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恋をした瞬間に死ぬ呪いなので、無口な騎士様とは家族のふりをします  作者: 百花繚乱


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第2部 選択の呪い編 第1話:安心は、永遠ではない

朝はいつも、静かに始まる。窓の外で鳥が鳴き、城の石畳を掃く箒の音が遠くで擦れ、湯気の立つ紅茶の香りが部屋の隅に溜まっていく。

以前の私なら、その「普通」のひとつひとつが怖かった。

誰かの優しさに胸が詰まり、期待に視界が白くなり、笑いかけられるだけで心臓が乱れる。恋をした瞬間に死ぬ呪いが、日常の端々に罠を仕掛けていたからだ。

けれど今は、呼吸ができる。呼吸が、胸の奥まで届く。

それが奇跡だと気づくのは、奇跡が当たり前になりかけた頃だった。

ベッド脇の椅子に掛けられた外套が、きちんと肩の形を保っている。

昨夜、私が寒そうにしていたから、レオンが黙って用意したものだ。

以前の私は、ああいう「何でもない優しさ」で死ねた。嬉しい、という感情が波のように押し寄せ、心拍が跳ね上がり、もう戻れないほど速くなる。

だから私は優しさを避け、心を殺す訓練をして、言葉も表情も平らにして生きてきた。

それでも――レオンの前だけは、動いてしまう。

動くのに、壊れない。

私は髪を梳きながら鏡を見た。目の下の影が薄い。眠れている証拠だ。

呪いがあると知った日の私なら、眠りは逃げ場ではなく死の予告だった。

心拍の上がらない眠りを探すように、浅い呼吸で目を閉じ、暗闇の中で「恋をしない」と何度も呟いた。恋をしなければ死なない。

恋をしないためには、何も感じない。感じないためには、誰にも近づかない。

私はそのすべてを、少しずつ、ほどいてきた。

カップに紅茶を注ぎ、香りを吸い込む。温かい。舌がほっとして、肩が緩む。

その緩みが嬉しくて、心臓が少しだけ速くなる。私はそれを隠さないで見つめた。

速くなっても、止まらない。速くなっても、死なない。数拍の小さな波が、穏やかに引いていく。

「……大丈夫だ」

自分に言い聞かせる声が、いつの間にか「恐怖の呪文」ではなく「確認の言葉」になっている。大丈夫かどうかは、私が決める。

扉が二度、軽く叩かれた。あの人の癖だ。強く叩かない。急かさない。

答えを待つ間に、沈黙がこちらを追い詰めないように、ほんの僅かな間隔を空ける。

「エルナ」

名前を呼ばれる。心臓がぴくりと動く。けれど、跳ねない。体が覚えている「危険」の感覚が、今は空振りのまま消える。

「入ってください」

扉が開く。レオンが入ってくる。背が高く、鎧の金具が鳴らないように動く人。

視線はいつも必要以上にこちらを捉えない。けれど、私の位置を外さない。

距離を守りながら、離れすぎない。守ることが習慣になり、習慣が優しさになっている。

「今日は、南の回廊を通る」

短い言葉。朝の挨拶の代わりの報告。彼はテーブルに封を切らない手紙を一通置いた。王城の印。私はそれを見ただけで、喉の奥が少し乾く。

「……何ですか」

「医務室からだ」

私は思わず息を止めた。医務室。呪いを告げた医師。隔離を主張し、正論で私を追い詰めたあの人。

レオンが前に立ってくれなければ、私は今ここにいなかったかもしれない。

「今さら?」

「……呼び出しだ」

呼び出し。その言葉の角が、胸の内側を小さく擦った。私はすぐに、恐怖を「恐怖」として膨らませないように、湯気の立つカップに指先を当てた。

熱い。現実。今ここ。私の体温。私は生きている。

「行きます」

口に出してから、自分の声が震えていないことに気づく。レオンは短く頷いた。

いつも通りの動きだ。けれど、その「いつも通り」が、私には頼もしかった。

以前なら、頼もしいと思っただけで危険だったのに。

廊下に出ると、光が広がっていた。春の城は、石の冷たさの中に草花の匂いが混じる。城の人々が行き交い、視線が絡み、噂が生まれる。エルナ。呪いの娘。不吉。誰も口にはしないが、目が言う。近づくな、と。

