第1話
2050年の日本。都市部では治安悪化が進み、警備員や貴重品運搬の仕事に従事する者には、厳格な適性検査と訓練を経て銃の所持が許可されていた。
だが、そんな社会の変化も、地方都市に住む中学二年生の双子、桜と皐月にとっては遠い世界の話だった。
彼女たちは人見知りで大人しい性格の少女として、周囲から「地味な姉妹」と見られていた。
だが、二人には誰にも明かせない秘密があった。
桜にはパイロキネシス――発火能力。皐月にはサイコキネシス――念動力。
生まれつき備わった超能力は、物心ついた頃にはすでに自由に制御でき、姉妹は家でこっそり遊びながらその精度を磨いてきた。
「桜、ここのシーン、面白いよ。ちょっと読んでみて」
皐月が小さな声で囁き、図書室の窓際の席で本を差し出した。
放課後の図書室は静寂に包まれ、司書も図書委員もいないこの時間は、姉妹にとって唯一の安息の場だった。桜は本を受け取り、ページをめくる。
彼女の指先が紙に触れる瞬間、かすかに熱がこもる感覚があった。能力を抑えるのは簡単だが、完全に消すことはできない。
まるで心臓の鼓動のように、桜の内側では常に炎がくすぶっていた。
「うん、面白そう。でも、ちょっと怖いね。ゾンビが出てくるなんて」
桜が苦笑いしながら本を返すと、皐月は小さく笑った。
「ゾンビなんて、ただのフィクションだよ。現実にはいないって」
その言葉に、桜は頷きながらも、胸の奥で小さな不安が芽生えた。
自分たちの能力だって、フィクションのようなものだ。なのに、現実に存在する。それを思うたび、桜は自分がこの世界に馴染めない異物であることを感じていた。
皐月もまた、似たような思いを抱いていた。彼女の念動力は、物を持ち上げたり、動かしたりするだけでなく、微細な振動を感じ取ることもできた。
今、彼女の意識は無意識に図書室の外へと広がり、校庭の喧騒や風の動きを捉えていた。
だが、その感覚は同時に、姉妹が「普通」ではないことを突きつける。
「私たち、変だよね」
皐月がぽつりと呟くと、桜が驚いたように顔を上げた。
「どうしたの、急に?」
「なんでもない。ただ、時々思うんだ。私たち、なんでこんな力持ってるんだろうって。もし、誰かにバレたら…」
「バレないよ。だって、私たち、ずっと隠してきたんだから」
桜の声は力強く、しかしどこか自分を励ますようだった。
二人は幼い頃から、能力を人目に晒すと迫害されることを本能的に察していた。
だからこそ、目立たず、静かに生きてきた。
地味な服を着て、友達を作らず、ただ二人でいることで、世界から身を守ってきたのだ。
図書室の窓から見下ろす校庭では、野球部が練習に励んでいた。
バットの音や部員たちの笑い声が、遠くに聞こえる。
桜は本を閉じ、窓の外を眺めた。彼女の視線は、校庭の隅にふらふらと歩く二つの人影に引き寄せられた。
「皐月、あれ、何?」
桜の声に、皐月も窓に近づいた。二人の人影は、明らかに普通ではなかった。
動きがぎこちなく、まるで糸で操られている人形のようだった。
野球部の生徒がそれに気づき、顧問の男性教師に声をかけると、教師は怪訝な表情で近づいていった。
「ちょっと、君たち! ここは部活の時間だよ!」
教師の声が響いた瞬間、事態は一変した。二人の人影が突然、教師に飛びかかり、喉元と腹に噛みついた。
肉が引き裂かれる音と、教師の絶叫が校庭に響き渡った。
「うそ…何!?」
桜が声を上げ、皐月は凍りついたように動けなかった。野球部の部員たちはパニックに陥り、逃げ惑う者、恐怖で立ちすくむ者がいた。
だが、それだけでは終わらなかった。
校庭の周囲から、さらに多くのふらつく人影が現れ、部員たちに襲いかかり始めた。血が飛び散り、叫び声が重なる。
「桜、あれ…ゾンビみたいじゃない?」
皐月の声は震えていた。彼女の念動力は、無意識に周囲の空気の振動を捉え、襲撃者の異常な動きをさらに鮮明に感じ取っていた。心臓の鼓動がない。呼吸がない。それなのに、動いている。
桜の胸には、恐怖と同時に別の感情が湧き上がっていた。
