第4話:幻の白き友と、奪われた紋章
「……お断りします」
薄れゆく意識の中で、ジュディは唇を噛み締め、目の前の悪魔を睨みつけた。
「私はマディじゃない。あなたに助けを乞うくらいなら、このまま息が止まったほうがましよ」
ジュリアンは期待外れだと言わんばかりに肩をすくめた。
「そうかい。本当に可愛げのないおもちゃだね。なら、勝手にするがいい」
彼は冷酷に言い放つと、部屋を出て行った。ガチャリ、と鍵がかかる音が、絶望の音色のように響く。
一人残されたジュディは、床に崩れ落ちた。
限界だった。コルセットは肋骨を軋ませ、肺を押し潰している。吸っても吸っても、空気が入ってこない。
(苦しい……誰か……)
視界が暗く濁っていく。冷たい床の感触だけが、生の実感だった。
その時だった。
窓の外から、カリ、カリ……という小さな音が聞こえた。
重い瞼をこじ開けると、月明かりに照らされた窓辺に、白いふわふわとした影があった。
黒く愛らしい瞳。縞模様の尻尾。
「……クリリン?」
ジュディは夢心地で呟いた。それは、孤児院の裏山でいつも一緒に遊んでいた、友達のアライグマだった。
(来てくれたのね……私を助けに)
幻の友は、心配そうにジュディに近づくと、背中に回り込んだ。
背中で、何かが弾ける音がした。鋭い歯が、食い込む紐を噛み切ってくれたのだ。
ぷつん、ぷつん。
そのたびに、拘束が解け、肺に新鮮な空気が流れ込んでくる。
「ありがとう……クリリン……」
ジュディは深い安堵と共に、泥のような眠りへと落ちていった。
――だが、それは幻覚だった。
月明かりの中、ジュディの背後に立っていたのは、アライグマではない。
無機質なメイド服に身を包んだ、一人の少女だった。彼女は手にした銀のナイフで、器用にコルセットの紐を切り裂いていたのだ。
胸元には「Θ(シータ)」という刺繍。
彼女はジュディの寝顔を一瞥すると、音もなく窓から姿を消した。
翌朝。
小鳥のさえずりと共に、けたたましくドアが開かれた。
「おはよう、マディ。生きてる?」
入ってきたのは、朝から完璧に着飾ったジュリアとジュリアンだった。
二人は、昨夜の苦痛で泣き腫らし、屈服したジュディの姿を期待していた。しかし――。
「……うーん」
ベッドの上で、ジュディはすやすやと健やかな寝息を立てていた。
床には、無残に切り裂かれたコルセットが転がっている。
「なっ……!?」
ジュリアンが目を見開いて駆け寄った。
「馬鹿な! あの結び目は、絶対に自分ひとりじゃ解けないはずだ!」
「どういうことなの? 誰かが手伝ったというの?」
ジュリアがヒステリックに叫び、廊下を掃除していたメイドたちを睨みつけた。
この屋敷のメイドたちは、個人の名を奪われ、ギリシャ文字のコードネームで管理されている。
「おい、そこのお前たち!」
ジュリアンは、一人のメイドの手が微かに震えているのを見逃さなかった。
あどけなさが残る、小柄なメイド――シータだ。
「シータ、お前だな? お前がこの部屋に入ったのか?」
ジュリアンがシータの腕を乱暴に掴み上げる。
「も、申し訳ありません、私は……」
シータが青ざめる。
騒ぎに目を覚ましたジュディは、状況を理解して飛び起きた。
あの夢。アライグマのクリリン。でも本当は、誰かが助けてくれたのだ。それが、この震えている女の子なら――。
「違います!」
ジュディは叫んだ。
「彼女じゃないわ! アライグマよ!」
「……はあ? アライグマ?」
「そうよ! 私の友達のクリリンが窓から入ってきて、紐を噛み切ってくれたの。だから彼女を離して!」