私はそれにも慣れているはずだった。慣れることは生きるための術だった。なのに今は、慣れが別の形で怖い。「怖い」に慣れた私が、次は「安心」に慣れてしまうのが怖い。安心に慣れると、それを失ったとき、私はどうなるのだろう。

医務室の前で、レオンが立ち止まった。扉の前で、半歩下がる。私が呼吸しやすい位置。彼の体が、いつも私の安全を計算する。計算が優しさになるなんて、私はこの人に会うまで知らなかった。

医師はすぐに私たちを通した。部屋の中は薬草の匂いが濃く、窓は高く、光は細く落ちる。机の上には書類が積まれ、椅子がひとつ余分に用意されていた。その余分が、胸をざわつかせる。

「……来ましたね」

医師の声は相変わらず淡々としていた。正しいことだけを積み上げて、そこに感情を乗せない声。

「呼び出しの理由を」

レオンが先に言う。短く、鋭い。医師はその鋭さに眉を僅かに寄せたが、視線を逸らさなかった。

「彼女の件ではありません。……いや、正確には“彼女だけ”の件ではない」

医師が机の横に置かれた椅子を指した。私は座らないで立ったまま聞く。心拍を穏やかに保つための癖。けれど今日は、座っても平気な気がした。平気な気がすることが、また少し怖い。

医師が扉の方へ合図した。すると、別室に通じる薄い扉が開き、そこから一人の少女が現れた。

年は私より少し下だろうか。髪はぼさぼさで、手首には布が巻かれている。目だけが大きく、怯えが張り付いているのに、どこか諦めの色が混ざっていた。足取りが軽くない。何か重いものを引きずるように歩く。

その少女が、私を見た瞬間――私の胸が、きゅっと縮んだ。

それは同情でも、恐怖でもない。ただ、言葉にならない「理解」の痛みだった。私が昔、鏡の中で見ていた顔と、同じ色がそこにあったから。

医師が淡々と言う。

「この子も同じです。恋をした瞬間に死ぬ呪い――と、診断されました」

少女が小さく肩を震わせた。喉が鳴ったのに声にならず、唇だけが震えている。私は思わず一歩、前に出そうになった。助けたい。抱きしめたい。大丈夫だと言ってやりたい。

その瞬間、心臓が少し速くなる。

私は立ち止まった。速くなることを恐れない。けれど、速くなる理由を見失わない。これは恋ではない。これは、かつての自分を見た痛みだ。

「……名前は?」

私が問いかけると、少女は一度だけレオンの方を見た。無意識に、安全なものを探す目。レオンは何も言わず、ただ立っている。彼の存在が、部屋の空気を整える。

少女は、やっとのことで口を開いた。

「……リィナ」

掠れた声だった。声に力がないのではない。力を入れると、心臓が跳ねるのが怖いのだ。私もそうだった。

医師が机の上の紙を一枚、私の方へ滑らせた。

「彼女は、すでに発作を起こしています。恋をしたわけではない。けれど胸が焼けるように痛み、呼吸が乱れ、心拍が跳ね上がり、意識を失った。……あなたが“死ななかった”事例を聞いて、確認したいことがある」

確認したいこと。つまり、私の「生存」は例外なのか、再現できるのか。医師の目は、私を人として見る目ではなく、現象として見る目に近い。それが嫌なのに、その目の冷たさが、今は逆に救いでもあった。感情を煽らない。余計な言葉を乗せない。

私は紙に目を落とした。そこには心拍の推移や発作の時刻、状況が簡潔に記されていた。「誰かに褒められた」「手を握られた」「名前を呼ばれた」。その一つひとつが、私の体をかすかに硬くする。

