魔王城へようこそ、不運な花嫁殿――ゾクゾクするイケボでそう言い放った魔王が実は、十年前に生き別れた可愛い幼馴染でした
「リリアナ・グレイ。跪け」
王太子クリストファーが命じ、リリアナは両側から彼の側近に押さえつけられた。
その手に魔力封じの手枷がはめられ、膝をついた先は既に転移用の魔法陣の上である。
「殿下、これは一体」
「お前との婚約を破棄する」
いや、それはいいんだけど。
急だったので驚きはしたが、そこは素直に「ハイ」と頷いた。
クリストファーとの婚約は王命によるものであり、リリアナが望んだことではない。彼は金髪サラサラのイケメン王太子だが、美麗な見た目に反し、中身は威張りくさった暴君だった。
クリストファーの隣には、リリアナの親友、デルフィーヌが寄り添っている。彼女は口元に笑みを浮かべ、リリアナを見下ろしていた。
そういうことか……。
リリアナは彼の不興を買わないよう、今まで細心の注意を払って生きてきたが、それだけでは不十分だったようだ。彼の歓心を買うという視点が欠けていたのだろう。
「殿下、デルフィーヌがよいなら私は身を引きます。どうか手枷を外してください」
仮にも一国の王太子の婚約が、本人の気分次第でそんな簡単に破棄出来るものかどうか知らないが、クリストファーがそうしたいならリリアナに異存はない。
しかしこの手枷。そして謎の魔法陣。
王も廷臣も不在の中、恐らくはクリストファーの独断で、リリアナは僅かばかりの魔力すら封じられ、どことも知れぬ場所へ飛ばされようとしている。それに関してはちょっと待てと言いたいし、全力で抗う所存だった。
「そういうことではない。リリアナ、お前には私の慈悲が分からぬのか」
分からない……何も……。
「お前の望みを叶えてやろうというのに」
リリアナはハテ……? と首を捻る。クリストファーは彼女にビシッと人差し指を突きつけた。
「十年前の我が英断を、お前は事あるごとに誤りだと吹聴し、非難を繰り返したそうだな」
「それは……」
リリアナの顔色が変わった。
「やはり、な。デルフィーヌの言う通りだったか」
クリストファーがデルフィーヌの腰をぐっと引き寄せ、何かに酔いしれながら「残念だ」と吐き捨てた。
クリストファーの言う「十年前の我が英断」とは、デュ・モーリエ家のシビルを魔の森へ追放したことである。
シビルは当時まだ九歳。猫毛の黒髪が愛らしい、しっとりとした雰囲気の美少年だった。
年の離れた兄がいる次男坊で、誰からも可愛がられていたこともあってか、いつまで経っても幼さが抜けないところがあった。
――リリ、リリ。こっち!
――駄目よ、そんなに走っちゃ……。
彼と同い年だがしっかり者のリリアナは、彼から姉のように慕われていた。
――僕は将来、君のおうちの婿になるらしいよ。
――そうなの? 私もシビルなら嬉しいわ。
幼馴染のリリアナとシビルはいずれ婚約するものと見なされていて、本人たちもそのつもりだった。
だが、その矢先、シビルの体に不可思議な痣が出現したのだ。
背中から左腕にかけて、禍々しく絡まる荊のようなそれは、一説によると魔に選ばれし者の肌に浮き上がるものだという。
――いやだ、はなして! リリ! リリ!
宮廷魔術師の指示に従い、自邸にて大人しく軟禁されていたシビルを無理やり捕縛したのは、当時十一歳の王太子クリストファーだった。大勢の騎士を引き連れ、哀れな草食動物を狩るように、彼は逃げ惑うシビルを狩った。
非常に稀な痣であるゆえ、宮廷魔術師らに加え、魔族生態学、古文書学、記号紋章学の重鎮らが顔を揃え、今後の対応を協議している最中のことだった。
シビルは魔力封じの鎖で何重にも縛られ、魔の森に遺棄された。逃走を図り、悪質であったというのがクリストファーの主張だった。
逃走も何も、シビルには元々逃げる気などなかったのだ。彼を追い詰め、そう仕向けたのはクリストファーである。
シビルが捕らえられた時、彼がずっとリリアナの名を呼んでいた――と、リリアナに教えたのもまたクリストファーだった。女に助けを求めるなど女々しい奴、という彼の所感付きで。
「誰かに何かを吹聴したことなどございません。私はただ……」
「あの者は幼く、魔に魅入られやすい年頃だった。王都に置いておくのは危険だと判断し、私は苦渋の決断を下したのだ。好きであのようなことをしたと思うか」
クリストファーの心の内など当時も今も知らないが、リリアナに分かっていたのは、あの時、立ち止まって何かを考える暇もないほど、すべてがあっという間に終わったということだけだった。
得体の知れない痣を肌に宿す者が、自身の生活圏から速やかに排除され、安堵した者もいただろう。だが、クリストファーはあまりにも結論を急ぎ過ぎてはいなかったか。少なくとも宮廷魔術師は痣の正体を見極めてから判断しようとしていたし、シビルにもデュ・モーリエ家にも隠蔽や逃亡の意図はなかった。万一、シビルが魔に堕ちてしまったとしても、その時はデュ・モーリエ家が家名にかけて対処しただろう。
表面上は沈黙を貫いたリリアナだったが、親友であるデルフィーヌにだけはこっそりと打ち明けていた。自身の率直な思いと、いずれシビルを捜し出し――骨になっていたとしても、連れ帰ってやりたいというささやかな願いを。
「魔の森に行きたいと、ずっと願っていたのだろう?」
いや、魔の森に行きたいっていうか……。
「魔王が人間の花嫁を所望だ」
「――魔王? 魔王ってあの魔王?」
リリアナは驚いて尋ねたが、あの魔王もどの魔王もない。魔王と言えばたった一人だった。
魔の森の奥深くに住み、その名の通り、すべての魔物の頂点に立つ圧倒的存在。彼がいつこの世界に生れ落ち、どのような容貌をしているのかは誰も知らない。だがその力のほどは凄まじく、彼がその気になりさえすれば、一瞬で世界を焼き滅ぼすことが出来るという。
「そう、その魔王だ。この魔法陣の先で、お前の到着を待っている」
「殿下、お待ちください」
そんな恐ろしい存在が、あえて「人間の」花嫁を所望する理由とは一体。
「魔王の花嫁ともなれば、魔の森など散策し放題ではないか。よかったな」
これは素で言っているのか、本気で性格が終わっているだけなのか、彼の場合、ちょっとどっちか分からない時がある。
リリアナの下で魔法陣が光った。
「先方の回路が開いたようだ。ではリリアナ、達者でな」
「え、いや、ちょっと待っ……」
リリアナの視界がぐらりと揺れる。
彼女が最後に目にしたのは、見る度に何かムカつくと思っていたクリストファーのぱっつん前髪だった。
ぽわり、と思いのほか優しい光に包まれ、リリアナは冷たい石の床の上に到着した。
足下の魔法陣はさらさらと溶け、見上げた先には玉座に座る若い男と、彼を取り囲む魔物たちがいる。
玉座の男は人間と同じような外見をしていた。
柔らかそうな漆黒の髪、すらりと長い手足。顔の上半分は硬質の仮面で覆われている。すっと通った鼻筋の下の唇は、驚いたように薄く開かれていた。
彼の周囲の魔物たちは外見も大きさも様々だった。彼の倍はあろうかという半裸の大男から、手のひらに乗るサイズの、丸いミノムシのようなものもいる。暗くおどろおどろしい室内とは対照的に、彼らの肌や毛皮や鱗がまとう色は多彩で賑やかだった。
男の仮面の目の部分に当たる、薄い切り込みの奥から食い入るような視線を感じ、リリアナはぎこちなく礼をとった。
「……リリアナ・グレイにございます……魔王様……」
この中で誰が魔王かなど明白だった。玉座の男からあふれ出るオーラに、体が勝手にひれ伏しそうになる。
魔王の隣にいる賢そうな小鬼が「え、追い返すんですか……?」と困惑したように尋ねている。魔王が小鬼を鋭く一瞥し、小鬼はぴゃっと大男の後ろに隠れた。
魔王はリリアナに向き直り、口元にゆっくりと笑みのようなものを浮かべた。
「魔王城へようこそ、不運な花嫁殿」
何という艶のある声なのか――。
極上の絹で頬を一撫でされたかのように、リリアナはうっとりと目を閉じる。
だが、相手は魔王。
こうやって心をとろかしておいて、後でどんな目に遭わせる気なのか。そもそも花嫁という言葉の定義は人間と同じなのか。
ねえ……「不運な」って、何――?
