第1話 硝子の街で、扉は開く
朝の東京は、まだ眠りの余韻を帯びていた。
霞のように薄い陽光が、硝子張りの高層ビル群を透けて、通りを歩く人々の影を長く伸ばす。
その中を、一台の黒塗りの車が静かに滑るように進んでいた。
後部座席に座る少女――久遠アルマは、肘掛けに載せた指先でゆっくりと本のページを繰っていた。
淡い銀色の髪が、窓から射す光を受けて絹糸のように輝く。
制服の襟元はきっちりと整えられ、足元には上質な革のスクールバッグ。誰が見ても育ちの良さが一瞬でわかる、完璧な令嬢の姿。
だが、その瞳だけは別だ。
澄んだ翡翠色の奥で、光が微かに渦を巻き、通り過ぎる景色をただの風景としては捉えていない。
広告塔に映る時計の反射、路地裏に消える男の影、犬を連れた老女の何気ない視線――すべてを、観察し、記憶し、整理し続けていた。
「お嬢様、本日のご予定ですが――」
運転手の佐伯がバックミラー越しに声を掛ける。
「午後は授業後に、お約束の件で例の…」
「分かってるわ、佐伯さん」
アルマは小さく微笑んだ。それは、決して無邪気な笑顔ではなかった。
「今日の放課後が、最初の“門”を開く日になる――そんな気がするの」
車は名門・白鷺女学院の門前に停まった。
アルマは白い手袋をはめ、足を降ろす。
校門をくぐれば、そこは温室のように整えられた世界。だが今日は、その硝子の温室のひび割れが、確かに見えていた。
午前の授業は、変わらず退屈だった。
ノートは罫線を乱さず埋まり、教師の問いにはすべて模範解答。
だが、アルマの意識は黒板の向こう側――教室の天井に沿って薄く漂う“靄”のようなものに釘付けだった。
それは、普通の人には見えない。
彼女自身も、十日前まで見てなどいなかった。
――十日前。
父の書斎で偶然見つけた、古びた銀鍵。
帳簿の裏に挟まれていたそれに触れた瞬間、世界の輪郭がわずかに揺らいだのを感じた。
壁の向こうに、もう一つの“何か”が存在する確信。
そして、見えてはならない光景が、現実の上に重なりはじめた。
「久遠さん、また気を抜いてるでしょ?」
隣の席の赤羽つかさが、小声で肘をつつく。
「今日、小テストよ。あんたが間違えると私までバカだと思われるんだから」
アルマは微笑んで首を横に振る。その笑顔の裏の影には、つかさが気づかない。
――教室の後方の壁際。そこに立つ、制服姿の“誰か”。
無表情で、灰のように色を失っているのに、瞳だけが炎のようだった。
瞬きした瞬間、その影は消えた。
だが机の上には、一片の色褪せた紙切れだけが残されていた。
《放課後、旧校舎で》
淡く滲む文字。指先に冷たさが走る。
放課後。
夕暮れの校庭に吹き下ろす風は、夏とは思えないほど冷たい。
赤く染まる西の空を背景に、アルマはひとり旧校舎の前に立った。
使われなくなった建物は沈黙し、窓は黒い虚空のようだ。
――そして、そこにある。
視界の端に、ゆらめく光の輪。
現実の空間が、まるで水面のように歪み、黒鉄の扉が形を成す。
扉の向こうから、誰かが囁く。
――久遠アルマ、ようこそ“向こう側”へ。
凍った空気を吸い込み、彼女は手を伸ばした。
手袋越しでも感じる、骨のように冷たい感触。
次の瞬間、世界は静かに割れた。
そして――異界と現実が、初めて交わるのだった。