第五話:呪いの正体
その夜、リィナの発作は、前触れもなく起きた。
夕食を終え、部屋で三人で静かに過ごしていたときだった。会話は少なく、けれど穏やかで、危険なほどの高揚はない。私は書き物をし、リィナは窓辺で本を読み、レオンは壁際で控えている。
突然、本が床に落ちた。
乾いた音。
「……っ」
リィナが胸を押さえ、椅子から崩れ落ちる。
「リィナ!」
私は駆け寄る。心臓が一気に跳ね上がるのが分かる。だが、立ち止まらない。
彼女の呼吸は荒く、瞳孔が開き、視線が定まらない。
「いや……こわい……」
繰り返すその言葉に、私ははっとする。
恋ではない。
誰かに触れられたわけでも、甘い言葉をかけられたわけでもない。
ただ――怖い。
「レオン、水を」
短く指示すると、彼は即座に動く。私はリィナの背中を支え、呼吸を合わせる。
「大丈夫。ここにいるよ。ゆっくり吸って、吐いて」
私の鼓動も速い。
でも、壊れない。
リィナの手は冷たい。
「こわい……置いていかれる……」
その言葉に、胸が締めつけられる。
置いていかれる?
「何に?」
私は静かに問いかける。
リィナは涙をこぼしながら、震える声で言った。
「エルナ様が……騎士様と、話してるとき……わたし、いなくてもいいって……」
その瞬間、私の心臓が強く打った。
失う恐怖。
取り残される恐怖。
それが、彼女の心拍を押し上げている。
レオンが水を差し出す。私はリィナの唇にそっと当てる。
「ゆっくり」
彼女の呼吸は次第に落ち着いていく。
危険域を越えずに、戻ってくる。
やがて、彼女は泣き疲れたように眠った。
静かな寝息。
私はその横で、しばらく動けなかった。
「……見たか」
レオンが低く言う。
私は頷く。
「恋じゃない」
「恐怖だ」
その一言が、部屋の空気を変える。
呪いは、恋を条件にしているはずだった。
けれど今の発作は、恋ではない。
恐怖。
失う不安。
「医師に報告する」
レオンが言う。
「私も行きます」
即答だった。
医務室の灯りはまだ消えていなかった。
医師は私たちの報告を黙って聞き、記録を取る。
「……予想はしていた」
やがて、そう言った。
「呪いは“恋”をトリガーとしているが、正確には“急激な自己喪失感”だ」
「自己喪失感?」
私は聞き返す。
「自分の存在価値が揺らぐ感覚。愛されない、選ばれない、必要とされない。そうした感情が、心拍を強制的に押し上げる」
私は言葉を失う。
「恋はその一因にすぎない。強い執着や依存、恐怖も同様だ」
医師は淡々と続ける。
「エルナ。あなたが死ななかったのは、恋をしても“自己を失わなかった”からだ。安心があった。選ばれているという確信があった」
胸の奥が熱くなる。
レオンの言葉が思い出される。
――俺は、お前を選んでいる。
「つまり……」
私は慎重に言葉を選ぶ。
「呪いは、恐怖を増幅させるためのもの?」
医師はわずかに目を細める。
「その可能性が高い。恋を禁じる呪いに見せかけて、実際には“強い感情”を制御不能にする魔術」
「誰が、そんなことを」
レオンの声は低い。
医師は首を振る。
「出所は不明だ。古い王家の記録に類似の記述があるが、詳細は伏せられている」
伏せられている。
管理されている。
私は背筋が冷える。
もしこの呪いが、単なる事故ではなく、意図されたものだとしたら。
恐怖によって人を縛るためのものだとしたら。
医務室を出た後、廊下は静まり返っていた。
私は歩きながら、自分の鼓動を感じる。
速い。
だが、冷静だ。
「……怖いか」
レオンが問う。
「少し」
正直に答える。
「でも、前とは違います」
私は立ち止まり、彼を見上げる。
「恋をすると死ぬ、って言われていたときは、世界が狭かった。でも今は、怖さの正体が少し見える」
レオンは黙って聞く。
「呪いは、感情を否定させるためのものかもしれない。怖がらせて、閉じ込めて、生き方を制限する」
私は息を吸う。
「だったら、逆です。怖くても、選び続ければいい」
レオンの瞳がわずかに揺れる。
「リィナも?」
「はい。あの子が“選ばれている”と感じられれば、恐怖は弱まる」
その言葉を口にして、私は自分の胸を探る。
私は、リィナを脅威だと思っていた。
でも今は違う。
彼女の恐怖は、私が通ってきた道だ。
彼女が安心を得ることは、私の安心を奪うことではない。
「レオン」
「何だ」
「あなたは、騎士として平等に守る。でも、人としては選ぶと言いましたよね」
「ああ」
「だったら、私も選びます」
彼は少し首を傾げる。
「何を」
「恐怖より、信じるほうを」
沈黙の後、レオンは短く息を吐いた。
「……馬鹿だな」
優しい声だった。
私は笑う。
「知っています」
胸の鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。
呪いの正体は、恋ではない。
恐怖と、自己喪失。
ならば。
私たちが選び続ける限り、呪いは完成しない。
遠くで夜の鐘が鳴る。
リィナはまだ眠っている。
明日、彼女に伝えよう。
「あなたは、ここにいていい」と。
その言葉が、彼女の鼓動を守る。
そしてきっと、私の鼓動も守る。
呪いは、感情を奪うためにある。
でも私は、奪われない。
恋も、恐怖も。
全部抱えたまま、生きる。