「花嫁って、生贄っていう意味ですか」
「……そのままの意味だ」
魔王がパチンと指を鳴らし、リリアナの手枷が一瞬にして霧散した。
――えっ? 外してくれた?
驚いているリリアナに、魔王がいい声で憐れむように言う。
「無理やり連れてこられて気の毒に」
「い、い、いえ」
自由になった手首をさすりながらリリアナは咄嗟に否定した。状況的にはどう見てもそうだが、本人を前に「ええ、まあ、そうなんです」とはさすがに言えない。
魔王が再び指を鳴らし、リリアナと冷たい床の間に、今度は柔らかなもふもふカーペットが差し込まれた。
あったかい……。
心身ともに疲れ果てていたリリアナは、その場にうずくまりそうになった。
「どうして、こんなに良くしてくださるのですか」
「冷たい床の上にいつまでも座らせておく訳にはいかない」
この人、もしかしていい人なのでは……?
リリアナは魔王にそんな疑惑の目を向けた。
魔王がすっと立ち上がり、彼女に背を向けながら言った。
「リリアナ・グレイ。この城の扉はすべて、君の前では開かれる。好きな部屋を選ぶといい」
彼が賢そうな小鬼に「案内してやれ」と囁く。
「或いは――帰りたいなら、誰かに送らせる」
「魔王様!」
彼の周りの魔物たちが一斉に騒ぎ出した。
「そんな押しの弱いことでどうするんですか」
「大臣が伝手を頼って、ようやく来てもらった花嫁なんですよ」
「魔王様、何でそんなこと言うの? さっきお嫁さんの顔見た時、明らかに喜んでたよね?」
内輪の話だろうに、隠す気がないのか、皆、普通に声が大きい。
リリアナは彼らに負けないよう、震える声を張り上げた。
「こっ……ここにいさせてください」
魔王が驚いたように振り返る。
その反応にリリアナはむしろ驚いた。
彼はきっと、人間の世界の理屈に疎いのだろう。だが、王太子の命令でここに送り込まれたリリアナには、帰るという選択肢はない。
クリストファーの独断専行に眉をひそめる者はいても、表立って異を唱えられる者はいなかった。リリアナが彼の命令に背き、勝手に帰ってこようものなら、実家であるグレイ家にどんな処分が下されるか分からない。
それに、リリアナにはここに残らなければならない理由がもう一つあった。
――魔の森に行きたいと、ずっと願っていたのだろう?
いずれ彼女の夫となるはずだった少年が、生死不明のまま魔の森にいる。
シビル・デュ・モーリエ――将来はグレイ家に婿入りすると目されていた、デュ・モーリエ家の小さな次男坊。
傍目には、しっかり者のリリアナと、甘えん坊のシビルという組み合わせに見えていただろう。だが、実際の二人の関係はもう少し複雑で、木陰で涙するリリアナに、シビルが黙って胸を貸す日もあったのだ。
幼い二人の間に流れる感情は、まだ愛ではなかったとしても、いずれ必ず愛となりゆくものだった。
親友だったデルフィーヌにさえ告げていなかったが、リリアナはシビルが生きていると信じていた。だがその場合、恐らくもう人ではないだろう。とはいえあの彼のことだから、あまり強くはないけれど、逃げ足の速い小さめの魔物になっているような気がする。
捜して……見つけてあげなくちゃ。
リリアナの夫となる人は、少なくともクリストファーの五百倍は慈悲の心がありそうだった。リリアナがここで人間の花嫁に求められる役目を精一杯果たせば、シビルを捜すのを手伝ってくれるかもしれない。
リリアナは目を潤ませて魔王に尋ねた。
「駄目ですか……?」
「……好きにしろ」
魔王はいい声で言い放って立ち去った。
ひとまずは受け入れられたようだ。リリアナはもふもふカーペットの上で安堵の息を吐いた。
「リリアナ、城を案内するね」
魔王にそう命じられた賢そうな方ではなく、顔はそっくりだがやんちゃそうな方の小鬼が、弾ける笑顔でリリアナに駆け寄ってきた。
「好きな部屋を」と言われたはいいが、魔王城の部屋数は数百を下らないらしい。案内役を買って出た小鬼、メリノもその正確な数を知らなかった。
「あとさ、先に誰かが使ってるところは、やっぱり……」
「分かっているわ。無理やり譲らせたりなんてしない」
魔王城が放つ陰鬱な空気は、兎角魔物を引き寄せるものらしい。翼のある種族などが気まぐれに塒にしてみたり、出産を控えた獣型の魔物が勝手に棲みついていたりと、思わぬところに思わぬ魔物が潜んでいたりするという。
「ちょっと崩れかけとか、薄暗いところとかは、やっぱり人気だね」
「そうなんだ……」
どれほど先客がいるのか不明だが、少なくとも好みは被っていなさそうだ。部屋の取り合いになることはないだろう。
「人間はどんな部屋が好きなの?」
「そうねぇ……人間は清潔で風通しがよくて、夏涼しく冬温かい部屋が好きかなぁ」
