第22話
ホールへと戻る足取りは重かった。桜の心臓は、依然としてドクドクと耳元で鳴り響き、恐怖と緊張が混じり合った血流が全身を駆け巡る。皐月の手は冷たく、だがその握る力は姉妹の絆を象徴するようにしっかりと桜の手を包んでいた。背後には、レザーと呼ばれる謎の少女が無表情でついてくる。彼女の足音は不思議と静かで、革靴が床を擦る音すらほとんど聞こえない。その異質な存在感が、桜の背筋をさらにゾクゾクとさせていた。
玄関ホールの天井は高く、薄暗いシャンデリアが埃をかぶって鈍く光っている。壁には古びたタペストリーが掛かり、その模様が歪んで見えるたびに、桜は何かが見ているような錯覚に襲われた。レザーの緑色の瞳が、時折その暗闇を捉えるように光り、まるで獣の目のような鋭さが桜の神経を削る。
だが、彼女の声は依然として機械的で感情がなく、「お腹…すいた…」という呟き以外、ほとんど言葉を発しない。その無機質さが、逆にホラー的な雰囲気を増幅させていた。
「ここが出口だよね…」桜は震える声で呟き、木製の扉のノブに手を伸ばした。
冷たい金属が指先に触れ、ぞっとする感覚が腕を伝う。ゆっくりとノブを回すが、カチリと小さな音がして、動かない。鍵がかかっている。
桜の胸が締め付けられ、息が詰まるような感覚に襲われた。
「皐月、開けてみて…」
桜は姉に懇願するように見つめた。皐月は頷き、目を閉じて集中する。彼女の念動力が空気を震わせ、扉の周囲に微かな波紋のようなものが広がる。
だが、ノブはビクともしない。内部の機構が壊れているのか、異様な抵抗感が皐月の能力を拒むようだった。皐月の額に汗が浮かび、震える手が空を掴むように動く。
「ダメ…動かない。鍵じゃなくて、何か…壊れてるみたい…」皐月の声は掠れ、恐怖と疲労が混じっていた。桜は歯を食いしばり、扉を叩いてみるが、鈍い音が響くだけで反応はない。背後で、レザーが無表情で立っている。
その存在が、さらに不気味さを増していた。
「他の出口を探すしかないね…」桜は力なく呟き、皐月の手を握り直した。
レザーが小さく首を傾げ、緑色の瞳が暗闇に浮かぶ。
彼女の気配は人間離れしており、桜は思わず後ずさりそうになるのを堪えた。ホールに再び静寂が戻り、遠くで階段が軋む音が響く。
巨大な影がまだ上階にいる証拠だ。
桜の背筋に冷たいものが走り、逃げ出したい衝動が抑えきれなかった。
「皐月…怖いよ…」桜は姉の腕にしがみつき、声を震わせた。皐月は優しく桜の頭を撫で、決意のこもった瞳で妹を見下ろす。
「桜、逃げても追いかけてくるよ。あの影…いや、怪物が何者であれ、私たちを狙ってる。家族を守るには、確かめるしかない…」
皐月の声は静かだが、鋼のような強さが宿っていた。
桜は頷き、恐怖を飲み込んだ。姉の言葉に背中を押され、なんとか立ち直る。
「うん…皐月、あなたがいるなら、私、頑張れるよ」
桜は小さく微笑み、炎を静めるように深呼吸した。レザーが無言で二人の後ろに立ち、その異質な気配が再び桜の神経を刺激する。だが、今は彼女を連れて行くしか選択肢がない。早希先生に相談し、この謎を解くためだ。
三人はホールから食堂へと戻った。ダイニングのテーブル下に隠れた記憶が蘇り、桜の足が一瞬止まる。乾いた血の跡がテーブルに残り、肖像画の目が依然として睨んでいるように感じられた。皐月の念動力が空気を震わせ、異変を警戒する。レザーは無表情で歩き続け、その足音の不在が不気味さを増していた。
西の長廊下へ進むと、薄暗い通路が続き、壁紙が剥がれ落ちた跡が不気味な模様を描いていた。
床の黒いシミは血の匂いを放ち、湿った空気が肺に重くのしかかる。
桜は鼻をつまみたくなる衝動を抑え、皐月の手を強く握った。レザーが無言でついてくるその姿は、まるで幽霊のように浮遊しているようだった。
やや右側の扉にたどり着き、桜が恐る恐るノブを回す。
