第二章 バニーガールとの出会い
振り返るとバニーガールの少女が目の前に立っていた。
声をかけられてしまった僕は、聞こえないふりをしてやりすごそうとするが――――。
「ちょっと無視しないでよ。私の声が聞えているんでしょ?」
どこかすがるような視線をこちらに向けてきていた。近くで見てやっとしっかりと思い出すことができた。
「水瀬先輩ですよね」
――――水瀬澪、国民的な知名度と人気を誇る芸能人であり、僕の通う学校の一つ年上の先輩だ。
噂は毎日のように聞くし彼女が歩いているだけで周囲の視線が注がれるほどの有名人。
あまりテレビを見ない僕でも知っていると言えば彼女の認知度がどれだけ高いかが分かるだろう。
「ねぇ、君……」
「はい」
生足バニーガール姿の澪が一歩また一歩と距離を縮めてくる。このまま前進されると体が密着してしまう。
「君には私が見えるんだ?」
唐突に水瀬先輩から質問される。しかし、質問に答えるよりも先にやることがある。
それはなにかなんて考えなくても分かる―――ここは公共の場だ。
バニーガール姿の人間がウロウロしていれば変な誤解を招く。最悪の場合、露出狂だと言われ通報されかねない。しかもここはバス停の前という極めて人通りが多い場所なのだ。
早急になんとかしなければない、と思い立った矢先に最初の危機が到来する。
水瀬先輩の後ろから二十代後半くらいのサラリーマン風の男性が通り抜けようとしていた。とっさに、「見られます。隠れてください」と澪に声をかけていた。
もうダメだと諦めたその時……どういうわけかその男性は水瀬先輩のことなど知らんぷりと言わんばかりに通り過ぎていった。
通り過ぎる瞬間にこちらを振り向き、怪訝そうな顔をされる。まるでこの子は何を言ってもいるんだ?と首をかしげてこちらを見ている。
それを見た水瀬先輩はため息をつきながら、「どういうわけか知らないけれど三日前から私の姿が見えてないみたいなの」と状況を説明してくれた。
「なるほど。だから、こんなどエロイ格好を見ても無反応というわけですか?」
その言葉を聞いた水瀬先輩が、「驚いた。本当に君には私が見えているのね」と再度確認してくる。
「ばっちり見えています」と元気よく答えておく。
若干顔を引き攣らせている澪が、「そう」と短く答える。
数秒の沈黙後、どちらともなく口を開く。
「そういえば、自己紹介まだでしたね。僕は常盤ヶ原高校二年の峰ヶ原颯太です」
知ってるわよとさも当然のように答える澪。
確かに、高校の制服で出掛けているため見る人が見れば一発で常盤ヶ原高校の生徒だとわかるはずだ。僕がそう思っていると次は水瀬先輩が口を開いた。
「私は、水瀬澪。君と同じ常盤ヶ原高校の三年生よ」
「知っています。有名人ですから」
僕の言葉に「そう……」と返事をする澪。
簡単な自己紹介は済んだが話がこれだけで終わる訳がない。
僕はなぜ澪が生足バニーガールの格好で街をウロウロしているかを訊こうと「先輩は……」と言いかけた瞬間に「違う」と一喝された。
「水瀬先輩は…」
「違う」
「澪先輩は……」
「それも違う」
「さっき名前教えたでしょ。それとキミの先輩になったつもりはないから」と少し不機嫌な声で澪が答える。
じゃあ、なんて呼べばいいのかと頭を悩ませているともしかしたら、呼び捨てか?という閃きが脳裏をよぎった。試しに言ってみることにする。
「じゃあ、澪は……」
「『さん』をつけなさい」と靴の踵で足を踏まれる。
「痛っ!!」
どうやら呼び捨てではなかったらしい。
足の痛みに少し涙ぐみながらも言い直す。
「澪さんは……」
「最初からそう言いなさい」とそっぽを向かれてしまう。
怒らせてしまったのかと思い機嫌を直そうと思ったところで「颯太くん」と名前を呼ばれる。
「なんですか?あと名前で呼んでくれるんですね?」
「だって、峰ヶ原ってイメージじゃないし、そもそも苗字は長くて言いづらいじゃない。だから颯太くんって、呼ぶことにするわ。いいわよね?」