魔王城の薄暗い廊下を歩きながら、リリアナが人間代表のような顔をして答える。
「ふーん、じゃあリリアナが選んだ部屋を、そういう風にしてくれるよう魔王様にお願いするね」
「え、そんな感じなの?」
リリアナの選んだ部屋がリリアナの好みに応じて整えられるなら、どこを選んでも同じではないだろうか。
それならば、魔の森を一望出来る上の方の階がいい。何となくだが、地下階や低層階よりも、そっちの方が治安も良さそうだ。
「決めた。出来るだけ上の階に……あら?」
いつの間にかメリノがいなくなっていた。
辺りを見回すと、窓の代わりか、等間隔に穿たれた細長い隙間から色の薄い空が見える。
今まで歩いていた場所よりも、数段上の階にいるようだ。
何故……? いつの間に……? と首を捻りつつも、辺りに誰もいないことが急に不安になる。
ただでさえ広大な魔王城、こんなところで迷子になってしまえば、発見されるまでにどれほどの日数がかかるのか。
「誰か、いませんか……」
細い隙間から辛うじて空は見えているものの、そこから差し込む光は病気の赤子の泣き声のごとく、か細く頼りなかった。廊下はどこまでも薄暗く、天井からはぶ厚い蜘蛛の巣がレースのように垂れ下がっている。
立ち止まる方がかえって恐ろしく、リリアナは緩やかに湾曲する狭い廊下をどんどん進んだ。しばらく行くと、数段しかない小さな階段の上に荊の絡まる扉がある。あの中に誰かいるだろうか。
いたとしても魔物では、という思考はこの時働かなかった。
リリアナが部屋の前に到達すると扉がすっと開く。扉に招き入れられるように、リリアナは足を踏み入れた。
まあ、どこの貴人の部屋かしら……。
ここまで荒れ放題だったのが嘘のように、扉の向こうの部屋は手入れが行き届いていた。豪華な前室を抜け、奥に入ると、服を着替えている少年がいる。こちらに背を向けていて、彼の顔は見えなかった。
だが、柔らかそうな猫毛の黒髪、華奢な肩、少し気だるげに腕を持ち上げるその仕草。
そこにいる少年は、リリアナにとって、とても見慣れた大切な人の特徴を持っていた。
でもまさか。
まさかそんなことがあるはずがない。
「――シビル!」
少年が驚いたように振り返る。
時が止まっていたのだろうか。それとも巻き戻った――?
そこにいたのは、別れた時の姿そのままの、リリアナの記憶の中にいるシビルだった。
「リリ……」
「シビル!」
腕を通しただけで、まだ前を止めていないシャツ姿のシビルに駆け寄る。そのまま押し倒す勢いで、リリアナは彼に抱きついた。
――あら?
意外にも彼はびくともしなかった。
子供らしい丸みを帯びたシビルの体は、実際に触れてみると意外にも平坦で、ややごつごつしていた。リリアナが屈んで抱きついた肩は思ったよりも上にあり、何故かリリアナのつま先が軽く浮く。
「――ええい!」
「うわ」
リリアナは違和感を覚えつつも、彼女自身が九歳の子供に戻ってしまったかのように、全体重をかけてシビルを床に引き倒した。
「君、十九にもなって……」
尻餅をついたシビルが、大人びた仕草で髪を掻き上げる。リリアナは問答無用で彼に抱きついた。
「リリ……」
シビルが彼女の背に腕を回し、ぽんぽんと優しく撫でる。腕も見た目より長いような気がする。だが、今はそんなことどうでもよかった。
「シビル、シビル……!」
リリアナは嗚咽交じりに何度もシビルの名を呼んだ。
まさかこんなに早く会えるなんて。それに見たところ彼は健康で、ひどい扱いを受けている様子もない。
「シビル、生きて、無事で……!」
「うん……連絡出来なかった。ごめん」
リリアナは大きくかぶりを振る。彼に抱きついたまま、子供のように泣きじゃくった。
「シビル、シビル」
「うん……」
十年分の涙はなかなか止まらなかった。
シビルは黙って胸を貸していたが、そのうち、リリアナの後頭部を緩く支え、耳元に唇を寄せて囁いた。
「――リリが僕の腕の中で泣いてる」
その声音に得意げな響きを感じ取り、リリアナはふと我に返った。
「あなたって子は本当に」
「泣き止んだね」
リリアナの目のふちに残る涙を、シビルの優しい指がすくい取った。
「リリ、どうしてここに?」
「魔王様が人間の花嫁を所望して、それで私が来たの」
「そこじゃなくてさ、いや、それも後で詳しく聞かせてもらうけどさ、どうしてこの部屋に?」
――そこじゃなくてさ?
それは知ってる、と言わんばかりの反応に、リリアナは戸惑った。魔王城に人間の花嫁が来たことも、それがリリアナ・グレイという者であることも、とっくに城内周知されているということだろうか。見慣れない人間がうろうろしていますが、それは魔王様の花嫁だから食べてはいけませんよ、的な……?
