。
「ペンドルトンの屋敷に、こんな不潔なものが存在するなんて許せないわ」
「ごめんなさい、私……」
ジュディが弁明しようとすると、ジュリアはランタンを床に置き、手を伸ばしてきた。助け起こしてくれるのかと思った次の瞬間、強い痛みが走った。
「痛っ!?」
ジュリアが掴んだのは手ではなく、ジュディの豊かな金髪だった。
「口答えはいいの。来なさい、綺麗にしてあげるから」
ジュリアは乱暴に髪を引っ張り、ジュディを無理やり立たせると、ずるずると引きずるようにして納戸から連れ出した。
連れてこられたのは、ジュリア専用の広々とした浴室だった。
大理石の床、猫足のバスタブからは芳しい湯気が立ち上り、先ほどまでの馬小屋とは天国と地獄ほどの差がある。
「下がっていいわ。私がやるから」
ジュリアは控えていたメイドたちを冷たく追い払うと、バタンと扉を閉めた。密室に、二人きり。
ジュリアは優雅な動作で夜着の袖をまくり上げると、バスタブではなく、洗い場の中央にジュディを立たせた。
「じっとしていて」
短い命令の後、ジュディの頭上から何かが降り注いだ。
「きゃあっ!?」
悲鳴を上げる間もなかった。それは、氷水のように冷たいシャワーだった。
心臓が縮み上がるような冷たさに、ジュディは息を飲む。泥と藁が洗い流されていくが、それ以上に体温が奪われていく。
「なんて汚いの……。許せないわ、私の屋敷にこんな汚れがあるなんて」
ジュリアは独り言のように呟きながら、硬い豚毛のブラシを手に取った。
ゴシッ、ゴシッ。
容赦のない力で、ジュディの白い肌が擦られる。痛い。肌が赤く腫れ上がり、ヒリヒリと熱を持つ。
「ここも、ここもまだ汚れているわ」
ジュリアの指が、首筋から鎖骨、そしてドレスを剥ぎ取った露わな太腿へと這う。指の間、耳の後ろ、自分では気づかないような場所まで、執拗に、儀式のように洗浄されていく。
それは「洗う」という行為を超え、ジュディを自分好みの無垢な「人形」へと作り変えるための儀式のようだった。
ようやく冷水から解放された時には、ジュディの体は小刻みに震えていた。
ジュリアはバスタブの湯には浸からせず、大きなバスタオルで乱暴に水気を拭き取った。
そして、ドレッサーからクリスタルの小瓶を取り出した。
「仕上げよ」
蓋を開けると、むせ返るほど濃厚な薔薇の香りが広がった。最高級の香水の原液だ。
ジュリアはその一滴を指先に取り、ジュディの耳の後ろと、脈打つ首筋に直接擦り込んだ。
「……っ」
冷えた肌に、熱い指先と強烈な香りが焼き付く。
「ん……いい匂い。これで、私の匂いになったわね」
ジュリアは満足げに微笑み、自分のマーキングを確認するように、ジュディの首筋に鼻を寄せた。その熱い吐息に、ジュディは身をすくませた。
悪夢はまだ終わらなかった。
「さあ、お部屋に行きましょう。可愛いお人形さん」
浴室から続く寝室で待っていたのは、着せ替えの時間だった。
ジュリアがクローゼットから取り出したのは、彼女の趣味だというネグリジェ。淡いピンク色で、驚くほど薄く、肌が透けて見えるようなシルク素材だった。しかも、胸元が大きく開き、丈も短い。
「そ、そんな……こんな恥ずかしい格好……」
「何言ってるの? 私が選んだのよ。黙って着なさい」
抵抗も虚しく、湯冷めしそうな薄着を無理やり着せられたジュディは、鏡の前に座らされた。
鏡の中の自分は、赤く擦れた肌が透けて見え、まるで淫靡な人形のようだった。
「顔色が悪いわね。これでは可愛くないわ」
ジュリアは不満げに眉を寄せると、化粧台から真紅のリップスティックを取り出した。
「動かないで」
ジュリアの指がジュディの顎を強く固定する。
冷たい口紅の先端が、震える唇に押し当てられた。ジュリアはわざとゆっくりと、ジュディの唇の輪郭をなぞり、そして塗りつぶしていく。
「ん……」
はみ出すほどたっぷりと、厚く塗られたルージュ。ジュリアの指が、仕上げにジュディの唇をむぎゅっと押し広げ、口角を上げさせた。
至近距離で、ジュリアの瞳が妖しく輝く。
「うん、いいわ。まるで毒リンゴみたいで……美味しそう」
ジュリアは恍惚とした表情でそう囁くと、自分の作品の出来栄えに酔いしれるように、熱っぽい視線でジュディを見つめ続けた。
「……もう、部屋に戻ってもいいですか?」
ジュディが消え入りそうな声で尋ねると、ジュリアはきょとんとした顔をした。
「戻る? どこへ? あの汚い馬小屋へ?」
「い、いえ、屋根裏部屋へ……」
「だめよ。今日はここで寝なさい」
ジュリアは当然のように、天蓋付きの巨大なベッドを指差した。
「え……?」
「あなたがまた逃げ出したりしないように、私が監視してあげるの」
それは監視という名の、独占欲の発露だった。
拒否権などなかった。
ジュディはふかふかの羽毛布団の中に押し込まれ、その隣にジュリアが滑り込んできた。
「いい子ね、マディ。じっとしていて」
ジュリアの腕が伸びてきて、ジュディの体を背後から強く抱きしめた。まるで、お気に入りの抱き枕を確保するように。
濃厚な薔薇の香水と、ジュリアの高い体温が、ジュディを包み込む。
息苦しい。物理的な重みだけではない。この歪んだ独占欲、一方的な愛情の押し付けが、ジュディの心を締め付けていく。
耳元で、ジュリアの規則正しい寝息が聞こえ始めた。
ジュディは暗い天井を見つめながら、唇に塗られたルージュの重みを感じていた。
外の世界では誰にも相手にされず、ここでは窒息しそうな歪んだ愛に囚われている。
(……このままじゃ、心が壊れてしまう)
涙が横顔を伝い、枕を濡らした。
もう、限界だった。この美しい牢獄のような屋敷には、一秒たりともいられない。
(逃げよう……)
ジュリアの腕の中で、ジュディは固く決意した。たとえ行く当てがなくとも、この場所から逃げ出さなければ、自分は自分でいられなくなってしまう。
窓の外では、嵐の予感を含んだ風が、木々を揺らしていた。
【次回予告】
薔薇の香りの檻を抜け出し、私が逃げ込んだのは深い森。
そこで出会ったのは、ボロボロの服を着た不思議な男性と、のんびり屋のカメでした。
「おや、こんなところに小さなカボチャさんがいる」
彼の言葉は温かく、凍った心を溶かしていく。
けれど、夢の時間は続きません。
屋敷の影は、どこまでも私を追いかけてくる。
「みーつけた。悪いペットには、お仕置きが必要だね」
次回、『悪役令嬢・令息 〜双子のジュリアとジュリアン〜 華麗なる悪逆の調べ』 (新訳・あしながおじさん/Daddy-Long-Legs: A New Translation) 第6話
『森の哲学者と迷子のカボチャ』
その優しさは、希望か、それとも残酷な夢か。




