第4話
桜の視点
朝、目を開けると、取り調べ室の冷たい空気が肌に触れた。鉄格子の窓から差し込む薄い光が、部屋の簡素なベッドを照らしている。隣で皐月がまだ寝息を立てていたが、早希先生のベッドは空だった。
「先生…どこ?」
私はベッドから身を起こし、部屋を見回した。昨夜、早希先生の大雑把な励ましに少し肩透かしを食らったけど、彼女の存在は私にとって大きな安心だった。
なのに、こんな朝にいなくなるなんて。胸の奥で小さな不安が芽生える。
「皐月、起きて。先生がいないよ」
私は妹の肩を軽く揺すった。皐月の目がゆっくり開き、寝ぼけた声で呟く。
「桜…? 先生、どこ行ったの…?」
彼女の声には、私と同じ不安が滲んでいた。私たちは顔を見合わせ、急いで制服を整えた。警察署は一時的な避難所だけど、完全な安全地帯じゃない。
ゾンビのうめき声が、遠くから聞こえてくる。
両親のことが頭をよぎる。父さんと母さん、装甲車に乗ってるはずだから、きっと無事だよね――そう信じたいけど、心の奥の恐怖は消えない。
「とりあず、外に出てみよう。先生、どこかで警官と話してるかもしれない」
私の言葉に、皐月は頷いた。彼女の目は、いつもより少し怯えているように見えた。
念動力を使うたびに、彼女の体は疲弊していく。
私も、パイロキネシスを使った後の罪悪感に苛まれる。学校でゾンビを焼き尽くした時の、黒焦げの顔が脳裏に蘇る。
あれは人間じゃなかった。でも、もし誰かに能力を見られたら、私たちはどうなるんだろう?
皐月の視点
取り調べ室を出ると、警察署のロビーは慌ただしかった。
警官たちが装備を整え、偵察に出る準備をしている。コンクリートの壁には銃弾の痕が刻まれ、血と消毒液の匂いが鼻をつく。私は桜の手を握り、ざわめきの中で少しでも安心を求めた。
「桜、なんか…嫌な予感がする」
私の念動力は、無意識に周囲の空気を捉えていた。警官たちの緊張した振動、生存者の不安な囁き。全てが、私の心を重くする。桜は私の手を強く握り返し、力強く言った。
「大丈夫、皐月。私たちが一緒なら、どんなことだって乗り越えられる」
その言葉に、私は少しだけ勇気をもらった。桜はいつもそう。私の弱さを、彼女の強さで包んでくれる。
ロビーで、偵察に出る警官の中に、昨夜話した佐藤さんを見つけた。
彼も私たちに気づいたようで、ミーティングが終わるとこちらにやってきた。
「おはよう、桜、皐月。今日、君たちのご両親がいるかもしれない銀行も回ってくるからな。いい知らせがあるといいな」
佐藤さんの軽い口調に、私は思わず笑顔になった。
「ありがとう、佐藤さん! お願いします!」
桜も頷き、感謝の目を向けた。だが、彼女の指先がわずかに熱くなっているのに気づいた。彼女のパイロキネシスは、感情が高ぶると制御が難しくなる。
私も、念動力で近くのペンが浮きそうになるのを、必死で抑えた。
佐藤さんが外に出ていくのを見送りながら、私は桜に囁いた。
「桜、お父さんやお母さん、絶対に無事だよね?」
彼女は一瞬、目を伏せたが、すぐに笑顔で答えた。
「うん、絶対に。父さんと母さんなら、どんな状況でも生き延びるよ」
その言葉に、私は胸の奥の恐怖を押し込めた。信じよう。
桜と一緒なら、どんな希望だって持てる。
桜の視点
警官の一人に頼まれ、私と皐月は屋上で見回りの手伝いをすることになった。警察署の屋上は、コンクリートの床に鉄柵が張り巡らされ、双眼鏡が置かれていた。街を見下ろすと、住宅街のあちこちにゾンビが徘徊し、血と煙が漂っている。私は双眼鏡を手に、遠くの道路を眺めた。
「皐月、何か見える?」
私は双眼鏡を渡し、彼女に尋ねた。皐月は双眼鏡を覗き込み、念動力で空気の振動を捉えながら答えた。
「ゾンビが…まだ増えてる。遠くに、煙が上がってる場所もあるよ。桜、怖いね…」
彼女の声は震えていた。私は彼女の肩を抱き、囁いた。
「怖くても、私たち、生きなきゃいけない。お父さんやお母さんに会うために」
その言葉は、私自身を励ますものでもあった。私の指は熱く、炎がくすぶる感覚が強くなっていた。能力を使うのは怖い。