「別に良いですよ」
「僕も澪さんと呼びますから」
「そう」
相変わらず澪さんの反応は薄い。
「なにかまずいことでも言いましたか?」
「いいえ、別に気にしないで……それじゃ私行くから」
「はぁ―――?ちょっと待ってください」
「なに?」
「なにじゃないです」
「どうして、勝手に行こうとしているんですか?」
「だって颯太くんと一緒にいてもこの現象は解決しないでしょ」
「確かに……それはそうですけど」
とっさの澪の指摘に僕は言い淀んでしまう。だけどここで引き下がってはダメだと直感が言っている。
「でも、一人でも解決できないですよね?」
「それもそうね」と両手を組み考える仕草をする澪さんに提案をする。
「澪さんさえ良ければ僕と一緒に原因を調べませんか?」
返事がない。澪さんはきょとんとした表情のまま動かない。
そんなにまずいことを言っただろうか。
「いいの?颯太くんは私の頭のおかしい話を信じてくれるの?」
しばらく沈黙した後、どこか困ったような表情で澪さんが聞いてきた。
「私の言ったこと信じてくれるの?」と不安そうな上目遣いでそう確認してくる。
「もちろんです。何より澪さんが嘘をついているようには見えませんから―――僕にも協力させて下さい」と頷く。
僕の言葉に、澪さんは少し顔を赤くさせながら小さな声で「ありがとう」と呟いた。
やることは決まった。まずは澪さんが見えなくなっている原因から調べる必要がありそうだ。本人から何か心当たりがないかを聞いてみる。
「澪さんは、この現象について心当たりあることはありません?」
「そうね。特にはないかしら―――」とあっさり言い切られてしまう。
「そう、ですか…」
ないと言うなら仕方がない。それよりもずっと澪さんに訊きたかったことがあることを思い出した。
「そういえばなんで澪さんは、バニーガールの格好なんて、しかも生足で―――していたんですか?」
「相変わらず生足を強調するわね。それはさておき、どうして私がこんな格好をしているかの理由は本当に私の姿が周りから認識されなくなったのかを確認の実験みたいなものね」
本人曰くそういうことらしい。事情はわかったので、僕と同じように澪のことが見える人がいないかを聞き込みしてみることにした。
「すみません。水瀬澪を知っていますか?」と近くを通りかかった初老の男性に聞いている。
すると男性はしばし考え込む。
「水瀬澪?」
「あぁ―――最近テレビに出ているあの可愛いお嬢さんのことかな?」
まるで、自分の孫のことを話すみたいに愛おしそうに話している。
その姿から改めて、『芸能人・水瀬澪』の凄さがひしひしと伝わってくる。
最近はテレビにも出演しているらしく、老若男女を問わず絶大な人気を誇っている。
きっと彼女の人柄の良さがそうさせているのだろう。
僕も一回テレビで見たことがあるが澪が地方のテレビ局の男性チャスターと食レポをするといもので、県内でも有名なお寺周辺にあるおいしいメロンパン屋さんを紹介するという企画だった。結末はどうなったかというと観ている途中で結衣からおつかいを頼まれため、肝心の食レポシーンは観られていないのだ。後日、数少ない友人の一人によるとが食レポした影響はすさまじくお店は現在も大盛況だったらしい。
特に澪が食べていた、チョコレートホイップクリームがたっぷりと詰め込まれたメロンパンが一番人気とのこと。連日、列を作るほどの大人気らしい。
それは結構のことだが売れすぎて地元の人が買えないと嘆いていたとも話してくれた。
ご老人の話からそんなこともあったなと思い出していた。
それはさておき、肝心の澪さんの姿が見えるか聞いたところ残念ながら姿は見えないらしく「どこにいるんだね?」と周りをキョロキョロとしてきたが探したていたがダメだった。
澪さんのことは知っている・覚えているにも関わらず姿は認識されていない。まるで透明人間の状態ということだろうか?