「……この子は、恋をしたわけじゃないのに」

私が呟くと、医師は頷いた。

「だからこそ、確認が必要です。あなたが生き残ったのは“安心できる環境”によって心拍が上がらなかったからだと、あなたは言いましたね。……しかし彼女は、安心していない。それどころか、恐怖が常態化している。恐怖が心拍を押し上げるなら、恋以前に危険だ」

私は少女を見た。リィナは、拳を強く握っていた。布の巻かれた手首が白くなる。痛みを堪えるように、感情を締め付けるように。

その姿を見て、胸が再び痛む。私はこの痛みを、ただの感情にしない。私は知っている。恐怖の中で生きると、恐怖に慣れてしまう。そして、慣れは別の形の死を招く。

「……レオン」

私は無意識に彼の名を呼んだ。呼んだ瞬間、心臓が小さく跳ねた。けれど、穏やかに戻る。彼は「何だ」とだけ言って、私の横に半歩近づいた。近づくのに、触れない。触れないのに、支える。

私は医師に向き直る。

「この子を隔離しないでください」

医師の眉が僅かに動く。「正論」を言う準備だ。けれど私はもう、正論に沈まない。沈まないための言葉を、私は持っている。

「私が生き残ったのは、恋をしなかったからじゃない。感情を殺したからでもない。……安心できたからです。安心できる場所があるなら、この子も――」

言いかけて、言葉を探す。軽い希望で傷つけたくない。私が「大丈夫」と言ったせいで、彼女が無理をして心拍を上げたら、それは私の罪になる。

だから私は、息を整えてから続けた。

「すぐに“恋をしても死なない”とは言えません。でも、少なくとも、恐怖の中でこのままにするのは違う。恐怖が呪いを強くするなら、まず恐怖をほどくべきです」

医師は黙った。レオンも黙った。リィナだけが、かすかに目を見開く。希望ではない、でも絶望でもない、間の色。

その間が、私には大切だった。ここからなら、選べる。

医師が一息置いて言った。

「……彼女をあなたの監督下に置くことは、王城としても簡単ではない。だが、あなたの事例は重要だ。騎士レオン、あなたは彼女の護衛としての責任を負えるか」

レオンは迷わなかった。

「負う」

短い返答。けれど、そこには私が何度も救われた「揺らがなさ」があった。私はその揺らがなさに、また少し胸が温かくなる。心臓が、数拍だけ速くなる。それでも、壊れない。

私はリィナに近づきすぎない距離で、目線を合わせた。見つめすぎない。けれど、逸らさない。

「リィナ。……私も同じ呪いを持っています」

少女の喉が小さく鳴った。泣きそうなのに泣けない顔。泣くのも心拍が上がるからだ。

「怖いよね」

私はそう言ってしまってから、少しだけ後悔した。怖いと言うと、怖さが形になる。でも、形にならない恐怖は、もっと厄介だ。だから私は続けた。

「怖いのは当然です。でも、怖いままでも、生き方は選べます。……私は、選べました」

リィナの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。涙が溜まる一歩手前で止まる。止まることが、彼女の防衛なのだと分かる。

その揺れを見て、私は思った。

安心は、永遠ではない。放っておけば、恐怖は戻ってくる。呪いは消えていない。私が生きているのは、奇跡ではなく「選び続けた結果」だ。

そして今、その選択は私だけのものではなくなる。

私はレオンの方を見た。彼は頷く。言葉はない。でも、十分だ。

医師が書類を整えながら言った。

「今日から、状況は変わります。エルナ。あなたが見つけた“安心”が、本当に呪いを変えるのか。……試されることになる」

試される。そうだ。第二の呪いが始まるのではない。第二の選択が始まるのだ。

私は胸に手を当て、静かに息を吸った。温かい鼓動がそこにある。少しだけ速い。けれど、私のものだ。私が選ぶ。

「……はい」

答えた声は、思ったよりも、しっかりしていた。

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