誰かに見られたら、迫害されるかもしれない。でも、使わなければ、死ぬかもしれない。
突然、一階から騒がしい声が聞こえてきた。警官たちの叫び声、生存者のざわめき。
私は皐月と顔を見合わせ、急いで階段を駆け下りた。ロビーに着くと、佐藤さんが血まみれで立っていた。身体中に細かい擦り傷や切り傷があり、目は恐怖で震えていた。
「佐藤さん!?」
私は思わず叫び、彼に近づいた。皐月も私の後ろで息を呑んだ。佐藤さんは、震える声でまくし立てた。
「銀行…バリケードが壊されてて、中が荒らされてた。死体が…ゾンビに噛まれたんじゃない、撲殺されてたんだ! それで、逃げようとしたら…黒い肌の大男が現れて、仲間を…殴り倒して…俺、命からがら逃げてきた…!」
その言葉に、私の心臓が凍りついた。銀行。両親がいるかもしれない場所。バリケードが壊され、人が撲殺された? 父さんと母さん、まさか…? 皐月の顔も真っ青になり、彼女の手が私の腕を強く掴んだ。
「桜…どうしよう…お父さん、お母さん…」
皐月の声は、涙で震えていた。私は彼女の手を握り、必死で冷静さを保った。
「まだわからないよ、皐月。お父さんやお母さんは無事かもしれない。佐藤さん、詳しく教えて!」
だが、その瞬間、屋上からの無線が響いた。
「黒い肌の大男! こちらに向かってくる! ゆっくり歩いてるけど…やばいぞ!」
叫び声ともつかない声に、ロビーの空気が一変した。警官たちが一斉に動き出し、銃を手にバリケードへ向かった。私は皐月の手を握り、彼女の目を覗き込んだ。
「皐月、落ち着いて。私たち、戦うしかない」
彼女は震えながらも、頷いた。彼女の念動力は、私の炎と一緒に、どんな敵にも立ち向かえるはずだ。
でも、心の奥では、恐怖が叫んでいた。あの大男は、ゾンビなんかじゃない。もっと恐ろしい何かだ。
皐月の視点
ロビーの混乱の中、早希先生が現れた。彼女は警官たちと食料の整理をしていたらしく、汗と埃で汚れた顔で私たちに駆け寄った。
「桜、皐月! 無事だったのね! 何!? 黒い肌の大男!?」
早希先生の声は、教師らしい冷静さと焦りが混じっていた。私は彼女の姿に少し安心したが、すぐに恐怖が押し寄せた。あの大男が、銀行を襲った怪物なら、両親は…? 私は桜の手を握り、声を絞り出した。
「先生、大男の化け物が来るって…多分だけどお巡りさんたちじゃ、止められない。」
桜が私の手を強く握り返し、早希先生に言った。
「先生、急いで逃げなきゃいけない。でも、私たちなら、時間稼ぎができる」
その言葉に、早希先生の目が鋭くなった。
「時間稼ぎ? 何!? あなたたち、危険なことするつもり!? 教師として、そんなの認められない!」
彼女の声は、教師の責任感に満ちていた。私は桜と顔を見合わせ、覚悟を決めた。私たちの能力は、隠し続けたい。でも、今、使わなければ、誰も生き延びられない。
「先生、私たちなら、勝ちにいかなければ…防戦に徹すれば戦えるんです。でも、手加減ができないから…先生を傷つける方が怖い」
私の声は震えていたけど、桜が私の言葉を引き継いだ。
「私たち、能力を使って、みんなが脱出するまで時間稼ぎします。先生は、生存者をまとめて、脱出の準備をしてください」
桜の目は、まるで兵士のようだった。私も、同じ覚悟を胸に抱いた。早希先生は一瞬、私たちの目に気圧されたように見えた。だが、すぐに頷いた。
「…わかった。無理しないで、必ず戻ってきなさい。手筈が整ったら、クラクションで合図するから。約束よ!」
その言葉に、私たちは頷いた。早希先生の信頼が、私たちの背中を押した。
私たちは仮眠室に戻り、窓から外を覗いた。
バリケードの向こうで、黒い肌の大男が現れた。身長は2メートル以上、墨汁のような肌に、目は赤く光っている。
警官たちが一斉に射撃したが、大男は銃弾をものともせず、バリケードを拳で叩き始めた。
鉄が軋む音が響き、バリケードが崩れる。警官たちはなすすべもなく殴り倒され、壁に叩きつけられた。私は桜の手を握り、恐怖で震えた。
「桜…あれ、倒せるの…?」
私の声は、涙で震えていた。桜は私の肩を抱き、囁いた。