「分からないわ。気がついたらメリノとはぐれていて、いつの間にかここに来ていたの」
「ふうん……。ここは何重もの見えざる結界に守られた、魔王城の真の最上階だ。普通の魔物や人間には、その存在すら知覚出来ない場所なんだよ」
「えっ、そうなの? どうしてそんなところに……。そりゃ、出来るだけ上の方の階がいいとは思ったけど」
リリアナは首を傾げるばかりだったが、シビルは「成程ねぇ、そういうことか……」と一人で納得していた。
リリアナはひょいと手を伸ばし、彼の白くてすべすべしたお腹を触った。
「え、ちょっと? リリ……」
やはりおかしい。甲羅とまではいかないが、滑らかそうな見た目に反し、ごつごつと硬い。
シビルが顔を赤らめ、ふいと背けた。
「男の肌をまさぐるなんて」
「変な言い方しないでよ。シビルの見た目と触り心地が違うから」
「……リリには僕がどんな風に見えているの?」
「え? 人間の男の子で、九歳の……あなたよ?」
リリアナは当惑して答えた。シビルは何を言っているのだろうか。
シビルは悲しげに微笑んだ。
「そうなんだね……。万一、何も知らずにこの部屋に入ってくる者がいても、僕の本当の姿は見えない。僕を知る者はいつもの僕しか見ないけど、そうでない者は、その者の心の中にある幻をそのまま見る」
「シビル――」
彼に何と声をかけたらいいのか分からなかった。
リリアナの目にどう見えていようと、それは彼の真の姿ではないということだ。
つまり、彼はもう人間ではない。
何か、硬めの魔物に……。
「リリ、君ももう気づいているんだろう。僕は……」
「言わないで」
リリアナは彼の口をふさぐように、硬い体を抱擁した。
誰が想像しただろう。あの可愛いシビルがごつごつした硬い魔物となり、何重にも張られた結界の中に閉じ込められているなんて。
「たとえどんな姿になっても、あなたは私の大切なシビルよ……!」
「待って、リリ。認識をすり合わせようか」
「人間から魔物になった人は、皆こうして閉じ込められるの?」
「いや、閉じ込められてるって訳じゃ……」
リリアナがはっと手で口を押えた。
「もしかして、魔王様があなたを保護してくださっているの?」
否、逆なのだ。
ちょっと硬いだけで、恐らくはそんなに強くもない彼を哀れに思い、魔王が守っているのでは。
初対面のリリアナに見せた、あの慈悲深さから考えるに、そっちの方がありそうだった。
「お優しそうな方だったものね……」
彼の艶やかな美声を思い出し、リリアナがうっとりと頬に手を添えると、シビルが両手で顔を覆った。
「もうそういうことでいいよ……」
「良かった……どんな姿になっていても、生きていてくれて本当に良かった」
リリアナは再びぎゅっと抱きついた。
シビルは諦めたようにため息をつき、ぽんぽんと彼女の背を優しく撫でた。
「それで、僕も訊きたいんだけど」
シビルがパチンと指を鳴らす。
あら、魔王様と同じ動き……とリリアナが思った時にはもう、ティーポットに入った熱々のお茶と、焼き菓子を載せたトレイが床の上に出現していた。
「ミルクは?」
「入れる」
「テーブルで」とはどちらも言い出さず、二人は床に座り込んだまま、くつろいでお茶をし始めた。昔、二人で何度もやった、部屋の中でするピクニックである。シビルの外見に引きずられ、リリアナの気分も子供時代に戻っていた。
「で、どうしてリリが魔王の花嫁に選ばれたの?」
「それは……」
どうしても何も、例によってクリストファーの横暴である。大して長い話ではなかったが、語っている途中でクリストファーの揺れるぱっつん前髪を思い出し、リリアナの声が怒りに震える局面もあった。
「……という訳なの」
聞き終えたシビルが静かに言った。
「相変わらず下種な男だ」
大人の男のような口調で、何となく魔王の喋り方と重なった。
「彼は君を気に入っていた。でも君がちっとも彼になびかないから、それが気に食わなかったんだろう」
「気に入られてなんかなかったわ」
「子供だった僕にも分かってたよ。彼が君に惹かれているって。君はとても綺麗だったから」
急にそんなことを言われ、どきりとした。
「……綺麗になったね、リリ。あの頃も綺麗だったけど、本当に綺麗になった」
シビルの眼差しに愛おしさと切なさがあふれ、リリアナの胸がぎゅっと締めつけられた。
もしこれが、婚約者となったシビルに言われた言葉だったなら、どれほど素直に喜べただろう。
「……シビル・デュ・モーリエ。最初で最後のキスを許して」
魔王の妻となるリリアナは、もう彼の妻にはなれない。だからせめて、幼い恋の形見に口づけを一つ。
シビルは触れるか触れないかの唇を味わうように目を閉じた。
唇を離し、リリアナが告げた。
「あなたか私、どちらかの命が尽きるまで、私はあなたのそばにいるわ」
リリアナは魔王の花嫁であり、不義など許されない。だが、見た目九歳、実体は何か硬めの魔物であるシビルが不義の相手となることはあり得ないだろう。
それならば、友人としてそばにいることは許される。
シビルは複雑な顔をするばかりだった。
「そんな顔しないで。好きな部屋を選んでいいそうだから、出来るだけシビルの近くにしてもらうわ」
「丁度、隣が空いてる」
「隣なんてあった?」
それに、ここは誰もおいそれと近づくことの出来ない、見えざる最上階ではなかったのか。
「まあいいわ……。それじゃ、また来るわね」
首を捻りつつ彼の部屋を辞し、一歩外へ出た瞬間、リリアナは息をのむ。
目の前に、透明な丸屋根で覆われた空中庭園が広がっていた。
外から明るい日差しが降り注ぎ、足元には淡い色の花が揺れている。
「綺麗……」
「魔王様のお気持ちです」
鼬型の魔物が穴からぬっと顔だけ出して教えてくれる。
「そうだったの。お礼を申し上げなくては」
「晩餐の席でお会いになれましょう。さ、ひとまずお部屋に」
促され、振り返ると、シビルの部屋の扉の横にもう一つ扉が出現していた。シビルの扉と対であるように、同じ荊が絡まっている。リリアナが扉の前に立つと、扉は彼女を招き入れるように開いた。
「ああ、何て可愛いの……」
薄桃色を基調とした内装や、優しい乳白色をした調度の一つ一つが愛らしい。中でうっとりと立ち尽くしていると、メイド服を着た可愛い娘が二人、一回転しながら天井から降りてきた。どちらも背に蝙蝠の羽をぱたぱたさせている。
「リリアナ様付きの侍女となりました。ディタとミラです。よろしくお願いします」
「さ、お召し替えを」
彼女たちに着つけられ、リリアナは肘から下が釣鐘草のようにふわりと広がる、フリルたっぷりの漆黒のドレスと、ヘッドドレス、耳飾り、ネックレスに至るまで、すべて黒真珠で揃えたパリュールで身を飾られた。
「黒は魔王様のお色。元々生まれ持った毛皮などの色ではなく、後からまとう黒は、身も心も魔王様のものという証です」
成程、ここでは花嫁衣装は黒なのか、とリリアナは納得した。
ディタとミラがうっとりとため息をつく。
「何とお美しい……」
ダークブロンドとエメラルドグリーンの瞳を持つリリアナに、魔王の黒はよく映えた。
深紅の蝋燭が照らす広間で、リリアナは魔王と向かい合って晩餐の席に着いた。
「魔王様、素敵なお庭とか、素敵なお部屋とか、色々とありがとうございます」
「……ああ」
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
「……ああ」
素っ気ないが、いい人なのはもう知っている。
別れも言えず残してきた家族や、大切な人たちのことが気にならないと言えば嘘になったが、彼らの身を守る為にも、リリアナはここでしっかりと根を張って生きていかなければならない。
