一寸(ちょっと)だけ原付暴走時代
車など大嫌いの自分が、サーフィンがきっかけとなり原付バイクの免許を取ることになりバイクを手に入れた。しかし、いざ原付に乗ってみると僕の行動は思わぬ方向に向かってしまった。それは…
束の間の僕の青春グラフィティです。
僕のように海辺で生まれ育ったのであれば、何時でも海岸線を車で飛ばせたり出来て、さぞかし気持ちも良い生活だろうと人は思うかもしれない。確かに大多数の人にとってはきっとそうなのだとも思う。
でもね、残念ながら僕には当てはまらなかったんだ。何故なら僕は子供の頃から乗り物酔いが酷くて、車なんか大嫌いだったからなんだ。
子供の時分は我が家にはマイカーなんか無かった。多分、貧しかったからなんだと思う。なので急ぎの時はタクシーに乗った。でも当時はタクシーに乗る事はとっても贅沢なことだったんだ。そのタクシーこそ僕には最悪な乗物で、車内に立ち籠めるガス臭だけで吐きそうだったんだ。
バスに乗るのも一寸苦手だったけど、通った幼稚園がとても遠くて仕方なく毎日長距離路線バスで通ったんだ。そしてバスに乗ると決まって(軽く酔って所為なのか)直ぐに眠くなった。なので、しばしば乗り過ごしてしまったが、行きは幼稚園の最寄りの停留所は終点の1つ手前なので、乗り過ごしても歩いて戻れる距離だったのね。でも、帰りは寝過ごすと大変で、自宅の近くのバス停過ぎちゃうと延々遠くまで行ってしまうんだ。
1度、熟睡して40分以上先に有る半島先端の見知らぬ街まで行ってしまい、車掌のおばさんに起こされたら泣きじゃくって、大迷惑をかけてしまったらしい。それでも終点の車庫でバス会社のおじさんにジュースやお菓子を貰うとすっかり機嫌を取り戻し、帰りはただ乗りで車掌さんと一緒に車窓の海を観ながら歌を唄い帰ったんだ。そうしたら次の日、その事が何故か近所中に知れ渡っていて、朝バス停まで歩いていると、何人にも
「昨日バスで終点まで行っちゃったんだって」
と、声をかけられちゃうし、バスの中でも保険屋のおばちゃんが知っていたりと、とっても恥ずかしい思いをしたんだ。その後、小学生になってからも愉しい筈の遠足もバスに乗るのが憂うつで仕方なかった。そしてそのまま僕は大人になったんだ。なので当然ながら遠くへ行くにも車を避けて、専ら自転車お出掛けという生活が続いていたのだよね。
そんな僕が何故ある時仕方なく、嫌々ながらでも免許を取ろうという気になったのかと言えば、それはサーフィンを始めてしまったからなのだった。
サーフポイントへの道のりは、平坦な道ばかりとは限らないのです。家の近くのポイントなら歩いてでも、最悪自転車でボードを小脇に抱えてでも行けなくは無かったが、波は常にそこにあるものではなかった。波が荒れていればそれこそ長者ヶ崎や逗子大崎でも充分な波が立つ。
しかし、穏やかな海の日はその日のベストな波を求め湘南のサーファー達はそれこそ茅ヶ崎の柳島や大磯、更に遠くは湯河原町吉浜や、伊豆半島先端の多々戸浜辺りまでも彷徨うように出掛けて行くし、僕もそうだった。
そうなると自転車で行くには到底無理な話しで、どうしてもそういった場所へと出掛けるには酔うのを覚悟して車を持っている友人に頼み込んで便乗して一緒に出掛けるしか無く、それには友人の都合に合わせたタイミングでしか波乗りに出掛けられ無いもどかしさも有った。
なのでそういう日々は長くは続かなかったんだ。海に行きたい欲求はサーフィンのスキルの上達と伴に更にエスカレートして、ちょっとでも時間が出来ると、たとえ出勤前の早朝でも波にエントリーしたい欲求に駆られた。「俺は海に呼ばれている」…とか言っちゃって、それはもはや一種の病気みたいなものだったんだ。その突発的発作の我慢に限界を感じてきて、とうとう23才になったとき、自力でいつでも出掛けられるようにと、交通移動手段としてとりあえず原付免許を取る決断をしたんだよね。
当時は、サーファーの中には原付スクーターにサイドラックを取り付けて運ぶ奴らが出始めの頃で、ラックがなくてもショートボードならシートの上にサーフボードを載せお尻で挟んで運転する姿もよく見かけられるようにはなってた。スタイリッシュじゃないけど、僕も真似をすれば良いと、単純に考えたんだよ。
その原付免許は簡単に取れた。交通法規の本を数日間にわかに読んで知識を付け、一発合格!。そして、原付バイクはとりあえず中古のボロでもいいやと考え、近所のバイクショップへ出掛けていざ沢山おいてあるバイクを観たんだ。
