出発前の壮行会~バーボンとともに
世界初の昼夜兼行仕様の寝台電車・581系は1967(昭和42)年10月のダイヤ改正で登場し、翌1968(昭和43)年のいわゆる「ヨンサントウ」白紙ダイヤ改正を機に、それまでの山陽・九州方面に加えて東北・常磐筋にもその活躍の場を広め、昼間は座席車の特急、夜は寝台特急として昼夜問わぬ大活躍を開始した。
交流50ヘルツ区間も走れる583系電車が開発され、これらを合せて581・583系と呼称されるようになった。
昼間の座席は向い合せのボックスシートで、特急としては格落ちすると見る向きもあったが、寝台に利用するだけあり比較的広い座席で、空いている時などにはゆったり過ごせた。
また、夜の寝台電車としては、現在のB寝台に相当する二等寝台ではあったが、寝台幅は現在のA寝台と変わらず、下段は106センチ、上中段はどちらも70センチが確保されており、当時標準だった52センチの客車二等寝台よりもはるかに居住性がよくなり、当時の一等寝台同様、浴衣のサービスも設けられた。
当時の特急列車であるから、当然、食堂車も連結されていた。こちらは、それまでの他形式同様のつくりだが、寝台利用を意識して製造された形式であるため、食堂車も屋根は他の車両と同じ高さ。広々として圧迫感を感じないつくり。
初期は、営業時間が短い寝台特急であっても、営業はされていた。
こうして華々しくデビューした昼夜兼行の寝台電車だが、新幹線の延伸、在来線のスピードアップ、そして人手不足と合理化の影響もあり、まずは寝台電車の食堂車の営業が順次中止された。
また、寝台車名物の夕方19時からの寝台設定と朝7時に始まる寝台解体(座席利用に転換するため)も一部の列車を除いて廃止され、寝台のセットや解体は基地内で行われることが基本となっていた。
その体制は、1974年に2段式B寝台がデビュー後も継続された。
もはや寝台を上げ下げしなくても、そのまま普通に座席として扱えるようになったからである。
これは、岡山市内に居住する大学教授が福岡市で行われた学会に出席するため、その往路と復路で同じ電車を利用した物語である。
時は、1974(昭和49)年9月中旬の岡山市内。
新幹線がこの岡山の地まで来て、早2年半が経過している。
しかも来年の春には、ここからさらに博多まで延伸することも決定していて、工事は最終段階に入っている頃のお話である。
ここは、岡山駅構内のある喫茶店。朝からモーニング目当ての地元客や、時間のある乗換客などが利用している。時間はまだ6時30分を回った頃合い。
9月中旬であるから、岡山の街はもう夜が明け、明るくなっている。
「今日から福岡か。帰りは3日後の朝の「月光1号」か。行きは朝一番の「つばめ1号」な。それ、行きも帰りもあの寝台電車ってことになるようじゃが、堀田君、それはまた、藤木酒店の龍二のアドバイスに従ったものか?」
「ええ、そうです。行きも帰りもゆったりと移動できればということで、藤木君が列車を選んでくれました」
当年とって50代の年齢にさしかかっているO大学理学部物理学科教授で理学部長も務める堀田繁太郎氏は、これから3泊3日、福岡市内で開かれる学会に出席するべく、岡山駅に早朝からやってきた。この数年来、年を取ってきたせいか、朝が早い。
目の前にいる山藤豊作氏はというと、こちらはすでに60歳を超えていて、年金等も出る年齢になっている。こちらも朝は早い。
若い頃は陸軍士官学校などで鍛えられて朝は苦手では決してないのだが、なんだかんだで、朝寝ていられる生活にあこがれていた時期もあった。
しかし、この年にもなれば、例にもれず彼もまた、朝は早い。
ラッパなどなくても、目が覚めてしまうのである。
堀田氏は、言う。
「この年になると朝が早くなりまして。朝から仕事すると、殊の外はかどりますよ。京都大学のゼミでお世話になった工学部の岡原教授に至っては、嫌なことは早朝にやるに限ると仰せですが、いかんせんあの方、酒も好きでうまいものを食べるのも生き甲斐という方ですからねぇ。若い頃は、朝寝坊はいつものことだったそうですが、そんな方でも年には勝てないようでして、おっさんの若いころはなんやってンって言いたくもなりますが、朝は8時を超えて横になっていられん、なんて仰せですよ」
かつては宵っ張りで夜遅くまで起きて時には夜の街に繰出していた人も、年を取るにつれ、それも減っていく。その代わり、朝は早くなる。つまり、早くから起きだしてしまうのが相場だ。若い頃からの知合いもまた、皆、一様に年を取っている。
話している堀田氏当人も、それを聞いている山藤氏もまた、決して例外ではない。
「あの大先生ね。渡辺さんといい岡原さんといい、鉄道の好きな人はしかしまあ、粋なことに目を向けられるものであるな。それにしてもあの鉄道ピクトリアルだっけ、あの雑誌に掲載された東海道の急行のビュフェの寿司の食べ比べなんてこと、記事になる前に早速やってしまわれるような方らには、ついていけんよ(苦笑)」
「私だって、無理です(苦笑)。そうはおっしゃるが、山藤さん近辺の元陸軍関係者の皆様も、御立派な趣味をお持ちの方が多いじゃないですか」
「まあ、そりゃあ、年ですよ、年。若いころは、そんな遊び人のような真似できる状況じゃなかったからな。なんせ、天下の陸軍士官学校ですぞ。まあ、厳しかった。もっとも、あれに耐えられたからこそ、今があるといえば、その通りじゃが」
山藤氏と堀田氏は、モーニングのパンを食べながらホット珈琲をすすっている。
岡山発の1番列車の出発時刻までには、もう少し間がある。
早朝からだと、関西圏からの乗継客はそう多くなかろう。
「堀田先生、お願いがあります」
「何ですか、急に改まられて?」
「先日テンヤマデパートの物産展で明太子を買いまして、それがまた、旨かった。酒のつまみにはなかなか乙でしてね、藤木さんところで買ってきた雄町の純米吟醸のつまみにして飲んだが、いやあ、絶品でありました。そこで学徒兵殿におかれては、この度福岡に出征されるとの由であるから、戦利品として明太子をいただきたい。まあ、土産とも世間では申すようであるが(苦笑)。もちろん、ただで買って参れとは申しません」
そう言って山藤氏は、バーボンのボトルを差し出した。
「大尉殿、これは、敵の酒を飲んで博多の街に乗り込めという次第でありますか?」
「そういうことであるので、是非とも、よろしくお願いしたい」
かくなる上は、突き返すような理由はどこにもない。
堀田氏は、喜んで拝領した。
「ほな、ありがたくいただきます。列車やホテルで飲んでおれば、3日後にはきれいに飲み切れるでしょう」
「いや、無理せんときなさい。どうせ現地で、石村さんはじめ酒の好きな学会関係者らと飲むのでしょうが。残ったら、またうちで飲む足しにすればよろしいがな」
「大丈夫です。無理はしませんって」
「ほな、堀田君、そろそろ出向かれたがよかろう。今日のモーニングは、もちろん私が払っておくから、是非とも、戦利品を期待いたしております。帰って来られたら、この週末にもぜひ、一杯やりましょう。残ったらこのバーボンで明太子じゃ」
「了解です。それでは、行って参ります」