食文化が合うかどうかは少し不安だったが、魔王城の晩餐は人間の食事と変わらず、とても美味しかった。
魔王城での暮らしはとても楽しかった。
まず魔王がいい人である。
「魔王様ッ、遊んでッ、遊んでェー!」
丸いミノムシのような魔物が、いきなり頭に飛び乗っても全然怒らない。
お付きの大男を少し下がらせ、彼に向かってミノムシをふんわりと投げる。ミノムシをキャッチした大男もまた同じように投げ返す。ミノムシは大喜びで二人の間を往復する。
しばらくそうして遊んでやった後、魔王は「すごい汗だ」とあの美声で呟き、指パッチンで虚空からほどよく湿らせた手巾を出す。
魔王がミノムシの体を包んで優しく拭いてやると、ミノムシは「あ~気持ちい~」と彼の手の中でごろごろするのだった。
魔王と魔物たちのそんな微笑ましい触れ合いを、遠くから見つめて和むのがリリアナの日課と言えば日課だろうか。
リリアナのそばには大抵小鬼のメリノがついていた。リリアナ付きの可愛い侍女たちは夜行性の為、昼日中はあまり外へ出てこない。今日はメリノの妹のウルも兄にくっついてきていた。
「魔王様って、どうして仮面をつけていらっしゃるの?」
「普段はつけてないんだけど、人間が来るって聞いて慌ててつけてた」
「そうなの……」
「人間キライだもんね」
ウルが無邪気に呟き、リリアナの胸がズキンと痛んだ。
「元は人間なのにね」
「ハックション!」
その時、丁度そばにいた狼男が竜巻のようなくしゃみをした為、メリノの返事はリリアナの耳には届かなかった。
人間嫌いか……。
いかにも魔王らしいとリリアナは思った。だが、恐らくは人格者である彼のこと、このままではいけない、手を携えて共存の道を、とか何とか考えて人間の花嫁を娶ることにしたのだろうか。
リリアナに対しては相変わらず読めない感じだが、歩み寄ろうとする気持ちがあるのは窺えた。黒一色ではあるものの、たくさんのドレスや靴やアクセサリーが「魔王様からです」と届けられる。
とある日のリリアナの装いは、小ぶりの黒のカクテルハットに透かし細工の金の蝶を留め、黒いベルベットのチョーカーと、幾重にも黒を重ねたシフォンドレス。
その恰好でシビルに会いにいくと、シビルは何故か赤くなった。
「どっ、独占欲の強い奴だよねっ」
「何を言うのよ。お気遣いいただいて嬉しいわ」
シビルがちらりと上目遣いで、「本当?」とリリアナを窺う。
「こんな恰好したことなかったけど、すごく気に入っているわ」
「……ならいい」
シビルはまんざらでもない様子だった。
隣同士の気安さで、彼の部屋へはよく行った。彼もリリアナの訪れは分かるようで、お茶を用意して待っている。時々、留守にしているが、リリアナが来るとすぐに戻ってきた。
だが、一緒に外を散策しようと誘っても、それだけは頑なに拒否された。
「外ではこの姿じゃないから」というのがその理由だった。
硬い魔物である本当の姿をリリアナに見られるのが嫌なのだろう。リリアナはどんな彼だろうと嫌いになったりはしないのだが、本人が嫌がるのなら無理強いは出来ない。
「……生活に不便はないか」
「お陰様で、快適に暮らしております」
魔王とは晩餐の時に会うくらいで、妻と言うより客人のような扱いだった。
「魔王様、鋳型が欲しいです」
「どんな」
「直火用で、型はお魚で、両面タイプの……」
リリアナも魔物たちに倣い、魔王におねだりすることに躊躇がない。
「昔、異国の文献で見つけて……」
それが何の本だったかは忘れたが、その本には魚の形をした可愛いお菓子と、その作り方が図入りで記載されていた。
――なっ……何という可愛さ……。
あまりにも愛らしいフォルムに一目で心奪われたリリアナは、父にねだって特注で専用の鋳型を作ってもらった。
「愛嬌のある見た目もさることながら、味は素朴で飽きがこず」
魚形ワッフルについて、気づけば熱く語り始めているリリアナ。魔王はいつものように黙って聞いてくれている。リリアナはうっとりとため息を吐いた。
「よく庭先で焼いたものです……」
「そうか」
――シビルにもよく焼いてあげたっけ、懐かしいな……。
リリアナの楽しい記憶の中には大抵シビルがいた。
さすがに指パッチンでは出てこなかったが、数日後、リリアナが説明した通りの型が届けられた。
「早速焼きましょう!」
「わー」
魔王城の露台の一つを使う許可を得、それ専用に造ってもらった直火台の下で火を起こす。
リリアナには火魔法の適性があった。
魚の型には既に生地が流し込まれ、中央にたっぷりとカスタードクリームが乗っている。はみ出すくらいがリリアナの好みである。
優美な黒の羽飾りを髪に留め、ノースリーブの漆黒のドレスに漆黒の長手袋という出で立ちで、リリアナは焼きに入った。
パリッと仕上げたければやはり直火である。
エメラルドグリーンの瞳が爛々と燃え、直火台の下で燃え盛る炎を従属させる。ドレスの胸元のビジューが炎の揺らめきを映し、飛び交う精霊の羽のようにきらきらと輝く。真剣な眼差しで火力を微調整するリリアナを、小鬼のメリノを始め、多種多様な魔物たちがわくわくと見守っていた。
「出来たわ」
「わあー」
焼き上がりを見た魔物たちが歓声を上げる。
くりっとしたおめめ。ピンと跳ねた尻尾。こんがりと焼き色のついた体から、黄金色のカスタードクリームがとろりとはみ出している。
出来上がったお菓子は皆に好評だった。「頭と尻尾、どっちから食べる?」と、いかつい魔物も大はしゃぎである。
――二連では追いつかない。今度やる時はもう一つ型を作ってもらって、直火台ももう一回り大きいのを設置してもらわなくては……。
リリアナは額の汗を拭いながら次回の焼きに思いを馳せた。
「ドライスにも後で持っていってあげよう」
メリノが一つ取って大事そうに包んだ。
ドライスとはメリノの双子の兄で、賢そうな方の小鬼である。こまごまとした魔王の用事を言いつけられるのは大抵ドライスだが、気が乗ったらメリノが「オレやる~」と取っていく。ドライスも「やりたきゃどうぞ」の精神で淡々としている。ドライスのこのスタンスが性に合うようで、魔王はよく彼をそばに置いていた。
――魔王様とドライスは何となく気質が似ているのよね……。
あの一歩引いた感じ。どこかで……と思っていたリリアナははたと気づく。
――そうよ。魔王様って、シビルに似ているんだわ。
少し気だるげな雰囲気。お茶やら何やら出す時の、指パッチンの角度や繰り出し方。
いや、この動きに関しては、さして個人差などないだろうからそこは考え過ぎかもしれない。だが、事実として、魔王には何となくシビルを思わせるところがあった。上手く言えないが、リリアナを見つめる眼差しや、ふとした仕草などが。
「ウル~。こっちこっち~」
メリノが丁度通りかかった妹を呼ぶ。「なになに~?」と可愛らしく駆け寄ってくるウルに、リリアナは「お菓子を焼いたの。ウルも食べて」と手渡した。さく、と小さなお口が魚の腹を食み、リリアナの胸がきゅんとなる。
「へー。生のお魚も好きだけど、こういうのもいいね」
おませな口調がこれまた可愛らしかった。
「ウルは何歳?」
「百二歳」
「え」
まさかの年上であった。ということは、彼女の兄であるメリノも当然、百歳超えということになるのか。
――待って。じゃあ、あの可愛い侍女のディタとミラは? あのミノムシちゃんは? と、悶々とし始めるリリアナのそばで、愛らしい見た目の長老たちが楽しげに昔話をし始めた。
「そう言えば、魔王様が生まれた時もお魚食べてたよね」
「ああ、いきなり魚が全部虹色になって、びっくりしたけど綺麗だったな」
リリアナがぴくりと眉を上げた。
「魔王様が、生まれた……?」
ということは、魔王はこの二人より年下なのか?