隣にいる澪さんの反応を見るとしょんぼりとしている。男性にお礼を言い、別の人に聞き込みを開始する。今度は、二十代くらいの女子学生に話を訊いてみる。
「すみません。水瀬澪を知ってますか?」
先ほどの初老の男性の時と同じ質問をする。すると、「水瀬澪!?もちろん!知ってる知ってる」とテンション高めで答えてくれた。
「実はわたし、彼女の大ファンなんだよね」と教えてくれた。
なら、そのファン愛で澪さんのこともしっかりと認識してくれと半ば祈りながら話を進めていく。だがいま横に水瀬澪がいると話しても―――
「えぇーどこ、どこにいるの?」と周りをキョロキョロと見渡すだけで、姿は見えてないようだ。
「ちょっとどこにもいないじゃん。もしかしてこれって新手のナンパ?」と訝しむような視線を僕に向けてくる。
「だから、ここにいるんだって」
いくらそう説明しても見えていないのでは話にならない。
「ごめんね。お兄さん、よくよく見るとイケメンなんだけれど、私彼氏持ちだから」
そう言って逃げるように立ち去ってしまう。
ちらりと澪の顔を確認するともはや泣きそうな顔になっている。頼むから早く彼女のことが見える人が現れてくれと心の底から願った。
しかし現実は冷酷で非常だ。いくら、訊き回っても澪のことが『見える』と言う人はひとりも現れなかった。もう一度、澪さんの表情を見ると両目の端から光るものが見えた。
だが、澪が自分の手で払うように涙を拭きとって気丈に振舞おうとしていたが。
「なんで、みんな私のことが見えてないの?」という声は涙で震えていた。
でもその声は僕以外には届かない。他の人には届かない。
彼女がこんなにも苦しんでいるのにだれひとりとして気づいてくれない。
僕は気づいているが……さすがに、僕だけというのは心も元ないので一日も早く澪が周囲から認識してもらえるようにしないといけない。このまま彼女のことが見えるという人が現れなければ、本当に澪は消えてなくなってしまうかもしれない。
それと最悪の場合、現状に耐えかねて自ら命を絶ってしまうなんてことにもなりかねない。そうなる前に何としてもこの不可思議な現象を解決しなければ……
行く当てもないのでとりあえず駅前のバス停まで歩くことにする。目的に到着して、しばらくベンチに腰かけていると家の方角に行くバスが来たため乗り込む。一緒に乗ってもらうため澪の手を掴むが、「どうせ私は誰からも見てもらえずに死んでいくんだから。もう放っておいてよ!」と自暴自棄になっており、こちらの話をまともに聞いてはくれなかったが、一人で興奮してブツブツと独り言を言っている澪を強引にバスに押し込んだ。―――無理やり乗せても周りには見えないため通報される心配もない。
バスが発進してからは「私のことは放っておいてって言ったのに。なんで私まで―――」と言っていたが人の乗り降りが激しくなっていくにつれ、不安がどんどん大きくなっていったのだろう。しばらくすると澪は黙って座っていた。
車窓から景色を見るふりをして澪をチラ見すると肩が震えていた。
今にも泣きそうな顔をしている。きっと澪の中では、本当にそのまま認識されないままだったらどうしようという不安が大きくなっているに違いない。
そんな彼女の力になりたくて、何かできることはないか?と澪を見遣ると、はやり不安なようで、かすかに肩を震わせていた。それを見た僕はゆっくり包み込むようにして澪の右手を握った。澪はハッと驚かせさせながら「私……繋いでいいなんて言ってない」と強気なことを言う。
「でも―――僕は繋ぎたい」
「年下のくせにホント生意気なんだから」と言いながらも「今だけ特別よ」と許可してくれる。特に目的地があるわけでもなくバスに揺れること随分と時間が経つ。