それまでバイクなんて全く興味なかったので、初めて入ったそのバイクショップにはたくさんスクーターが店頭に並んでいたんだ。でも、中古は少なくて、赤色とかで気に入るものが無かった。それで、店内にある並ぶ新品バイクを観ちゃったんだ。そこには結構高額な原付バイクが並んでいたんだ。その金で新しいブランドボードが1枚買えるよなあとか思いながらね。そして一番高額の原付バイクは一段高いガラスのケースに包まれていたんだ。僕はそれを見た途端にだよ、元来気が多くて浮気者気質の僕の目は、中古のスクーターなどそっちのけで、そのスタイリッシュな本格的レーシングスタイルのバイクに目を奪われてしまったのですよ。そして衝動買いも良いところで、とうとうその高価な新品バイクを買ってしまった!。正に本末転倒もいいところだったよ。
僕が手に入れたのは「カワサキAR50 レーシングリミテッド」というマシンだった。原付とは言いながら、そのフォルムは本格的でとてもスタイリッシュ。そしてその当時の原付はエンジンにリミッターも着いていなかったので、そのマシンは原付のカテゴリーを超え、最高速度は約90㎞/hも出たんだ。
又、当時は原付のヘルメット着用も義務化されていない時代であり、僕は買ったばかりのARに乗り、サーフィンそっちのけ、毎日のようにノーヘルで三浦半島の海岸線を気持ち良く飛ばし廻った。仕事のある日でも、出勤前、早朝の半島1周など正に朝飯前たよ!。小一時間で帰ってこれるし、起伏の多い半島先端部も自転車と違って苦労なく走り回れる。ついでに三浦の農家直売の朝もぎ野菜を買ってきたりしてね、そして僕はその快感に酔いしれ、移動範囲を大きく拡げて遠出をするようになってしまった。
休日の昼間、波が穏やかでサーフィンに向かない日には良く箱根へと出掛けたんだ。湘南のバイパスは原付では通ることは出来ないけれど、海岸線のR134やR1を、ノーヘルで飛ばし風を受ける気分は最高だった。国道1号を使ったり、「七曲がり」といわれた旧街道、或いは真鶴、湯河原からの大観山越えの芦ノ湖等、バリエーションも豊富で、海とは違った清涼感ある空気が好きだった。そして時間が余裕ある時は横須賀久里浜からフェリーで東京湾を房総へと渡り、山越えで鴨川へ、そこから海岸線を白浜や平砂浦、館山を回って帰ってくる等もしたよ。
又、夏の夜は田舎道路沿いの照明の下を目指しクワガタやカブト虫を探し廻った。一時間ほどで数十匹のカブト虫と、数匹のクワガタを拾い集め、近所の子供達に配ったりもしたよ。
又、鎌倉由比ヶ浜まで足を延ばせば当時は24時間営業の海の家も2軒あったので、そこで友人達と待ち合わせして夜中に騒いだり花火をしたりと、本当にそれまでとは一変した生活スタイルも手にも入れられたんだ。
ヘルメットはちゃんと持ってはいたけれど、殆ど被ることはなく専らARのサイドホルダーに装着したまま走っていたんだ。そうしたら1度箱根を目指していた時に小田原の国道1号でパトカーに止められて、「ヘルメット持っているのに何故装着しない」と、お巡りさんから10分以上もその危険性について説教を喰らった。その場ではそれもそうかと考えて、箱根のカーブの続く山間部等ではヘルメットを被って走行したものの、やはりその窮屈感に耐えられず山を下れば再びヘルメットを外して帰ったものだった。
一番遠くは湯河原から大観山へと昇り芦ノ湖畔を流して箱根を越え、乙女峠から御殿場へと降りて、その後篭坂峠を越え富士五湖を巡り富士山を1周して帰ってきたり、東京の奥多摩まで行き、鍾乳洞を観に行ったりしたのも思い出かな。本当に愉しかったよ。
そして苦い経験もあるんだ。1度帰りが真夜中になり、横断歩道手前の信号停止中に引き込まれるようにそのまま寝てて、パトカーの警察官に起こされた時も有った。そしてある時、ついに警察に捕まった。
その日は夜の東京六本木の飲み会に誘われてて、僕は三浦半島の自宅から六本木まで片道二時間超の一般道を、原付で飛ばして参加した晩だった。何故原付で六本木まで行ったのかと言えば、それは飲み会には特に陽気な仲間達が集まるので恐らくは「午前様」となると見込まれたからで、遠い三浦半島の田舎から参加するとなると、当時の京急の終電は品川駅発が23:14であったので、僕は自宅にへは電車では当日帰ることはまず無理な事で、そうなると翌朝の朝帰りになってしまう事になる。当時の僕にとって、朝帰りをすることはとても不良な行為なのでどんなことが有っても夜明け前に帰宅し、蒲団に潜ることがポリシーだったからなんだ。そして、僕は全く酒を嗜まないので飲み会に参加しても飲酒運転になることは絶対にない自信も有った。