「うん。十年くらい前だったかな、あの頃はまだ人間で、魔力封じの鎖でぐるぐるに巻かれた状態で来たの」
十年くらい前? あの頃はまだ人間? 魔力封じの鎖でぐるぐるに巻かれた状態で来た?
それって……。それって……。
「でも、魔の森で覚醒して魔王様になって、鎖はパリンってちぎれたの」
「大臣がようこそお帰りなさいませって言って、魔王様びっくりしてたよね」
「……」
小鬼二人は知る由もないだろうが、リリアナも今、腰を抜かすほどびっくりしている。
「人間に捨てられたから、もう人間の世界に帰れないって」
「そのせいで人間が嫌いになって」
「オレたちと一緒に遊んだり、ご飯食べたりしてるうちに、少しは笑うようになったけど、それでもやっぱり寂しそうで」
「だから、大臣が、人間のお嫁さんが来てくれたら、魔王様も少しは元気になってくれるかなって」
「そう……」
どうして気づかなかったのか。
何重もの見えざる結界に守られた、魔王城の真の最上階。
そこに住まうのは、誰だろう――?
――僕を知る者はいつもの僕しか見ないけど、そうでない者は、その者の心の中にある幻をそのまま見る。
透明な丸屋根の下、淡い色の花は揺れ。
――綺麗……。
――魔王様のお気持ちです。
夢のように美しい、あの空中庭園は。
は、は、と乾いた笑いを漏らし、リリアナはその場にくずおれた。
そこへすっと手が差し出された。
「リリアナ・グレイ。何があった」
「あ、魔王様だー」
「遊んでー」
見上げれば、そこには今まさに彼女の脳内のすべてを占めている人物が立っている。
リリアナは彼の手を借りてよろよろと立ち上がった。
「いえ……何でも、ございません……」
「……本当か?」
たった今知った真実について、未だ受け入れる心の準備が出来ない。
何でもなくはなさそうな彼女の顔を、魔王が気遣わしげに覗き込む。リリアナもまた、彼の仮面の奥の目をじっと覗き返す。深淵から見つめ返すように。
彼はさっと目を逸らした。
間違いない。これはシビルだと確信する。
「ならいい。――しばらく城を空ける」
言われてみれば、彼は外出用のマントを羽織っていた。血を吸ったような漆黒と、翻る裏地の臙脂の赤。「今からちょっと世界滅ぼしに」といった雰囲気である。リリアナは色々不安になって尋ねた。
「どちらに」
「君のお父上のところに」
挨拶だろうか。ご丁寧に……。だが、父の方はきっとそうは思わないだろう。
「い、いえ、お気遣いな……」
「君のお父上が挙兵した」
「えええ⁉」
驚きのあまり、リリアナは彼のマントをぎゅっとつかんだ。
「大丈夫だ。これより魔王軍総出で加勢に向かう。お父上の御身は必ず守る」
「ち、父はどうしてそのような」
「王太子に呼ばれて登城した娘が帰ってこなかったのだ。お父上の心中、察するに余りあるだろう」
「だ、だからと言って」
「君の所在を尋ねるお父上に、王太子はこう言ったそうだ。――リリアナなら魔王にくれてやった、と」
あのぱっつん前髪……!
クリストファーが常にこの調子なこともあり、王家に恨みを抱く者は多かった。今回のことがきっかけで、王家に次ぐ血筋を誇るデュ・モーリエ公を担いで多くの貴族が結集したという。魔王がそれをいち早く知ったのは、グレイ家が不当な扱いを受けていないか、気にして監視してくれていたかららしい。
「あ、ありがとうございます……」
「妻の実家を気にかけるのは当然だ」
魔王がリリアナの頬を撫でた。
「留守を頼む」
妻として扱われているようで、一瞬、胸がキュンとなったが、リリアナの口からは驚くほど低い声が出た。
「一緒にお連れください」
「リリアナ・グレイ。戦なのだぞ」
「それが何だと言うのです」
リリアナは彼の目を見据えて言った。
うっかり「リリ」と言わないように、ずっとフルネームで呼んでいたのだろう。魔王って、そんな感じなんだ……と、呼ばれる度、背筋を正していた自分が許せない。
「あなたが守ってくださるでしょう」
怒りその他の感情がない交ぜになり、エメラルドグリーンの瞳がきらきらと潤んで輝いた。
その威力は魔王を屈服させるのに十分だった。
「君には傷一つつけない」
リリアナは彼に手を取られ、一際巨大で、凶暴そうなワイバーンの上にエスコートされる。
魔王はその背が優美な寝椅子か何かのようにゆったりと座り、「ここへ」とリリアナを招いた。
彼がリリアナを支えるように後ろから抱く。
そっと背を預けた先の、思わぬ安定感と抱かれ心地の良さにリリアナはどきりとした。
「――出陣」
シビルらしい淡々とした号令に、背後の魔物たちが咆哮を上げる。
空を埋め尽くすワイバーンと、その上に乗るいずれ劣らぬ凶悪な顔つきの魔物たちを従えて、魔王とその妻は反乱軍の本拠地、デュ・モーリエの古城に向かった。
人間の世界へと向かう上空で、大事なことに気づいたのはリリアナだった。
「待って。このままでは襲撃だと思われてしまうわ」
「成程。では我々が先に」
魔王が指を鳴らすと、二人が乗るワイバーンは次の瞬間、古びた城の露台に佇むリリアナの父の鼻先に出る。まだ面頬こそ付けていないが、既に甲冑姿だった。
「お父様!」
「リリアナ⁉」
魔王に手を取られ、リリアナがすっと露台に降りる。
「よくぞ無事で……無事……無事……? 無事、なの……か?」
「無事です」
一見して魔王と分かる男の隣に立ち、彼と同じく黒一色の出で立ち。乗ってきたのはいかにも凶暴そうなワイバーン。もはや魔に堕ち…………と思われても仕方がない。父の周囲にいる甲冑姿の諸侯らも、リリアナに痛ましげな目を向けていた。
魔王は彼らの反応を気にも留めず、魂を弄ぶような美声で囁いた。
「余の義父となる方が兵を挙げたと聞いてな。……余の助けが必要であろう?」
「おお……!」
「魔王軍の加勢あらば、王家なぞ一捻りだ!」