周りはだいぶ暗くなり、ゴールデンウィークだからだろうか、平日の帰宅ラッシュよりも車の通りが多い気がする。そんなことを思っていると、「澪がこれからどうするの?」と訊かれる。
「どうするも何なにもこのまま澪さんのことが見える人が僕だけという状況が続くのは困りますよね?」
「確かに困るわ」
「なのでとりあえず今日のところは遅いので帰ります」
帰ると言った瞬間に澪さんの顔が強張る。
「帰るってどこに?」
怪訝な顔をしながら尋ねてきたのでさも当然のように「それは決まってますよ。もちろん僕の家です」と答えると、澪の顔は今日一番に耳から真っ赤になっており、「今日会ったばかりの女の子を家につれていくなんてハレンチだわ」と早口で文句を言っていた。
「ハレンチですかねー」ととぼけておく。
確かに僕が逆の立場だったらすごく抵抗があるので気持ちは理解できる。いくら姿が見えないからといっても、年頃の女の子を夜道に一人彷徨わせるわけにはいかない。しかも澪は一人で買い物ができないのだ。それもさっきわかったことだが。ともかくそんな状態の彼女をひとりでいるほうが危険だ。
それにショッピングモールでも気になる現象があった。お腹をすかせた澪のため近くのスーパーでパンと飲み物を渡した時のことだ―――澪は、申し訳なさそうに「ありがとう」と言いパンと飲み物を受け取る。
よほどお腹が空いていたのか、小さな口でぱくぱくと食べている。様子見ているとなんだか小動物に餌付けしている気分だ。
ふと澪の食べている姿を見てあることに気づく。
どういうわけか食べているはずなのにパンが減っていかない。
「澪さん、パン、減っていませんよ」と指摘する。
僕の言っている事が理解できていないのか、澪は怪訝そうな表情でこちらを見てくる。
食べているものが減っていない、というこの現象に気づいているのはどうやら僕だけであり、当の本人は食べているつもりらしく一所懸命にもぐもぐと食べ続けている。
その姿を観察していると、「なに?」と不思議そうな表情を向けられた。
ここは、適当に誤魔化しておく。
「いえ、食べている澪さんがとても可愛いので、つい‥‥」
「だから見てたの?」
「はい」
「ホント生意気なんだから」と澪が小声で呟く。
その仕草があまりにも可愛くて胸の鼓動がどくんと高鳴る。
つい、もう一度見てみたいという衝動に駆られてしまい、口からは懇願の言葉が漏れていた。
「澪さん今のもう一回やって下さい」
「今のってなに?」と目をぱちくりしながら聞いてくる。
「照れながら髪をかき上げる仕草です」と説明すると。
「わかった」と言ってやろうとしてくれた。
あまりにもあっさりと承諾されたので固まっていると。
「どうしたの?」と顔を覗き込まれる。
澪さんの整った綺麗な顔が唇に触れそうな距離まで近づいてくる。
「うわっっ!!」
突然の出来事に思わず顔を引っ込める。
その様子を見た澪さんは勝ち誇った顔で、「やっと颯太の慌てている顔が見れた」と満足げに笑っていた。
「澪さんは、出会ったばかりの男の子を家に誘うのはハレンチで、こういうことはハレンチにならないんですか?」
と言うと、「別に年下の男の子顔を間近で見るくらいどうってこもないもの」と言っていた。
澪さんの目は、「もう一度やる?」と語っていたが、これ以上やられるとこちらが持たないので、「すみませんでした、調子乗りました」と謝り引き下がる。
その様子を見て、満足そうに笑みを浮かべ、「分かればいいのよ」といいベンチを立った。
「何処へ行くんですか?」と聞くと、
「颯太の家へ行くのよ」
「だってさっきはハレンチだとか言っていたのに……」
「別に颯太なら大丈夫かなと思ったから」
「颯太くんって呼んでくれるんじゃないんですか?」
「颯太なんか、颯太で十分よ」と満面の笑みで答える澪。
