(3)
キッチンに到着したレイは素早く調理に取り掛かった。
手馴れた様子で食材を細かく刻み、火にかけた小さな鍋に水と食材とガイロ(米によく似た粒状の種子を加工したもの)を入れて柔らかくなるまで煮込んでいく。
ぷくりと気泡が浮き上がるのを見ながら考えるのはケディウスの事だった。
部屋から出ていく前、どうしてあんなにも人の親切を疑い疑念に満ちた目を向けたのだろうかと首を捻るが、これと言って思いつくものはない。まるで怪我をした野生の犬のような警戒心だと思ったところで、自分の考えに笑ってしまった。一番しっくりくる理由だと思ったのだ。
レイに日頃言葉を交わすような親しい友人はいない。欲しいとも思わないし、それを寂しいとも思わない。
しかしそういうレイにも噂話というものは自然と耳に入ってくる。
ケディウス・レクターとはもっぱら物騒な男で学園きっての危険人物と噂されることもあれば、一方で他者を圧倒する程の凄まじい魔力保有量と頭脳を持ち合わせた天才だと評されている時もある。
男子生徒と女子生徒は基本的には教室を別にしているが、完全に隔離しているわけではない。男子生徒は用事があれば女子のいるエリアに足を踏み入れてもいいし、もちろん逆も然りである。
以前レイは、男子エリアに教師の先導で移動してきた女子生徒の列が廊下を歩くケディウスの姿を見て色めき立つという現場に遭遇した事があった。当の本人は熱い視線を片っ端から無視してさっさと消えて行ったが、彼の姿が見えなくなった後も女子生徒達の目から熱はしばらく引かないままだった。
その様子を、結婚相手には困らなさそうだなぁ、なんて他人事に思いながら眺めていたレイだったが、彼の容姿も決して悪いものじゃない。
むしろかなりいい部類に入る。
黒曜石を思わせる黒い瞳と夜を思わせる漆黒の髪色は陶器のような彼の白い肌によく映え、長いまつ毛に縁取られた目、すっと通った鼻筋に小さくも形の良い唇は絶妙なバランスで小づくりな顔に配置されている。
ケディウスのような視線だけで相手を萎縮させてしまう雄々しい美男ではなく、はっと息を呑むような清廉な月を思わせる麗人である。
しかし本人にその自覚はない。
むしろ自分は他人に不快感を与える容姿をしていると本気で思っている。
彼はネガティブ思考でもなければ壊滅的に鈍いわけでもない。
それなのに勘違いをしている原因とは、この世界に来てからほとんどの時間を軽蔑され畏怖の対象として遠巻きにされて過ごしてきたことにある。
世界共通の認識として黒は一般的には不吉な色とされている。この世界にも黒い髪色の人が居ないわけじゃない。しかし居たとしても、少々灰色がかっていたり、髪色は黒だが目の色は他色だったりと、レイのように揃った色は珍しい。しかも誰しもが本来当たり前のように持つべき魔力が全くないときた。
これが大きな問題だった。
どこの世界の文献を探しても、彼のような魔力を持たない人間の記録はない。初めての事例である。
こういう場合、一般的な人間の反応とは、興味を持って面白半分に近寄ってくるか、未知の異質性を恐れ関わらないようにつとめるか、その不思議と謎を解明しようと躍起になるかのどれかに分類される。
彼の場合そのどれもがやってきた。
思い出したくもない苦い過去だ。
ただ魔力がないだけであれほどの騒ぎだったのだ。こちらの身体を弄り回す研究者たちの熱気の籠った視線はもはや永久に忘れ去りたい記憶である。
原因は自分自身がわかっていた。
しかしあの時『異世界からきました』と馬鹿正直に打ち明けていれば、今自分は自由の身でここにいないだろうと確信を持って断言できる。
当時のことを思い出してざわめく心に終止符を打ったのは、グツグツと煮える鍋の激しい音であった。
慌てて火を止めた。
ちょっとかき混ぜて確認してみたものの焦げた様子はない。
ほっと息を吐いて、鍋から取り皿に移し、ケディウスの部屋に向かった。
「入りますよ」
湯気の立つお椀を乗せたトレーを片手に、もう片方の空いている手で軽くドアをノックをしたが返事がない。
中でまた倒れているのかと一瞬不安に思いながら入室するが、レイの心配をよそにケディウスはベッドに腰掛けて、入ってきた人物の方に顔を向けていた。
「⋯本当に作ってきたのか」
レイの左手を見て呆れた声を出す。
「作ってきますと言ったでしょう?ほら、食べられるだけ食べましょう」
トレーを目の前に置いてもケディウスは動かない。
じいっと出来たての料理をなんとも言えない形容しがたい顔で睨みつけるように見ている。
