第10話
SUVが、夕暮れの町を突き進む。早希先生がハンドルを握り、後部座席で私と皐月は手を握り合っていた。
黒い大男の襲撃――あの2メートルを超える巨体、墨汁のような肌、赤く光る目――から、氷川拳志という大柄な男の助けで逃れたばかりだ。
彼の跳び蹴りが大男の頭部を叩きつけ、一本背負いでアスファルトに叩き落とした瞬間が、脳裏に焼き付いている。
でも、あの大男は、警察署の瓦礫の下から這い出した怪物だ。拳志は、本当に勝てるのか?
窓の外では、焼け焦げた建物が夕陽に赤く染まり、ゾンビの死体が道端に転がる。町は静かすぎる。
ゾンビの気配は薄く、まるで死神が別の獲物を追っているようだ。私は皐月の手を強く握り、震えを抑えた。
彼女の青ざめた顔、汗で濡れた前髪。念動力の負担が、彼女の体を蝕んでいる。私は彼女の肩に手を置き、囁いた。
「皐月、大丈夫? もう、安全なところにいるよ」
彼女は弱々しく微笑み、私の手を握り返した。
「うん、桜。あなたがいるから、怖くない。でも…拳志さん、大丈夫かな…」
その言葉に、胸が締め付けられる。彼が戦ってくれたから、私たちは逃げられた。
彼の丸太のような腕、鋭い目、獣のような動き。
あの高校生が、ただの噂話じゃないことは、戦いを見れば明らかだった。
早希先生が、バックミラーで私たちを見た。彼女の眼鏡の奥の目は、疲れていながらも、教師らしい決意に満ちている。
「二人とも、落ち着いて。ひとまず、私の家に向かうわ。でも、黒い大男がこの車のタイヤ痕を追ってくる可能性がある。途中で車を乗り換えるのが安全よ」
その提案に、私はハッとした。あの大男の鋭敏な感覚を、警察署での戦いで感じていた。瓦礫の下から這い出し、私たちの家を荒らした彼が、タイヤ痕を追うのは容易い。私は頷き、言った。
「先生、賛成です。車を乗り換えましょう。皐月、どう?」
皐月も、力強く頷いた。
「うん、先生の言う通り。あの大男に、追われたくない」
先生は小さく微笑み、アクセルを踏んだ。
「よし、決まりね。ショッピングモールに寄って、車を乗り換えるわ」
皐月の視点
SUVが、警察署の生存者たちと別れたショッピングモールに到着した。夕陽が、割れたガラスと崩れた看板を赤く染める。
かつては家族連れで賑わった駐車場も、今はゾンビの死体と放棄された車が散らばる廃墟だ。
風が埃を巻き上げ、壊れたカートの車輪が軋む音が響く。
私は桜の手を握り、胸の鼓動を抑えた。ゾンビの気配は薄い。でも、黒い大男が、どこかで私たちを追っているかもしれない。
早希先生が、銃を手に周囲を警戒した。
「ゾンビはいなさそうね。車を多数の駐車エリアに停めて、鍵のかかってない車を探すわ。二人とも、気をつけて」
私たちは頷き、SUVを駐車場の奥、数十台の車が密集するエリアに停めた。先生の計画は、タイヤ痕を他の車と混ぜ、追跡を難しくすることだ。私は桜と顔を見合わせ、彼女の目が燃えているのを見た。
「皐月、急ごう。あの大男に、追いつかれたくない」
その言葉に、私は頷いた。桜の強さが、私を前に進ませる。
私たちは、車を一つずつ調べ始めた。錆びたセダン、ドアが開いたままのバン、ガラスが割れたトラック。
鍵がかかっているか、エンジンが動かない車ばかりだ。私は念動力を軽く使い、ドアノブを遠くから動かしてみたが、疲れで力が弱い。桜が、私の肩に手を置いた。
「皐月、無理しないで。私も探すから」
彼女の声に、私は微笑んだ。桜の温もりが、恐怖を和らげてくれる。
しばらく探すと、先生が声を上げた。
「二人とも、こっち! 鍵がついたままの車、あったわ!」
私たちは急いで駆け寄った。
そこには、先ほどのSUVより一回り小ぶりな、灰色のSUVがあった。運転席に鍵が刺さったまま、無用心に放置されている。先生がドアを開け、エンジンをかけると、かすかに唸りが響いた。
「動くわ。荷物を移して、すぐ発進するよ」
私たちは手早くバックパックと食料を移し、乗り込んだ。私は桜と後部座席に座り、彼女の手を握った。車が発進し、ショッピングモールを後にする。夕陽が、駐車場の車を赤く染め、タイヤ痕が他の車と混ざり合う。
私は祈った。黒い大男、追ってこないで。
桜の視点
新しいSUVは、生存者たちの車列が向かった方向に沿って走る。早希先生は、タイヤ痕を他の車と混ぜ、追跡を難しくするために慎重に運転した。窓の外では、荒廃した町が夕暮れに沈む。焼け焦げたアパート、血痕が残る歩道、ゾンビの死体が転がる交差点。
町は、まるで息を止めているようだ。私は皐月の手を握り、彼女の震えを感じた。
「桜…拳志さん、勝てたかな…?」
皐月の声は、弱々しかった。私は彼女の肩を抱き、力強く言った。