泣いている顔ばかり見ていたので、彼女の笑顔を見られてホッとした。いましがたあった出来事をバスの中で思い出していると……。
「こらぁ―――」と横から頬を抓られた。
「なにエッチなこと考えているの?」
「澪さんが考えていることの百倍はエッチなこと考えていました」
僕のそんな返しに「はいはい」と聞き流されてしまった。
念の為にこのまま家に帰って良いかだけ確認しておく。
目的もなく乗ったバスだったが、長野駅で乗り換えればバスでも家まで帰ることができるため駅のロータリーまでは乗っていることにし、後で家の方面に乗り換えて帰宅することにする。
バスを乗り換えてから二十分ほど経ちようやく家の近くのバス停に着く。
「ここです」といいバスの降車ボタンを押す。既定の料金を支払い降車する。
本当なら、家の近くにある小学校あたりで降りたかったのだが、近くにバス停がないため仕方なく手前のバス停で降りて、数分歩いて家路に着くことにする。
途中で、公園―――通称三角公園と呼ばれている場所を左に曲がり住宅街へ入る。
二分ほど歩き目的地に到着した。
「ここが僕の家です」
澪さんはあんぐりと口を開けていた。他の家と比べて少し外見が豪華なだけですからと説明すると、「少しってレベルじゃないわよ。これ……なによ。この豪邸」と心底驚いている様子だった。
「もう遅いので今日はここに泊まってください。あっ……心配しないでください、別に襲ったりしませんから」と言って家の中へ招き入れる。続いて澪も「お邪魔します」と軽く挨拶して入ってくる。
「挨拶とかしなくていいですよ」
「どうして?」と質問されたので、僕は軽く事情を説明する。
「両親とは仕事の都合で今は別々に暮らしているので、一緒にいるのは妹の結衣だけです」と答えたと同時に、玄関からの物音に反応して妹の結衣が飛び出してくる。
「お帰りなさい!お兄ちゃん!!」と僕にベタベタくっついてくるのを見て澪が颯太は妹さんとすごく仲が良いのね」と少しからかうような口調で言ってくる。
僕はそれを聞き流しつつ、澪に先へ進むように促す。とりあえず僕の部屋へと入ってもらう。
「好きなところに座って下さい」と言い、適当な場所に座ってもらう。澪が座ったところで今後の方針について話し合う。
「今後の方向についてはまずは澪さんがどうして周りから見えていないかを調べることからです」
もう一度、詳しく話を聞く。澪さんは、本当に何も心当たりがないのか、覚えていないのかを聞き出す。もしかしたらそれが今後の打開策のヒントになるかもしれない。
「澪さんもう一度、訊きますが良いですか?」と確認してから今日起こった出来事を順番に確認していく。ここで、僕はある実験をしようと決めた。
なに食わぬ顔で澪に「っと、そういえば……お茶も出さずにすみません。澪さんはなに飲みますか?」と訊くとすると澪さんは、「そうね」少し考えてから「ホットココアでお願い」と言う。
「わかりました、ホットココアですね」と確認して一階のリビングへ降りる。
数分後、お盆に載せたホットココアを一つは澪さんに、もう一つは自分のところへ置く。
「さあ、暖かいうちにどうぞ」と飲んでもらうように誘導する。
「じゃあ遠慮なく」と言い澪さんがひと口ホットココアを飲む。
やはりそうだ。澪さんの飲んだココアは少しも減っていなかった。
なぜだろうか? とますます疑問が深まる。
とりあえずこの問題は明日に持ち越して、夕飯でも作るかと思っていたら澪さんが唐突に頬を抓ってきた。
「ちょっとなに考えているのよ」とジト目で僕のことを睨みながら抓ってくる。
「なにがですか?」ととぼけると抓る手に力を込めてきた。
「いったー」と抗議の声を上げると「嘘つくな。フフ……本当は嬉しいんでしょう?」と更に力を込めてくる。