双子は顔を見合わせ、それから腹を抱えて笑い出した。
「傑作だわ! アライグマですって!」
「汚らわしい。そんな獣を屋敷に入れたのか? なら、どこかに隠しているんだろうな」
ジュリアンはシータを突き飛ばすと、目をぎらつかせた。
「探せ! 部屋中をひっくり返してでも、その薄汚い獣を見つけ出すんだ!」
命令一下、他のメイドたちが部屋になだれ込んできた。
引き出しが開けられ、衣類が放り投げられ、ベッドのマットがひっくり返される。
ジュディのささやかな荷物が、床に散乱していく。
「やめて! 乱暴しないで!」
その時だった。
ひっくり返されたカバンの中から、カラン、と乾いた音を立てて何かが転がり落ちた。
重厚な銀の輝き。
「……ん?」
ジュリアンがそれを拾い上げた。
翼を広げた鷲と、盾の紋章が刻まれたブローチ。
それを見た瞬間、ジュリアンの顔色が変わった。
「こ、これは……!!」
「どうしたの、お兄様?」
「ジュリア、これを見ろ。この意匠……ただのペンドルトンの紋章じゃない。本家の、それも『当主』しか持つことを許されない特別なエンブレムだ!」
ジュリアンはジュディを振り返り、その胸ぐらを掴んだ。
「貴様……! 泥棒め! これをどこで盗んだ!」
「盗んでなんかいないわ!」
ジュディは必死に訴えた。
「頂いたのよ! ……いいえ、拾ったの。丘の上で会った王子様が……」
「王子様? アライグマの次は王子様か!」
ジュリアンは激昂した。
「本家の当主(ジャーヴィス叔父さん)が、こんな薄汚い孤児に会うはずがないだろう! この嘘つきめ!」
「返して! それは私の大切な……!」
ジュディは手を伸ばし、ブローチを取り返そうとした。
「触るな! 汚らわしい!」
ジュリアンが手を振り払おうとして――バランスを崩した。
いや、わざとらしく大きくのけぞり、派手な音を立てて床に倒れ込んだのだ。
「きゃあああ! お兄様!」
ジュリアが悲鳴を上げた。
「なんてこと……! 泥棒の分際で、お兄様に暴力を振るうなんて!」
「ち、違う! 私はただ……」
「痛い……足が折れたかもしれない」
ジュリアンは顔をしかめて嘘をつき、それから嗜虐的な笑みを浮かべてジュディを見上げた。
「恩知らずの暴力娘には、お仕置きが必要だな」
冷酷な宣告が下された。
「この女を馬小屋へ放り込め! 食事は抜きだ。頭が冷えるまで、馬の糞の匂いの中で反省させてやれ!」
男たちの手がジュディを捕らえる。
ブローチはジュリアンの手に握られたまま。
「返して! それは私の――!」
叫び声は虚しく響き、ジュディは暗い廊下を引きずられていった。
残された部屋で、シータだけが痛ましげに唇を噛み締め、その背中を見送っていた。
【次回予告】
暗い馬小屋、凍える体。
泥にまみれた私を迎えに来たのは、救世主ではなく、美しき支配者でした。
「綺麗にしてあげる。あなたは私の人形だから」
浴びせられる冷水、刻み込まれる薔薇の香り。
真っ赤に塗られた唇は、甘い毒の味がする。
柔らかいベッド、抱きしめられる腕の中で、私は知りました。
ここは安息の地ではなく、最も美しい「檻」なのだと。
窒息しそうな愛に心が壊れる前に、私は走る。嵐の夜へ――。
次回、『悪役令嬢・令息 〜双子のジュリアとジュリアン〜 華麗なる悪逆の調べ』 (新訳・あしながおじさん/Daddy-Long-Legs: A New Translation) 第5話
『薔薇の檻と毒の口紅』
その紅は、愛か、それとも呪いか。




