第1話:丘の上の王子様
【登場人物紹介】
・ジュディ・アボット
スリーピー・ホロウの孤児院で育った、想像力豊かでお転婆な少女。
とあるきっかけで名門ペンドルトン家の分家に引き取られるが、その立場は養女ではなく、令嬢の「話し相手(実質的な使用人)」だった。
・ジャーヴィス・ペンドルトン
ペンドルトン本家の若き当主(ジュリアたちの叔父)。
堅苦しい社交界を嫌い、領地内の森で動物たちと暮らす「放浪者」のふりをしている。ジュディの窮地を救う謎めいた青年。
・ジュリア・ペンドルトン
ペンドルトン分家の長女。
誰もが振り返る美貌を持つが、プライドが高く性格は最悪。自分より目立つジュディを目の敵にし、徹底的にいじめる。
・ジュリアン・ペンドルトン
ジュリアの双子の兄。
妹の言いなりになってジュディに意地悪をする陰湿な性格。だが、どんなにいじめても屈しないジュディに対し、歪んだ執着を持ち始める。
・アニー・ブライトン
ジュディの幼馴染で、姉妹のように育った親友。
資産家ブライトン家の養女となるが、「孤児院出身であることを隠す」という家訓のため、涙ながらにジュディとの関係を断つ。
・サリー・マクブライド
寄宿学校でジュディが出会う、聡明で天才肌なルームメイト。
ジュディの書く文章と人柄に惚れ込み、彼女を理不尽な敵から守る「騎士」となる。
・リペット院長
孤児院「スリーピー・ホロウの家」の厳格な院長。
冷徹に見えるが、孤児たちが社会で生きていけるよう、彼女なりに心を鬼にしている。
時は一九一〇年代初頭。
新大陸アメリカは、かつてない「黄金の時代」を迎えていた。
マンハッタンでは摩天楼が競うように天を突き、人々の欲望と希望が渦を巻く。そこは光と富に満ち溢れた夢の国。
けれど、その光が強くなればなるほど、足元に落ちる影もまた、深く、暗くなっていく。
大都会ニューヨークからハドソン川を遡ること数時間。
豊かな森と水に恵まれたこの地には、名だたる大富豪たちが競って壮麗な別荘を構えていた。彼らは優雅な丘の上から、自らが手にした繁栄を見下ろしている。
その華やかな丘の陰――川霧がいつも淀んでいる谷底に、忘れ去られたような場所があった。
「スリーピー・ホロウ(眠れる窪地)」と呼ばれるその土地。そこには、身寄りのない子供たちが肩を寄せ合う、古びた孤児院があった。
これは、そんな深い霧の谷から、運命の風に導かれて歩き出すことになる、一人の少女の物語である。
◇
拝啓 アニー・ブライトン様
あなたが馬車に乗って行ってしまってから、まだ二時間。
けれど私には、それが永遠のように長く感じられます。
窓の外は白い霧。スリーピー・ホロウの谷底は、まるでミルクの海に沈んでしまったみたい。
ねえ、アニー。馬車の中で泣いていない? 新しいお父様とお母様には、ちゃんとご挨拶できたかしら。
私は大丈夫。あなたが心配するようなことは何もないわ。だって私たちは、どんなに離れていても心は繋がっているんですもの。
約束通り、今日から毎日手紙を書くわね。
孤児院での出来事も、カボチャ畑の様子も、それから……あの意地悪なリペット院長の今日の不機嫌さについても、全部。
私の大切な、大好きなアニー。あなたが新しいお家で、世界一幸せなお嬢様になれますように。
心を込めて。
あなたの親友、ジュディ・アボットより
インクが乾くのを待って、ジュディは便箋を丁寧に折り畳んだ。
壁の古時計がコチコチと時を刻んでいる。今、村の辻にあるポストまで走れば、夕方の収集の馬車に間に合うはずだ。
ジュディは封筒を胸に抱きしめ、部屋を出て長い廊下を駆け抜けた。
「アボット」
玄関扉に手をかけたその時、氷のような声が響いた。
ジュディは弾かれたように足を止めた。振り返ると、リペット院長が立っている。銀縁眼鏡の奥の瞳は、まるで冬の湖面のように冷たく澄んでいた。