炎が、彼女の内側で燃え始めていた。危険を前にすると、彼女のパイロキネシスは制御が難しくなる。
指先が熱くなり、まるで火花が散るような感覚が走った。
「落ち着いて、皐月。私たち、逃げなきゃ」
桜は妹の手を握り、声を低く抑えた。だが、その瞬間、最初に噛まれた教師が、明らかに致命傷のはずの傷を負いながら、ゆっくりと立ち上がった。そして、助けようと近づいた部員に襲いかかったのだ。
「嘘…本当にゾンビなの?」
皐月の声は、恐怖と現実を受け入れたくない思いが交錯していた。
彼女の念動力は、教師の体から発する異常な振動を捉えていた。
生きている人間とは異なる、機械的で不自然な動き。それは、彼女がこれまで感じたことのないものだった。
突然、校舎中に火災報知器のけたたましい音が鳴り響いた。同時に、校内放送が始まった。女性の声――おそらく事務員だろう――が、慌てた口調で避難を呼びかけた。
「全校生徒、ただちに避難してください! 校庭に…危険な…!」
だが、言葉は途中で途切れ、代わりに低いうめき声と女性の悲鳴がスピーカーから響いた。放送はそこで途絶えた。
桜と皐月の心臓は一気に高鳴った。
図書室の静寂は、恐怖に塗りつぶされた。桜は窓から校庭を見下ろし、ゾンビがさらに増えていることに気づいた。
校舎の出入り口にも、ふらつく人影が集まり始めていた。
「桜、私たち、どうすれば…」
皐月の声は震え、彼女の念動力は無意識に近くの椅子をわずかに浮かせていた。
彼女の心は混乱していた。逃げたい。けれど、どこへ? 学校はすでに安全な場所ではなく、能力を使えば、ゾンビを退けることはできるかもしれない。
だが、もし誰かに見られたら? 自分たちの秘密が明るみに出たら?
桜もまた、葛藤していた。彼女の炎は、ゾンビを焼き尽くすことができるだろう。
だが、炎は制御が難しい。
一歩間違えれば、校舎ごと燃やしてしまうかもしれない。
それに、能力を使うことは、姉妹がこれまで必死に守ってきた「普通の自分」を壊すことになる。
「皐月、落ち着いて。まず、図書室から出よう。ゾンビが近くにいるかもしれない」
桜は決断を下し、妹の手を引いてドアに向かった。
だが、ドアを開ける直前、皐月の念動力が廊下の気配を捉えた。
「待って、桜! 誰か…いや、ゾンビがいる!」
皐月の警告に、桜はドアノブから手を離した。二人は息を殺し、ドアの向こうの気配に耳を澄ませた。確かに、ぎこちない足音と、低いうめき声が近づいてくる。
「どうしよう…閉じ込められた?」
皐月の目には涙が浮かんでいた。
彼女は怖かった。ゾンビも、能力を使うことも、そして何より、自分たちがこれ以上「普通」でいられなくなることが。
桜は妹の肩を抱き、囁いた。
「大丈夫。私たちが一緒にいれば、絶対に生き延びられる。皐月、信じて」
その言葉は、桜自身に向けられたものでもあった。彼女の内側の炎は、恐怖と怒りでますます燃え上がっていた。だが、桜はそれを抑え込んだ。
今は、冷静でいなければ。妹を守るために。
二人は図書室の奥に隠れ、机の陰で息を潜めた。
ゾンビの足音はドアの前で止まり、ドアノブがガチャガチャと動く音がした。
桜の指先が熱くなり、彼女は無意識に手のひらを握りしめた。
炎が漏れそうになるのを、必死で抑える。
「皐月、ドアを…念動力で押さえられる?」
桜の提案に、皐月は頷いた。彼女は目を閉じ、意識を集中させた。
ドアが内側に開くのを防ぐため、念動力でドア全体を押さえつける。
ゾンビの力は強く、ドアが軋む音が響いたが、皐月の力はそれを凌駕した。
「桜、これ…長くは持たないよ。ゾンビ、増えてる気がする」
皐月の声は切迫していた。
彼女の額には汗が浮かび、念動力の負担が彼女の体を蝕み始めていた。
桜は周囲を見回し、図書室の構造を思い出した。
窓は三階にあり、飛び降りるのは危険だ。
だが、図書室の奥には、隣の教室に繋がる小さなドアがあった。
「皐月、あのドアから隣の教室に逃げよう。ゾンビがそっちにいないか、確認して」
皐月は念動力を切り替え、隣の教室の空気を感知した。物音も、異常な振動もない。
「大丈夫、誰もいないみたい」