流石にこれ以上は本当に痛い。
「澪さん、ストップ、本当に痛いから」とちょっと真剣に止めてくれとお願いする。
頬をさすりながら澪を見ると「どう? 白状する気になった?」とサディスティックな笑みを浮かべている。そんな彼女に僕は「はい。今日の夕飯のメニューを何するかを考えていました」と白々しい嘘をつく。
それを聞いた澪さんは、どこか疑うような視線を向けつつも、「今日のところはそういうことにしといてあげる」と言い僕から離れた。
「それで?」
「夕ご飯のメニューは決まったの?」と澪さんが聞いてくる。
「まだ迷っています」
「候補はいくつかあるのよね?」
「はい」
「なら順番に教えなさい。一緒に考えてあげるから、場合によって作るのを手伝ってあげても良いわよ」
「ありがとうございます。澪さん」
僕の言葉に澪さんは「別に颯太のためじゃないから。……このままなにも作らないと妹さんが餓死しちゃうでしょ」と顔を赤くして言う。
照れ隠しのつもりなのか、少し口調が早口になっている。
先ほどから、何度も一階のリビングから結衣が「お兄ちゃんお腹減りましたー!お兄ちゃんー早くしてくださいー!このままだと餓死しちゃいます」などという声が聞えてきている。流石にこのままの状況はまずいので、早めに夕飯の支度をする。
「澪さんどんな料理を作れば良いと思いますか?」
「だから候補を教えなさいって言っているでしょ。私はエスパーじゃないのよ」
「確かにそうですね」
「言われないとわからないわ」
「すみません」
「謝るな」
「はい……えっと、今のところは冷蔵庫の中にある物で何か作ろうと思っています」
「それで、冷蔵庫にはどんな食材が入っているの?」
「えっと確か、卵、豚ひき肉、玉ねぎ、生姜、醤油、たまり醤油ですね」
ひと通りの材料を訊いた澪さんは、「う〜ん」とおなじみのポーズで考えている。
数秒後、「念の為に確認するわよ」と言い、台所のある一階へ澪が降りていく。
僕も慌てて後を追いかける。階段を降りて、リビングと併設されているオープンキッチンへと直進する。
澪が冷蔵庫にあるものを確認し、「黒チャーハンととろとろ卵スープでも作ったら?」とアドバイスをくれた。一緒に作りたいアピールも込めて「誰か手伝ってくれる心優しい人はいないかな~?」と言ってみるが「料理くらい自分でしなさい」と一蹴された。
「一緒に作ってくれるじゃないんですか?」と反論するが、どうやらこの問は、想定済みだったようで余裕の笑みで「確かに、メニューの候補を教えなさいとは言ったけれど一緒に『作ってあげる』とは言ってないわよ」と言われてしまった。
「澪さん性格悪い」
「だって事実だもの」とあれこれやりとりしていたが、結局は文句を言いながらも一緒に作ってくれることになった。
「澪さん、卵、取ってください」
「ちょっと待ちなさい。今、やっているから」
「澪さんまだですか?」と少し急かす。
そのタイミングで、結衣がチッキンへ向かってきて「お兄ちゃんどうしたの?」と声をかけてきた。それと同時に澪さんが「はいできた」と言い、溶き卵を入れたお椀を僕の前に置いた。
瞬間、結衣が「うわっ!!?どこからお椀が出てきたんですか!?」と体をびくりと震わせて声を上げる。
「なにどうしたの?」
澪がなに食わぬ顔で訊いてくる。
「澪さんがいきなりお椀を置いたから、妹がびっくりしたんですよ」と説明する。
その後も、色々と言われながらも夕飯を作り結衣と僕、見えていないが澪の三人で食卓を囲む。食事を終えて、洗い物をしていると結衣が話しかけてきた。
「今日のお兄ちゃんの料理すごく美味しかったです」とニコニコしながら話す結衣。
隣で訊いていた澪も嬉しそうに口元に笑みを浮かべながら、和やかな雰囲気のまま過ごした。