悪い笑みを浮かべる魔王を囲み、諸侯らが現金にもわっと沸き立った。
「魔王軍が加勢に来てくれたぞ!」
その情報は全軍に隈なく伝えられ、彼らの士気を否応なく高める。
「デュ・モーリエ公! リリアナ嬢のご夫君が!」
カシャという足音とともに姿を現した人物に、諸侯の一人が弾んだ声をかけた。老体に甲冑をまとったデュ・モーリエ公である。シビルを失った時も徒に騒ぎ立てることはなく、節度ある態度を貫いていたが、この十年というもの、クリストファー及び王家への恨みを忘れた日などなかっただろう。彼の眼光は今や往時の鋭さを取り戻し、たとえ刺し違えてでも王家を滅ぼさんという気迫が全身にみなぎっていた。
甲冑の胸に手を当て、デュ・モーリエ公がゆっくりと膝をついた。
「魔王陛下に心からの感謝を」
――小父様……。その子、シビルなんです……。
これが十年ぶりの父と子の再会であることを、知っているのはリリアナだけだった。
どう出るのかとハラハラするリリアナの隣で、魔王は仮面の上を手で覆い、更に顔を隠した。
「立て。……老いの身が、敢えて死に急ぐこともなかろうに」
冷たく言い放ったシビルがさりげなくデュ・モーリエ公から顔を背け、リリアナを促す。
「――余と妻が露払いを務めよう」
うっとりするような美声でそう言って、彼が諸侯らに背を向ける。漆黒のマントが翻り、臙脂の赤が魔物の口のようにちらりと覗く。
躊躇なく魔王の手を取り、凶悪な面構えのワイバーンに楚々と乗り込むリリアナの後ろ姿を、諸侯らが黙って見守った。
「先に向かう。お前たちは風を起こして全軍の進行を助けよ」
「承知ィ!」
魔王軍が主の命令に呼応し、雄叫びを上げる。魔王が指を鳴らし、二人を乗せたワイバーンが光の筋となる。
「……少し、手荒いのがいい」
魔王が囁き、ワイバーンの目に愉悦の色が浮かんだ。敵の王城が眼前に迫る。ワイバーンは獰猛な笑みを浮かべてそこへ突っ込んだ。
ドォォォォン……という地鳴りのような音とともに、城の一部が深くえぐられる。地に降り注ぐ瓦礫と塵と轟音の狭間に、人間の悲鳴のようなものも上がった。
「これはこれは」
大きく開いた広間では、クリストファーとデルフィーヌの婚礼の宴の真っ最中だった。リリアナとの婚約を一方的に反故にした上、魔王の花嫁として送りつけるという暴挙に及んだクリストファーだったが、彼の振る舞いは今回もやはり許されたようだ。王は愛息のやんちゃに顔をしかめはするものの、毎回本気で叱ることはない。それよりも彼が不快を示すのは、臣下が王家の者の振る舞いに口を差し挟むことだった。
デュ・モーリエ公らの反乱を知らぬこともないだろうに、何を呑気なと呆れそうになるが、反乱軍の拠点はここから馬で三日ほどの距離にあるデュ・モーリエの古城である。今日明日の襲撃などあるはずもないと高を括っていたのだろう。彼らを迎え撃つ前に、慶事を華やかに祝って景気づけをというところか。
列席者が一様に驚愕と恐怖の表情を浮かべている中、新婦デルフィーヌの反応だけは皆と違っていた。
ほんのりと頬を染め、明らかに魔王に見とれている。
――そう言えばそうだったわ……。
デルフィーヌは大のイケメン好きだった。彼女が今、うっとりと視線を向けている魔王の中身は、将来のイケメン化が約束されていた美少年シビルの完成形である。顔の上半分を隠していても、しっとりとした美形のオーラは全然隠せていなかった。
「あぁぁら……デルフィーヌ。ごきげんよう……」
リリアナは殊更魔王に体を密着させ、勝ち誇ったように微笑んだ。親密な様子で魔王の胸元に手を添え、頭をすりすりとすり寄せる。
「あなたのお陰で、こぉぉんな素敵な旦那様と出会えたわ……。本当に、何とお礼を言ったらいいか」
リリアナが頭をのけぞらせて高笑いする。デルフィーヌは悔しげに顔を歪ませた。
「ははは。リリアナ、もうそのくらいに」
余裕ぶってリリアナの肩を抱く魔王の耳は薄赤に染まっている。悔しがるデルフィーヌを凝視するのに忙しく、リリアナがそれに気づくことはなかった。
「ところで」と、気を取り直した魔王が新郎クリストファーに目を向けた。
「お前たちの風習では、結婚する者に手枷を嵌めて送り出すのか」
リリアナが手枷を嵌められ、無理やり魔王城に送られたことを言っているのだと、あの時あの場にいた者全員が気づく。
クリストファーは色を失った唇を震わせるばかりで何も答えられない。魔王はそれを肯定と捉えたかのように軽く頷いた。
「では、余もお前たちの流儀に倣おう」
魔王が指を鳴らし、クリストファーの手に手枷が嵌まる。「ヒッ」と小さな悲鳴を上げたクリストファーの体が宙に浮く。
「たっ、たっ、助け……あーーーーーッ‼」
広く外に開け放たれた一角から彼の体が飛んでいった。
彼の体が描く放物線を為す術もなく見守っていた一同は、その落下予測点付近に信じられないものを見た。ここから馬で三日の距離にいるはずの反乱軍である。彼らの上空にはワイバーンの群れが羽ばたき、その一頭一頭にもれなく魔物が乗っている。
ワイバーンが起こす風にでも乗ったか、あり得ない速度で進軍してきた反乱軍はもう城まで数里のところに迫ってきていた。
クリストファーの体が彼らの手前にぽとりと落ちる。
「クリストファーだ!」
「生け捕れェェェエ!」
お菓子のかけらを見つけた蟻の大群のように、反乱軍がクリストファーの周りに群がった。
宴の列席者は我先にと逃げ出そうとするが、魔王が何か術でもかけているのか、誰一人としてこの半壊した、いかにも出入りのしやすそうな部屋から出ていけない。
そうこうするうち、生け捕ったクリストファーを高々と掲げ、反乱軍が入城してきた。クリストファーは涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、「父上、助けて、助けて」と泣きじゃくっている。