「どこへ行くのですか」
「手紙を出しに……。今ならまだ間に合うと思って」
「その手に持っているものは?」
院長はジュディの返事を待たずに歩み寄り、その手から封筒を無慈悲に取り上げた。
宛名を見るなり、院長の目が鋭く細められる。
「返してください! アニーに約束したんです、手紙を書くって」
「ならぬ約束です」
院長は淡々と、しかし残酷な事実を告げた。
「ブライトン家からの条件は『過去との決別』です。孤児院の子供との交流など、名家の令嬢として生まれ変わったアニーには許されない汚れ(シミ)になるのですよ」
「そんな……! だってアニーは、心はずっと一緒だって……」
「その手紙が届けば、アニーの立場が悪くなるだけです。彼女の幸せを願うなら、二度とペンを執ってはなりません」
ジュディの手から力が抜けた。
院長の手にある封筒が、届くことのない墓標のように見えた。そこに綴った「毎日書くわ」という誓いは、誰の目にも触れることなく終わりを迎えたのだ。
「……わかりました」
震える声でそう絞り出すのが精一杯だった。
ジュディは逃げるようにその場を飛び出した。重い扉を押し開け、冷たい朝の空気の中へ躍り出る。
「うそつき……」
白く濁った霧の中へ吐き出した言葉は、大人たちへ向けたものではない。
何もできず、ただ約束を破ることしかできない、無力な自分自身への断罪だった。
もう手紙は書けない。言葉は誰にも届かない。
ジュディは濡れた草を踏みしめ、あせたドレスの裾を翻して走り出した。
向かう先は、大人たちから禁じられている裏山――「フォーンズ・ヒル(子鹿の丘)」。
せめて誰の目もない、空に近い場所で泣きたかった。
息を切らせて駆け上がった「フォーンズ・ヒル」の頂上は、冷たい風が吹き抜けていた。
眼下には、霧に煙るハドソン川が銀色の帯のように横たわっている。
ジュディは草の上に崩れ落ちると、膝に顔を埋めて声を上げて泣いた。こらえていた感情が、涙となって堰を切ったように溢れ出す。
アニーは行ってしまった。手紙も書けない。約束は守れない。
世界でたった一人ぼっちになってしまったような孤独が、ジュディの小さな肩を震わせていた。
その時だった。
どこからともなく、不思議な音色が風に乗って聞こえてきた。
プァー……という、少し間の抜けた、けれどどこか懐かしく、哀愁を帯びた響き。それは霧の向こうから近づいてくる。
ジュディは涙に濡れた顔を上げた。
「……誰?」
霧がふわりと晴れた丘の向こうに、人影があった。
それは見たこともない不思議な姿をした少年――いや、青年だった。
腰にはチェック柄のキルトを巻き、肩から布を優雅に垂らしている。頭には羽飾りのついた帽子。手にはたくさんの管がついた袋のような楽器。
スコットランドの民族衣装だ。
彼はジュディに気づくと、驚いたように目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
透き通るような白い肌に、ブロンドの髪が風になびいて輝いている。まるで古い絵本から抜け出してきた、本物の王子様のようだった。
「おや、こんなところに小さなカボチャさんがいる」
彼は楽器を抱え直すと、悪戯っぽい瞳でジュディを覗き込んだ。
「どうして泣いているんだい? おチビさん」
「……おチビさんじゃないわ、私もう十三よ!」
ジュディは思わず言い返して、慌てて涙を拭った。こんな泣き顔を見られるなんて、恥ずかしくてたまらない。
青年はクスクスと楽しそうに笑った。
「それは失礼。レディに対して無作法だったね。でも――」
彼は屈み込むと、ジュディの目の前で大袈裟に指を鳴らした。すると、何もない空間から一輪の白い野花が現れたかのように、彼の手の中に咲いていた。
「君は泣き顔より、笑顔のほうがずっと可愛いよ」
ジュディは目を瞬かせた。手品? それとも魔法?