そして当日、僕は夕方から原付を飛ばし、R16、R1を経由して六本木へ行った。夜8時過ぎから愉しいコンパは始まったんだ。時間は過ぎ、案の定その飲み会は0:15頃に終わったのだ。当然、僕は酒など一滴も飲んでない。都内在住の仲間達は地下鉄や山手線の終電に乗れる時間で散会、その後地下鉄で帰って行った。一部の友はその後新宿へと流れるのでタクシーに乗り込んだ。僕にも誘いをかけてくれたけど、やはり翌日の仕事を踏まえてそのまま帰ることにしたんだ。エンジンをかけて帰路に就く。甲高いエンジン音を唸らして走って行く。五反田を経由して国道一号線を南下し、そして家を目指していた。眠気は有ったが、自宅に帰る事に頭の中は集中していた。…そしてその真夜中の帰路で事件は発生するのである。
神奈川県内に入り、川崎市を過ぎ横浜市鶴見区に入った所で、僕はいきなり後ろからサイレンを鳴らされパトカーに捕まったのである。走行速度が77キロメートル、つまりは47キロの速度超過だった。当然、赤切符を切られたのだ。僕にとって、生涯で初めての交通違反が、一発免停だ!。後日、僕は裁判所に出頭し、高額の罰金を払わされ、更に別の日に運転免許試験場で講習を受ける羽目となったのだった。僕は大層気落ちしてしまい、その日以来僕はちょっぴりだけ原付への情熱は醒めてしまったのだった。
所でサーフボードの移動は、何処へ行った?…実は、僕はその原付でミニリヤカーを牽引してボードを運べば良いと浅はかに考えていた。交通規定では原付の車幅から、両側15センチメートルしかはみ出せないが、長さの規定はなく、細長いリヤカー状のボックスを牽引してそこにボードやウエットスーツを乗せて移動しようかと考えたのである。が、サーフショップの店長は「そんな奴は見たこと無いし、それにダサいだろう」と言い、バイクのショップも、「それはとても危険だ。やめておいた方が良いよ」と言う。警察署にも具体的に相談をしたものの、「交通法規上は許されるが、交差点を曲がるときなど危険極まりないので、やめておいた方が良いし、やめてほしい」と掛け合わない。そして、サーフボードの移動手段としての原付利用は、1度も叶わぬうちに断念したので有る。
そして飽くなき欲張りの僕は、原付の遠出の楽しみと伴に、サーフィンも充分に愉しみたいと考えあぐね悩みに悩んだ末に…大嫌いだった車に仕方なく乗ることに決めるのだった。
その翌年、僕は車の免許を取りに動いた。仕事の合間に自動車学校へと通うのは本当に大変なことだった。それでも持っていた原付のお陰で学校までいつもギリギリ飛び込んで、約5カ月間をかけてやっとの事で卒業したのだった。その後日、試験に合格して免許を取得した。その時手に入れた車は中古のイエローボディーのサニーカリフォルニア。限られた予算で買った宝物のような車だったよ。
車を手に入れてから、僕はソロでサーフィンに出掛けるようになっていった。ガソリン代はかかるけど前日の深夜から遠出して、海辺の現地で仮眠、夜明け前に海に入るサーフィンスタイルが好きになった。特に透明度が高い南伊豆の多々戸浜の海の上で夜明けを迎えるのが最高の気分だったよ!。仮眠の用具とか躰を洗う水タンクとかウエットスーツやら、手袋やらのギアも増えて荷物が多くなっても車なら安心。使い勝手も良くて数年間錆だらけになるまで乗り回したよ。
その上、不思議なんだけどさ、いざ運転を始めてみると、車酔いになることは無くなっていき、そして波待ち中の酔いも軽くなってきたんだ。僕には良い治療薬代わりになってたんだと思っている。
話しは戻るけども、原付は頻度は減ったけれどもそれでもそこそこ乗り回したよ。でもその翌年になって、急に交通法規の改正が行われて原付のヘルメット着用が義務化されてしまったんだ。すると、そこまで愛した原付に急に愛着や執着心が薄れていった。自分の生活サイクルの中からすっかり忘れ、外にほっぽり放しにしてしまった。やっぱり僕は、げんきんなものなんだな。そうしているうちに時は少し流れた。そのスーパー原付は庭の端っこでいつしか錆びて朽ち果てていた。そうして僕の束の間の原付夢中時代は幕を閉じ、僕の人生史から静かに消えて行くのであった……