二人は素早く動き、奥のドアにたどり着いた。桜がドアを開け、隣の教室に滑り込む。
だが、そこには新たな問題が待っていた。
教室の窓から見える廊下には、複数のゾンビがうろついていた。
「桜、私たち…本当に逃げられるの?」
皐月の声は弱々しかった。彼女は、能力を使うたびに、自分が「普通の少女」から遠ざかっていく気がしていた。ゾンビを倒すために力を使えば、もっと遠ざかる。だが、使わなければ、死ぬかもしれない。
桜は妹の手を強く握った。
「逃げられるよ。皐月、私にはあなたがいる。あなたには私。二人なら、どんなことだって乗り越えられる」
その言葉に、皐月の心に小さな火が灯った。
彼女は頷き、念動力を再び高めた。
「よし、桜。次はどうする?」
桜は教室の出口を見据えた。廊下のゾンビを避けるのは難しい。だが、能力を使えば…。
「皐月、ゾンビを少しだけ動かせる? 廊下の端に寄せて、道を開けて」
皐月は目を閉じ、念動力をゾンビたちに集中した。彼女の力は、ゾンビの体をわずかに押した。動きはぎこちなく、ゾンビたちは混乱したように壁に寄っていく。
「今だ、桜、走って!」
二人は教室を飛び出し、廊下を駆け抜けた。ゾンビのうめき声が背後で響くが、皐月の念動力のおかげで、追いつかれることはなかった。
二人は階段を駆け下り、一階の職員室を目指した。そこには、銃を持った警備員がいるかもしれない。
だが、校舎内はすでにゾンビで溢れていた。
廊下の角を曲がるたびに、血の匂いと死の気配が濃くなる。
「桜、ちょっと…疲れた」
皐月が息を切らし、壁に手をついた。念動力を連続で使うのは、彼女の体に大きな負担をかけていた。
「大丈夫、皐月。もう少しだけ頑張って」
桜は妹を支えながら、周囲を警戒した。
だが、その瞬間、廊下の奥からゾンビが現れた。
かつての同級生だった少年の顔は、血と傷で歪んでいた。
「桜、だめ! あの子…!」
皐月の叫び声に、桜は反射的に手を上げた。彼女の指先から炎が迸り、ゾンビを包み込んだ。
少年の体は一瞬で燃え上がり、黒焦げになって崩れ落ちた。
「…やっちゃった」
桜の声は震えていた。彼女は人を――たとえゾンビであっても――初めて傷つけた。
炎は強力だったが、制御が甘かった。近くの壁紙が焦げ、煙が立ち上る。
「桜、大丈夫だよ。あれは…もう人間じゃなかった」
皐月が桜の手を握ったが、彼女自身も動揺していた。能力を使うたびに、姉妹は自分たちの「異常性」を突きつけられる。
「ごめん、皐月。こんなことになるなんて…」
桜の目には涙が浮かんでいた。彼女は炎を恐れていた。
自分の力が、妹を危険に晒すかもしれないことを。
「謝らないで、桜。私たち、生きなきゃいけないんだから」
皐月の言葉に、桜は頷いた。二人は再び走り出した。職員室はもうすぐそこだった。
職員室にたどり着いた二人だったが、そこはすでにゾンビに占拠されていた。
警備員の姿はなく、床には血と銃弾の痕が広がっていた。
「桜、どうしよう…もう、逃げ場がない」
皐月の声は絶望に満ちていた。
だが、桜は違った。彼女の内側の炎は、恐怖を焼き尽くし、決意に変わっていた。
「皐月、私たち、戦うよ。ゾンビを倒して、ここから逃げる」
「戦う? でも、もし誰かに見られたら…」
「見られてもいい。生きるために、力を使うんだ」
桜の言葉は、皐月の心を揺さぶった。
彼女はこれまで、能力を隠すことに全てを捧げてきた。
だが、今、隠す意味はなくなった。生きるために、姉妹は自分たちの力を解き放つ時が来たのだ。
「わかった、桜。一緒に戦おう」
皐月は念動力を高め、職員室のゾンビを一気に壁に叩きつけた。桜は炎を放ち、ゾンビを焼き尽くした。
二人の能力は、互いを補い合い、完璧に調和していた。
職員室を脱出した二人は、校舎の出口を目指した。
ゾンビの群れが迫る中、桜の炎と皐月の念動力は、まるで嵐のように道を切り開いた。
「桜、私、怖くなくなったよ。あなたと一緒なら、なんだってできる」
皐月の笑顔に、桜も微笑んだ。
「うん、皐月。私たち、絶対に生き延びる」
二人は校舎を抜け出し、ゾンビの群れを背に走り続けた。