「うん、皐月。あの人の戦い方、見たよね? 規格外だった。彼なら、絶対に大丈夫」
私は拳志の戦いを思い出した。丸太のような腕で大男を殴り、一本背負いで叩き落とした姿。彼は、ただの高校生じゃない。
噂通りの戦士だ。私は彼を信じたい。でも、黒い大男の赤い目が、脳裏にちらつく。あの怪物は、簡単に倒れるとは思えない。
早希先生が、静かに言った。
「二人とも、もうすぐ私の家に着くわ。コンクリート造のマンションだから、しばらくは安全よ。そこで、両親の手がかりや脱出口の情報を整理しましょう」
その言葉に、私は頷いた。先生の家。新たな拠点。両親との再会への一歩だ。でも、胸の奥で、ざわめきが消えない。
黒い大男が、どこかで私たちを追っている。そんな予感が、炎のように心を焦がす。
皐月の視点
SUVが、町の中心部に近づく。夕陽が沈み、薄暗い町に街灯の残骸が影を落とす。
早希先生の家は、コンクリート造の大きなマンションだった。10階建ての建物は、ゾンビ襲撃の爪痕を残しながらも、頑丈にそびえ立つ。
窓ガラスのいくつかは割れ、入口の自動ドアは壊れているが、ゾンビの気配は感じられない。私は桜の手を握り、驚きを隠せなかった。
「先生…こんな大きなマンションに住んでるんですか?」
私の声に、先生は苦笑いした。
「まあ、教師の給料じゃ、奮発した買い物だったけどね。最上階の部屋よ。エレベーターは止まってるから、階段を登るわ」
私たちは、バックパックを背負い、階段を登った。コンクリートの階段は冷たく、足音が反響する。10階への道のりは、疲れた体に重くのしかかる。桜が私の手を握り、励ますように微笑んだ。
「皐月、頑張って。もうすぐ、休めるよ」
その言葉に、私は頷いた。桜の強さが、私を支えてくれる。
最上階、10階の廊下にたどり着く。
先生が鍵を開け、部屋に案内してくれた。
広々としたリビング、シンプルな家具、本棚に並ぶ歴史書。窓からは、夕暮れの町が見下ろせる。私は桜と顔を見合わせ、驚きを共有した。
「先生、めっちゃいい部屋…!」
私の声に、先生は笑った。
「そう? まあ、ゾンビが来る前は、快適だったわよ。とりあえず、荷物を置いて、休みなさい」
私たちは、リビングのソファに座り、バックパックを下ろした。桜が、私の肩に手を置いた。
「皐月、生きてる。私たち、逃げ切ったんだ」
その言葉に、私は涙が溢れそうになった。
黒い大男の襲撃、荒らされた自宅、拳志の戦い。あの恐怖を乗り越え、ここまで来た。私は桜の手を握り、囁いた。
「うん、桜。あなたと先生がいるから、私、頑張れた」
早希の視点
リビングで、桜と皐月がソファに座り、手を握り合っている。
二人の夏服姿は、まるで教室にいるようで、胸が締め付けられる。彼女たちの超能力――桜の発火能力と皐月の念動力――は、どんな危機にも立ち向かえる。
でも、彼女たちは中学生だ。黒い大男のような怪物に追われるなんて、許せない。私は、教師としての責任に押し潰されそうだった。
「二人とも、今日はよく耐えたわ。少し休んで、明日、両親の手がかりを整理しましょう」
私の声に、桜が頷いた。
「はい、先生。拳志さんのおかげで、逃げられた。明日、絶対に父さんと母さんを探すよ」
皐月も、力強く言った。
「うん。私たち、諦めない。脱出口も、見つけるよ」
私は微笑み、キッチンへ向かった。
冷蔵庫には、非常用の缶詰と水がある。簡単な食事を作り、彼女たちに休息を与えたい。だが、胸の奥で、ざわめきが消えない。
黒い大男は、人工兵器かもしれない。氷川拳志は、彼に勝てたのか? そして、彼の目的は何か? 私は、桜と皐月の寝顔を見ながら、決意を新たにした。
彼女たちを守る。両親との再会を叶える。それが、私の務めだ。
桜の視点
早希先生の部屋の窓から、夕暮れの町が見下ろせる。赤く染まった空、焼け焦げたビル、遠くで響くゾンビのうめき声。
私は皐月の手を握り、彼女の温もりにすがった。
黒い大男の赤い目が、脳裏にちらつく。でも、今、私たちは安全だ。先生の家は、コンクリートの要塞だ。
「桜…これから、どうなるんだろう…?」
皐月の声は、弱々しかった。私は彼女の肩を抱き、力強く言った。
「わからない。でも、父さんと母さんを探す。脱出口を見つける。私たち、絶対に諦めない」
彼女は微笑み、私の手を握り返した。
「うん、桜。一緒なら、どんな敵も怖くない」
遠くで、低い咆哮が響いた。黒い大男か、別の脅威か。
私は窓の外を見つめ、炎を呼び起こす準備をした。だが、今、私たちには希望がある。
桜と皐月の絆、早希先生の覚悟、拳志の戦い。そして、新たな拠点。
それだけで、十分だ。