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地平面ディスニア

作者: 加藤とぐ郎

 観光資源の乏しい田舎と短絡的に吐き捨てるのは容易いが、確かにこの地域は地方創生に力を入れているような場所ではなかった。


 地方中枢都市から車で三時間かけ、漸く身体を自由に伸ばす事ができた。深く呼吸すると、やはり都市部に比べて空気が清浄である事を嫌でも味わってしまう。


 遠くブナやらミズナラやらの落葉広葉樹が背景を作っている、広々とした駐車場で、彼は一息ついた。


「五年、いや十年後にゃ、ここの地価はうん十倍になる」


 信憑性の欠片も無い、ただのおっさんの世迷い言だった。元々キャンプ場として開拓されたこの土地には年に数組の客が星を見に来るとか来ないとかで、キャンプ場としてはまったく繁盛していない。

 テントサイトの芝生は手入れが為されておらず、雑草も混じり酷く見栄えが悪い。


 曇り空に彼の吐いた煙が消えていく。雨は降らないという予報だが、天気が変わりやすいので安心はできない。灰皿を車に戻し、トランクからテントを取り出した。


 鬱蒼とした緑に種々の虫が飛び交う。幼少期からインドア派でキャンプに行った事が一度か二度あったかという程度、上京してからはすっかり都会人じみてしまった彼にとって今目の前にある自然はアウェイでしかなく、敵地の只中に居る兵士のような緊張感が身体を強張らせていた。


「好きにせえ。お前のもんじゃ。まあ、税金は払わにゃならんけども」


 おっさんから約1700坪の土地を譲って貰った。正確には五年ほど前から彼の名前で登記されていたらしい。おっさんの唯一の遺産にして、罪滅ぼしなのだそうだ。


 両親が離婚して、父親は過労で他界、その後彼の保護者になったのが彼の伯父つまりおっさんだった。そのおっさんが亡くなってからもう一月にもなる。


 晴れた。星が降って落ちてきそうな、綺麗な空だった。星と星が立体的に配置されている。宇宙の奥行きを実感して、彼は息をのんだ。この夜空のためなら、またここに来るのも悪くない、そう思えた。


 彼は揺れる火を眺め、緩やかに癒されていた。しかし何か、満たされない思いが肺を圧迫しているような不透明な息苦しさがあった。

 一抹の楽しさのために、拭いようのない不快感と付き合わなければならない理由を、灰の中に求めてでもいるかのように、一心に焚き火を眺めていた。


 不意にテントから気配がした。彼は警戒を厳にしてチェアから立ち上がり、手近にあった火バサミを構えた。野生動物の息づかいが生々しく感じ取られる。

 子グマか何かか。恐怖心と自棄になった足が、テントへと肉薄していく。


 彼が見つけたのは、年端もいかない少年だった。


「家族は?」


 少年は首を振った。どういうわけか迷子らしい。一番近い民家でも相当な距離歩かなければならない。無地のロングTシャツにカーゴパンツという風采で、なんだか酷く精彩を欠いていた。地元の子どもという感じもしない。


「親は?お父さんとか、お母さんとか」


 少年は何も言わずただ俯いていた。それだけで察するに余りある。


「甘いのは、嫌い?」


 彼はマシュマロを持ってきて少年にあげた。まさかノリで買ったこれが役に立つとは思わなかった。少年は、最終的に袋に手を突っ込んでそのまま口に運んでいた。


「え?何しに来たかって?」


 少年の声は聞こえなかった。けれど、少年がそう自分に質問した事だけ覚えていた。少年の眼差しが彼に問う。


「キャンプだよ」


 何故。そう聞かれたような気がした。奇妙なことに、彼はここに言葉を要せずコミュニケーションが成立している状況を自然に受け入れてしまっていた。それは後々になって小さな違和を感ずるばかりであった。


「なんでって、一応キャンプ場だし、当面の間はな。どんな場所かなって、ええっと、ここおれの土地なんだよ、だから見に来たっていうか」


 少年は首を傾げる。


「キャンプって何?それは、なんだろう、今おれがやってる事としか。……人がキャンプするのはどうしてか?」


 彼は悩み、そして暫く黙った後でどっと息を吐いて肩を下げた。


「解放感を得たいんじゃないか。きっと。だって見てみろ」


 指の先が示した景色は真っ暗で、見上げれば輝く星があるだけ、風の匂いは新鮮で、鳴き声がずっと止まず、まったく夜の手触りに包まれていた。


「こういうのはコンクリートとか、アスファルトとかに囲まれていたらなかなか感じられないからな」


 少年の前髪が目元を隠していて、視線がどちらに向いているかはわからなかった。火が少年を暖かい色に照らしている。


「キャンプに限らず、旅っていうのは眠る事だと思うんだよ。おれは結局、何を見たとか食べたとかじゃなくて、どこで何を考えながら寝たのか、それが旅のすべてを決めるんじゃないかなって、思うんだ」


 隣で息をする少年が、彼の言葉を心から聞いているのだということだけはなんとなくわかった。


「それで言うとさ、おれ昔から寝袋では眠れないんだよ。窮屈だからなのか、どうも息苦しくてな。おれがあんたぐらいの歳の時、一回だけキャンプ行った事があってさ、おれが寝れない寝れないってぐずるから結局……三人とも、車で眠るはめになったんだよ。せっかくテントたてたのにまったく意味ねえの」


 少年は少し微笑んで、彼は少し救われた。彼の錯覚かもしれないが、気にせず、だらだらと話を続ける。


「眠ってる時だけは、何も感じず何も考えず、何をしなきゃならないとか、そういうの考えなくて済むだろ?そういう人生の荷物を降ろせるのが、良いところだよな。これも、解放感」


 少年は不意に立ち上がった。それはちょうどチェアに腰かけた彼の目線と同じ高さだった。


 少年は彼にお礼を言った。やはり声は発しなかったものの、少年の真心は確かに伝わってきた。そして、もう大丈夫だという旨を告げ、暗い林の中に消えて失せてしまった。


 彼はその背中を引き留めなかった。引き留められなかった。既に少年は去った後で、彼にはどうする事もできなかったのだ。


 いつしか空には雲がかかり、彼は寝支度をした。

 それが十年前の思い出である。


 観光資源の乏しい田舎と短絡的に吐き捨てるのは容易い。やはり未だにこの地域は地方創生に力を入れているような気配はない。


 しかし近年の勤務形態の変容が、空前の旅ブームを起こし、その二次的なものとして、キャンプブームも広がっていた。

 そしてキャンプ場を複数経営している大手の会社が、彼の土地に目を付け、十年前のおよそ十倍の額で買収した。


 彼は土地を手放し、肩の荷が降りた気持ちだった。星が綺麗な夜、彼はあの夜を思い出す度に、空気を胸一杯に吸い込んで、清々しい気持ちで吐き出すのだ。

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