「倒せなくても、時間は稼げる。皐月、あなたがいるから、私、強くなれる」
その言葉に、私の心に火が灯った。桜と一緒なら、どんな怪物だって怖くない。
私は頷き、覚悟を決めた。
桜の視点
私と皐月は一階のロビーに降りた。大男はまだロビーにいて、ゆっくりと周囲を見回していた。血と硝煙の匂いが鼻をつく。
私は皐月と顔を見合わせ、計画を確認した。
「まず、大男を足止めして、生存者を二階に集める。集め終わったら、大男を三階以上に誘導して、生存者を一階に移動させる。脱出の準備ができたら、私たちが大男を動けなくして、車で脱出する。チャンスは一回きり、失敗はできないよ」
皐月の目は、恐怖と決意が混じっていた。彼女は頷き、小さく言った。
「うん、桜。あなたと一緒なら、できるよ」
私たちは再度、顔を見合わせ、覚悟を決めた。
私は深呼吸し、炎を呼び起こした。指先が熱くなり、心臓の鼓動が速くなる。
「行くよ、皐月!」
私たちは大男の前に飛び出し、私は両手を上げ、火球を顔面に放った。
オレンジの炎が大男の顔を包み、轟音がロビーに響く。
大男はよろめき、咆哮を上げた。
私は一瞬、勝利を信じた。だが、すぐに大男は動き出し、赤い目で私たちを睨んだ。
「皐月、今だ!」
私の叫びに、皐月が念動力を放った。大男の巨体が、まるで人形のよう壁に叩きつけられ、コンクリートがひび割れる。
大男は膝をつき、動かなくなった。私たちは息を殺し、距離を取った。警官の銃弾をものともしなかった怪物だ。
こんな簡単に倒れるはずがない。
案の定、大男はゆっくり立ち上がり、私たちに向かって歩き始めた。その瞬間、階段の方から合図の音――金属を叩く音が響いた。
生存者が二階に集まった合図だ。
「皐月、階段へ! 音を立てて!」
私たちは階段を駆け上がり、わざと大きな足音を立てた。
大男が追ってくるのを確認し、四階へ向かう。私は火球を放ち、皐月が念動力で大男を吹き飛ばす。
繰り返し、繰り返し、時間を稼ぐ。私の体は熱くなり、汗が額を伝う。皐月の顔は青ざめ、念動力の負担で息が荒い。
「皐月、大丈夫!?」
「うん…まだ、できる…!」
彼女の声は弱々しかったけど、目は燃えていた。
私たちは後退しながら、大男を五階、六階へと誘導した。
どれくらい戦っただろう。
数えるのを諦めた後も、何度も火球と念動力を放った。
皐月の視点
私の体は限界だった。念動力を使うたびに、頭が締め付けられるように痛む。
桜も、炎を放つたびに、顔が青ざめていく。
それでも、私たちは止まらなかった。
生存者のため、早希先生のため、そして、両親に会うために。
突然、外からクラクションの音が響いた。
脱出の準備ができた合図だ。
私は桜と目を合わせ、頷いた。
「皐月、仕上げだよ!」
桜の声に、私は全ての力を振り絞った。桜が、ギリギリの体力を残す最大の火球を放つ。
炎が大男の視界を覆い、咆哮が響く。
私は念動力を集中させ、廊下の壁と天井を倒壊させた。コンクリートの瓦礫が大男を押し潰し、轟音が警察署を揺らす。
「これで…終わり…!」
私は息を切らし、桜の手を握った。倒せたかどうかはわからない。
でも、時間が稼げれば、それでいい。
私たちは階段を駆け下り、一階のロビーを抜け、早希先生のSUVに飛び乗った。
「桜、皐月! 無事!?」
早希先生の声に、私たちは頷いた。
車列は一気に発進し、警察署を後にした。
私は桜の肩に凭れ、息を整えた。
私の念動力は、瓦礫の下の大男の振動をまだ捉えていた。
動いていない。
でも、完全に死んだかどうかはわからない。
「桜…私たち、生き延びた…」
私の声に、桜は微笑んだ。
「うん、皐月。あなたがいたからだよ」
車列が走り去る中、私は桜の手を握り、目を閉じた。
両親は、まだ見つかっていない。
でも、私たちには希望がある。
桜と一緒なら、どんな危機も乗り越えられる。
車列が去って数分後、警察署の瓦礫の中から、黒い肌の大男が這い出してきた。
全身に傷を負いながら、ゆっくりと立ち上がり、一度咆哮を上げる。
赤い目が、車列の去った方向を見つめ、ゆっくりと歩き始めた。その姿は、桜と皐月の知らないところで、新たな脅威を予感させた。