戦は始まりもせず終結した。
悪逆として討たれた前王と、その一派が地下牢に押し込まれる。
魔王は倒壊していない方の壁にもたれ、一部始終を見届けた。引き連れていた魔王軍は一足先に帰還させている。敵が応戦でもしてくれば対応させる予定だったが、襲撃があまりにも不意討ちだったことと、空を埋め尽くす魔王軍に恐れをなし、敵が早々に戦意を喪失したことで、肩慣らし程度の戦闘すら発生しなかった。魔物たちにとって今日のことは、魔王様との遠乗り楽しかった程度の認識だろう。
魔王は頃合いを見て指を鳴らし、王城を元の綺麗な状態に戻した。
「リリアナ・グレイ。そろそろ……」
夕暮れの空を見上げ、魔王がリリアナに帰還を促す。その時、衣服を改めたデュ・モーリエ公が現れて二人を呼び止めた。
「魔王陛下並びに妃殿下。この度はありがとうございました。有り合わせのもので恐縮ですが、ささやかな宴を催します。お二方も是非ご出席を」
「いや、我々はもう……」
「まあ、それは是非。すぐに参りますので、どうぞお先に」
にべもなく断ろうとする夫の言葉を遮り、リリアナは声を弾ませて招待を受けた。
「さ、小父様が行かねば始まりませんわ。行ってください。私たちもすぐに参ります」
リリアナの笑顔の圧に負け、デュ・モーリエ公が「では……」と踵を返す。
魔王が感情のない声で尋ねた。
「……リリアナ・グレイ。人間の世界に留まりたいか」
リリアナはむっと夫を睨んだ。
「言ったでしょう。あなたか私、どちらかの命が尽きるまで、私はあなたのそばにいると」
「それはそうだが……」
「言ったのはシビルによ! やっぱりあなたシビルなのね!」
「うっ、しまっ……」
「何が『余』よ! よくも、よくも……!」
「あ、謝る! ごめん、リリ。でも、意地悪で言わなかったんじゃなくて……君が勘違いして、それで、い、言い出せなくなって……」
「仮面を取りなさいよ!」
「う、うん」
魔王が仮面を手で押さえ、硬質な仮面が霧散した。おずおずと下ろされた手の下から現れたのは、シビルの面影を宿す絶世の美男である。
「シビ……」
「――シビル!」
感極まって彼に抱きつこうとしたリリアナは、背後から突進してくるデュ・モーリエ公の気配を感じてはっと脇に避けた。
「シビル! もしやと思っていたが……!」
「何⁉ シビルだと⁉」
「シビルゥー!」
デュ・モーリエ公に続き、シビルの年の離れた兄や、リリアナの父を始めとする、幼いシビルを可愛がっていた小父さんお兄さんたちがわっと駆け寄ってくる。
「あ……っ、苦しい、止めて……」
シビルは数多のむくつけき手に絡め取られ、ぎゅうぎゅうと締めつけられた挙句、ワッショイワッショイと宴席まで運ばれていった。
「リリアナ嬢も早く」
「ええ」
デュ・モーリエ公の言う「ささやかな宴」は謙遜に過ぎた。
こんがりとした丸焼きや燻製の魚、壺一杯の葡萄酒に珍しい果物。前王太子の婚礼の宴で、この後供されることになっていた料理の数々が並んでいる。
デュ・モーリエ公の意向で気取りのない車座の宴席となり、諸侯らはシビルの幼少期の話に花を咲かせた。
「ちょっともう、止めて……」
シビルは本気で嫌がっていた。
楽しい時間が過ぎるのはあっという間である。そろそろお開きという頃、デュ・モーリエ公がぽつりと言った。
「シビル、もし良かったら、こっちで一緒に……」
「魔王だから無理」
「そうだな……すまん」
シビルという圧倒的な強者が君臨してこそ、魔の森の秩序は保たれる。彼という押さえを失ってしまえば、魔物は即座に、無軌道で残酷な本能のままに動き始めてしまうだろう。
「でも……時々は遊びに来るよ。リリと一緒に」
父と子は最後にしっかりと抱き合った。
「達者でなぁー」
「本当に、時々は帰ってこいよー!」
皆に手を振られ、魔王夫妻は魔の森に帰っていく。
ワイバーンの上でシビルが尋ねた。
「……リリは本当に良かったの?」
「何が? あなたと一緒に帰ることについて?」
宴で飲んだ葡萄酒のせいで、ほろ酔いのリリアナがむっと渋面を作ろうとする。
シビルの胸に頭を預け、上目遣いに見上げると、やけに真剣な眼差しで、リリアナの答えを待っている彼と視線がぶつかった。
「それならもう答えてるでしょ」
――あなたか私、どちらかの命が尽きるまで、私はあなたのそばにいるわ。
あれを何度も言わせたいのだろうか。まったく、いくつになっても甘えん坊なんだから……。
シビルは軽く首を傾げ、リリアナの顔を覗き込んだ。
「まあ、そうなんだけど……本当に分かってるのかなと思って。今後、君が僕の部屋に来ても――君が会うのはもう、九歳の僕じゃないよ」
無防備なリリアナの喉を指でなぞり、二人きりの上空で、魔王は妖しく美しい笑みを浮かべた。
(完)
(おまけ)その後の話:
コンコン
「リリ、いい?」
「ど、どうぞ」
「君、あれ以来僕の部屋に来なくなったよね」(←分かりやすいなと思っている)
「……」
「君が来ても来なくても、僕は常にこの姿なんだけど」
「……」
「無駄だよ、僕がいるんだからディタとミラは来ない」(←侍女たちは心得ているので絶対来ません)
リリアナの頬がひきつる
指パッチンでバスケットが出る
シビル極上の笑み
「外に行かない? 空中庭園でピクニックしよう」
「え、ええ」
魔王の悪い笑みだけどリリアナは気づかず
油断して一緒に外へ
※シビルの最終目的はまたしょっちゅう部屋に来てもらうことなので、まずはピクニックで警戒を解く作戦。イヤ何でだよもう今イチャイチャすればいいじゃん人払いもしてんだから、とはならない。
そういうことはゆっくりでいいと思ってるし、リリアナのことは大事にしてます(悪い男なのに)
リリアナもそういうのを感じ取って、またお部屋にしょっちゅう遊びにいくように。
めでたしめでたし