キィィと軋む音が響き、扉が開くと、そこはバーラウンジだった。薄暗い部屋には、埃をかぶったバーカウンターが並び、古びたグラスが棚に置かれている。革張りのソファはひび割れ、床には割れたボトルが散乱していた。窓は板で塞がれ、わずかな光が隙間から漏れるだけ。空気はカビとアルコールの匂いで充満し、桜の胃が縮こまる。
「ここ…ヤバいね…」桜は呟き、部屋を見回した。壁には爪痕が残り、血痕のような赤黒い跡が不気味に光る。皐月の念動力が空気を震わせ、異変を感知しようとする。
レザーが無言でソファに座り、緑色の瞳が暗闇に浮かぶ。
その無表情な顔が、逆にホラー映画のワンシーンを思わせ、桜の背筋が凍った。
「皐月…ここで少し休憩して、方針を決めようか?」桜は姉に提案し、ソファの端に腰を下ろした。革が軋み、埃が舞い上がり、咳き込む。皐月は頷き、レザーの隣に座った。
レザーは動かず、ただじっと前を見ている。
その存在感が、部屋に重苦しい雰囲気を加えていた。
「まず…あの影が何者か、確かめる必要があるよね」皐月が静かに口を開いた。
彼女の青い瞳には決意が宿り、汗で濡れた前髪が額に張り付いている。桜は頷き、炎を静めるように手を握り締めた。
「うん…でも、タイタンじゃないみたいだった。あの肩の広さ、腕の長さ…人間じゃない何かだよ。レザーも…変だよね」
桜はレザーを見やり、彼女の白い髪と緑色の瞳に目を留めた。
レザーは無反応で、ただじっとしている。
「レザー…あなた、覚えてることない?」皐月が優しく尋ねた。レザーは首を傾げ、ゆっくりと口を開く。
「…レザー…エプロン。目が覚めたら、ここにいた…」声は機械的で、感情が欠けている。桜は胸が締め付けられ、彼女の異質な気配にゾッとした。
「記憶喪失なのかな…でも、生きてる感じが変。心臓の音が遅すぎるよ」
皐月が念動力を用いてレザーを探り、眉を寄せた。
桜はリュックから懐中電灯を取り出し、部屋を照らす。
光が壁の爪痕を浮かび上がらせ、血痕が赤黒く光る。
棚の奥には、古い写真が転がっており、ズームインすると、黒い外套を着た人物が映っている。
レザーに似ている。
「これ…レザーじゃない?」桜は写真を拾い上げ、皐月に見せた。皐月が目を細め、念動力を集中させる。
写真から微かな気配が感じられ、部屋の空気が一瞬重くなった。
「似てる…でも、違う。同じ種類の存在かも」
皐月が呟き、桜は息を呑んだ。レザーがその言葉に反応し、緑色の瞳を向ける。無表情だが、どこか警戒しているように見えた。
「レザー…あなた、危険じゃないよね?」桜は勇気を振り絞り尋ねた。レザーは首を振らず、ただじっと見つめる。
その視線が、桜の心臓を締め付けた。
「…わからない。あなたたち、いい人?」
レザーの声は無機質だが、どこか純粋さを感じさせる。桜は笑顔を浮かべ、頷いた。
「うん、レザー。私たち、友達になれるよ。あなたを助けるから」
桜の言葉に、皐月が微笑む。
「桜の言う通り。レザー、あなたを連れて、早希先生に相談しよう。外に出る方法を探すよ」
皐月が立ち上がり、念動力を広げる。部屋の空気が震え、遠くで階段の軋む音が再び響いた。
巨大な影が近づいている気配だ。
「皐月…また来た!」桜は立ち上がり、炎を帯びた指先を構えた。
レザーが無言で立ち上がり、緑色の瞳が暗闇に光る。
バーラウンジの空気が一気に重くなり、ホラー的な緊張感が三人を包んだ。
「桜、準備OK?」皐月が念動力を集中させ、扉を警戒する。桜は頷き、炎を静かに燃やす。
「うん、皐月。レザー、一緒に戦おうね」桜はレザーに手を差し伸べた。
レザーは無表情で手を握り返し、その冷たい感触が桜の決意をさらに強めた。
扉の向こうから、ドス、ドスという重い足音が近づいてくる。バーラウンジの闇が一層深まり、爪痕の壁が血のように赤く光る。
洋館の謎と戦いが、さらなる深みへと三人を引き込んでいくのだった。