レイにはその反応の理由も意図もわからなかった。
「どうしました?」
「いや⋯」
「毒などは入れてませんが」
「それは見りゃあわかる」
「わかっちゃうんですか⋯」
毒物混入の有無を見ただけで分かるなんて、この世界の人間は凄いんだなと心の内で感心するレイだが、それは大きな間違いである。簡単に毒物の判断ができる人間はそうそういない。
レイは一人で感心しながら目の前に座る男の動向を伺っていると、視線に耐え切れなかったのか、はたまた自分の中でなんらかの折り合いがついたのか、やっと男はスプーンで粥をひとさじ掬い口に運んだ。
そこからは早かった。
レイが気を遣って一旦退室しようとする暇も与えず素早く食べ終えたケディウスは、机の上に置いてある金ぴかの山を顎で差して言った。
「好きなだけ持ってけ」
「えっ、あれを?いりませんよ」
「はあ?」
はあ?と言いたいのはこちらの方だと言いかけて飲み込んだ。
素人の作った粥の礼に金貨はあまりにも釣り合いが取れなさすぎる。
もしや『魔酔い』の影響で脳のどこかが損傷でもしたのかと疑いながら、それを表面には出さず毅然と言った。
「礼なら必要ありません。私がしたくてしただけですから」
「その言葉を信じろって言うのか」
「むしろどうして信じられないのか理解に苦しみます。こういう時は素直に『ありがとう』で良いんですよ」
「ありが⋯とう⋯」
「はい、どういたしまして」
違う、と叫びたかったケディウスだったが、あまりの驚愕に舌の根が固まって何の言葉も出せなかった。
本当ならば「ありがとうだと!?」と聞き返すところだったのだが、中途半端に途切れた言葉はレイに感謝の意を伝える形になった。
ケディウスは柳眉をこれでもかと寄せてレイを見る。
険しい顔をして自分を見つめてくる相手に、きょとんとした無防備な顔を晒すこの男がとんでもなく異質なものに思えた。
ケディウスはこれまで人が自分に何か行動を起こした時は必ず見返りを求められた。それは金品の要求から肉体的な接触を求めるものまで様々だったが、どれも欲に塗れた胸糞悪いものだったのは違いない。
上等なブツを引っ掛けてその上この容姿じゃあ仕方がねぇな、と割り切れるまでさんざん不快な思いをさせられてきたものだが、このレイとやらは自分に何一つ求めない新しいタイプの人間らしい。
そんなヤツがいるものかという疑心とほんの少しの期待を持って、ほとんど投げやりで言った。
「抱いてやろうか」
反吐が出るような話だが、ケディウスの元にはそういう行為を期待する人間が男女問わずひっきりなしにやってくる。この男もそれが目当てかと疑ったが、彼の返事はケディウスの予想の斜め上を突き抜けた。
「抱くとは抱きしめることですか?遠慮します。男同士と言えども他人と密着するのはちょっと⋯慣れてませんので」
本当に嫌そうに吐き捨てたのだ。
ケディウスはたまらず笑い出した。
腹の底が痙攣して脇腹が痛み出してもまだ笑い続けた。
突然様子の変わったケディウスに訝しい顔を向けるレイは本当に何もわかっていないようである。それがまた何とも面白くておかしくて可愛いとケディウスは思った。
初めての経験だった。
よく考えたら最初から彼は自分に怯えてもいなければ興味すら感じない態度だった。こんな人間がいるのかと思った。同時に捕まえておかねばとも思った。
ぎらりと物騒な光を放つ深紅の双眼が細められ、常時固く引き結ばれていたはずの口の両端がつり上がっているケディウスを見て、レイは思わず後ずさった。
それは一般的には笑顔と呼ばれる表情筋の動きのはずなのだが、どうしてか不安を掻き立てられた。なんだか空腹時に美味しそうな獲物を偶然発見した肉食獣がやりそうな笑顔だと思った。
物騒を顔面に張り付けた男が口を開く。
「ひとつ聞くが」
「⋯なんでしょう」
「何で濡れてる?」
指摘されて、やっとレイはこの部屋に戻ってきた理由を思い出した。今の今まで忘れていたのだ。忘れ去られていたじとりと張り付く服の気持ち悪さが主張を始めた。
「これは⋯自分で水を引っ掛けてしまって」
喉から出たのは事実と異なるものだった。
ただ何となく、直感で、本当の事を言わない方がいいと思ったのだ。
ケディウスはその言葉に「へぇ」と短く返すだけで、それ以上掘り下げてはこなかった。
「では私はこれで」
胸のあたりがざわついてどうにも居心地が悪かった。こちらの心の中まで見透かしてくるような鋭い視線にこれ以上晒されたくなかった。
軽くなったトレーを持って部屋を出る。幸いにも引き止める声はかからなかった。