呆気にとられているジュディを見て、青年は満足そうにウィンクをすると、再びあの奇妙な楽器――バグパイプを構えた。
「さあ、笑って。涙なんてこの風で吹き飛ばしておしまい」
高らかな音色が丘に響き渡る。それはやっぱり少し間の抜けた音で、ジュディの口元からは、自然と小さな笑みがこぼれた。
ひとしきり演奏を終えると、青年は「ごきげんよう、レディ」と手を振り、霧の彼方へと歩き去っていった。
まるで夢のような出来事だった。
けれど、彼が去った後の草むらには、確かな証拠が残されていた。
キラリと光る銀色の何か。
ジュディはそれを拾い上げた。重厚な銀のブローチだ。翼を広げた鷲と、盾の紋章が精巧に刻まれている。
「……落とし物だわ」
追いかけようとしたが、霧は深くなるばかりで、もう青年の姿はどこにもなかった。
ジュディはその冷たい金属を、宝物のように掌で包み込んだ。
「丘の上の王子様……」
そのブローチは、空っぽになったジュディの心に、小さな灯火をともしてくれた。
いつかまた彼に会って、これを返そう。それはジュディにとって、新しい、そして誰にも言えない秘密の約束となった。
それから、季節がいくつか巡ったある日のこと。
スリーピー・ホロウの谷底は、鮮やかな紅葉の季節を迎えていた。
いつものようにカボチャ畑の手入れをしていたジュディは、リペット院長に呼び出された。
「アボット、話があります。手を洗って事務室に来なさい」
院長の声は、いつもより少しだけ弾んでいるように聞こえた。
事務室に入ると、院長は一枚の手紙を机の上に広げていた。
それは上質な紙でできており、見覚えのある紋章――鷲と盾の刻印が押されていた。ジュディの心臓が早鐘を打つ。
「ジュディ、よくお聞きなさい。あなたにとても良いお話がありましたよ」
院長は眼鏡を外し、珍しく優しい眼差しでジュディを見つめた。
「あなたに、お声がかかったのです」
「お声が……かかった?」
ジュディは呆然と聞き返した。
「ええ。あの『ペリーヌ・ペンドルトン家』からです。これほどの良縁は、めったにあるものではありません」
ペンドルトン家。
それはこの地域のみならず、ニューヨーク社交界でも名の知れた大富豪の一族だった。まさか、あのアニーと同じように、自分も養女になれるのだろうか?
期待に顔を輝かせるジュディを見て、院長は少しだけ困ったように微笑み、それから言葉を選んで続けた。
「ただね、ジュディ。アニーの時とは少し違うのですよ」
リペット院長はジュディの目を見て静かに続けた。
「養女としてではありません。レイクウッドにあるペンドルトン家の分家で、令嬢の『話し相手』を探しているそうです。あなたには、そのお嬢様の遊び相手として、お屋敷に入ってもらいたいのです」
「……遊び相手」
「そうです。お屋敷に住み込みで、そのお嬢様のお友達になってあげるお仕事です。もちろん、生活の心配はいりませんし、お給金も出るでしょう」
院長はジュディの手をそっと握った。
「孤児院を出て、広い世界を見るまたとない機会です。あのお屋敷なら、あなたのその明るさがきっと役に立つはずですよ」
養女ではなかった。あくまで使用人に近い立場だ。
けれど、ジュディの胸は高鳴っていた。
あの丘で拾ったブローチと同じ紋章を持つ家。もしかしたら、あの王子様もその一族の人なのかもしれない。屋敷に行けば、彼に会えるかもしれない。
その淡い希望が、ジュディの背中を押した。
「……はい、行きます! 私、行ってみたいです」
ジュディが大きく頷くと、院長は安堵したように息をついた。
まさかその扉の向こうで待ち受けているのが、「悪魔のような双子」であろうとは――
希望に胸を膨らませるこの時のジュディも、そして彼女を送り出す院長も、知る由もなかったのである。




