第4話 境界の狩人
雨が降っていた。
ガラス窓を流れる雫が歪んで見せる夜の街は、どこか異界に近づいているようだった。
久遠アルマは、鞄の中の血の手帳を指先で確かめながら、傘もささずに歩いていた。
兄――煌真と再会してから、一昼夜が経った。
だがあの後、兄の姿はどこにも見つからず、異界の扉も沈黙を保っている。
残り二日。このままでは、兄は再び“死者”として凍りつくのか、それとも――。
その時だ。
背後で、水たまりを踏む音が一つ。
振り返ると、人影が立っていた。
「……あの時の」
黒スーツに無機質な眼鏡、“境界管理局”と名乗った男が、そこにいた。
「警告したはずだ、令嬢。これは久遠家や君一人で背負える案件じゃない」
低い声は、雨の轟きに半ば消される。
「では、なぜ兄を狙う者を止めなかったのですか?」
アルマは一歩も譲らず問い返す。
「異界の刺客は、境界管理の管轄では?」
男の眉がわずかに動いた。
「……あれは“狩人”だ。依頼さえあれば、誰であろうと追い詰める。理由は問わない」
「依頼?」
「君の兄を消すよう依頼した者がいることは確かだ。ただし、その名は……俺もまだ掴めていない」
男は内ポケットから何かを取り出し、アルマに投げ渡す。
それは、半分だけ破られた古い封筒。
封筒の端には、見覚えのある紋章が刻まれていた――久遠家の家紋。
「……これが意味するのは?」
「それを調べる前に、刺客の方が君を見つけるだろう」
そう言い残し、男は闇の中に溶けた。
夜の路地に、ヒタヒタと水音が近づく。
傘も差さず、顔を覆う黒布を被った人影――異界の制服の裾が、現実に滲み出している。
手にはあの奇怪な刃。
――狩人。
奴は速度を増し、咄嗟にアルマは路地裏へ飛び込む。
足元の影が、まるで生き物のように追ってくる。
ひと息ごとに、現実と異界の風景が切り替わり、建物は黒鉄へ、看板は異形の文字へと変化していく。
狭い裏道の突き当たり、錆びた非常扉が現れた。
アルマは一瞬のためらいもなく扉を押す――中は、見覚えのある異界の廊下だった。
もちろん逃げ場などない……はずだった。
「こっちだ!」
闇の奥から女性の声。灯籠の淡い光が揺れ、かつて血の手帳を渡してきた赤い瞳の少女が立っていた。
その瞬間、狩人の視線がわずかに揺らぐ。
少女はアルマの手を取ると、複雑な匂いのする廊下を一気に駆け抜けた。
数秒後、背後で鉄と鉄がぶつかり合う音が響く――狩人は追ってきている。
二人は古ぼけた教室に駆け込み、扉を閉めた。
赤い瞳の少女は、肩で息をしながら小声で告げる。
「あなたを呼んだ依頼人――その人は、久遠家と深く関わっている。けれど、今は名を告げられない」
「理由は?」
「告げれば、今度はあなたが“狩人”の標的になる」
アルマは短く息をのみ、視線を鋭くした。
「……私はすでに巻き込まれています」
少女の瞳が、ほんの一瞬だけ哀しげに揺れた。
「――残り、四十八時間。時間が尽きる前に、“鐘”の意味を解いて」
その言葉と同時に、窓の外で鈍い鐘の音が鳴った。
異界の空に浮かぶ黒い月が、雨雲のように膨れ上がっていく。
次の瞬間、教室の扉が破られた。
狩人の刃が淡く青白い光を放ち、少女とアルマの間に割って入る。
「……もう時間がない」
少女の声と同時に、足元の床が崩れ、二人は闇へと落ちていった。