鳴早さんのは黒魔術じゃない
おどろおどろしい黒髪の隙間から、にたりと笑う口が見えたのはつい最近の事だ。
──とんでもない女に目を付けられた!
黒金正弘は、その我が目を疑うような光景に、ぐっと溢れ出る恐怖をこらえた。
──黒魔術だ。
人形に名前を書いて釘を打つ女の姿が黒金の脳をかすめる。
女がゆるりと拾い上げたその消しゴムには、確かに黒金の名前が記されていた。
呪われる。
第一感、黒金の心には恐怖の色が広がった。
自らの足下に落ちた消しゴムすら拾い上げられない程に黒金の体はいうことをきかず、そして未知に対する恐怖心が細く伸びる影のように、するりと黒金の体を覆った。
「…………」
呪われた日本人形のような髪を隔て、黒金は奇妙な女──鳴早なつきと対峙した。
静寂が放課後の二人だけの教室を支配する。
消しゴムは鳴早の手に収まり、そしてポケットへと消えた。
「……あ」
と鳴早が何かをいいかけたところで下校を促すチャイムが鳴った。
驚いた鳴早は肩を強く跳ね上げ、そして逃げるように走り去ってしまった。が、走ってまた現れ、机に下げていた鞄を手に取りまた消えたのだった。
黒金が手にしていたグラスの炭酸が消えかけた頃、クラスメイトで友人の速水陵介が「どうした?」と声をかけた。
速水家で発売されたばかりのゲームに興じていた黒金と速水だったが、黒金が心ここに在らずといった加減だったので、速水が不思議そうな顔をしたのだった。
「なあ」
手なりでコントローラーを操作しながら、黒金は問いかけた。
速水の返事はない。少し顔を傾け、無言で続きを促す。
「消しゴムに名前を書くとどうなるんだ?」
黒金の言下に速水は口にしていた炭酸を吹き出した。
慌てておしぼりで拭き取るが、カーペットに出来た染みは既に大きかった。
「な、なんだなんだ急に!? 乙女かお前は」
口を拭いた速水が黒金の顔を見る。
黒金は困ったような顔をしていたが、それが何故なのかは速水には分からなかった。
しかし特に気にするでもなく問われた質問に答えることにした速水はポテチを一つ口にした。
「あれだよあれ。書いて一カ月誰にも見られなければ」
と、そこまでいった速水の言葉を、黒金は「やはり死ぬのか!?」と遮った。
困ったような顔の次は落ち着きのない焦る顔だ。
もはやゲームどころではなくなった黒金は、頭を抱えながら「ヤバいヤバい、帰るわ」と立ち上がり速水に別れを告げた。
「……死ぬのか、あれ」
速水は一人、不思議そうに呟いた。
翌日、黒金は寝不足な目を必死で洗い、何とか意識を奮い立たせていた。
しかしすぐに眠くなり、リビングのテーブルでパンに顔を突っ込ませ、寝てしまった。
──朝のニュースです。
──今時の流行はコレ!
──乙女座のラッキーアイテムはアロマキャンドル。
──七時半をお知らせします。
「七時半!?」
黒金が慌てて顔を上げる。
パンには黒金のデスマスクがくっきりと写っており、顔はマーガリンでべったりと汚れていた。
「母さん起こしてよ!!」
「知るか!!!!」
より強い怒気を纏った母の一声に蹴落とされながら、黒金は家を飛び出した。
世界新で走ればバスには間に合う。そんな時間帯だ。
「間に合え俺!」
気休めにもならない声で停留所へと辿り着いた黒金は、誰も居ないベンチにそっと座った。遙か遠くにバスの影が少しだけ見えた。
「オワタ」
ゆったりとした足取りで校門をくぐる黒金。時刻は既に九時を回っている。
土井中県のバスは、そう優しく出来てはいない。むしろ三十分に一回でもまだ親切な方である。
「ホッタイモイジンナー!?」
エセ英語教師の原田が黒金の背中に声をかけた。
「バスが俺に恐れをなして先に行ってしまいました」
ポマードがキツい原田の目が鋭く光った。
遅刻につけ込んで普段の鬱憤を晴らしてやる。そんな顔だ。
「……すみませんでした」
黒金はこういう時、何より先に謝る事を最近ようやく覚えた。
「気をつけるように」
黒金がさっと頭を下げた。
心の中で、そこは英語で言わないんかい。とツッコミを入れる。
原田がゆったりとした足取りで廊下を進み出した。そして見えなくなった頃に、ようやく黒金は頭を上げてポマード臭い廊下を歩いたのだった。
教室はもぬけの殻だった。
いや、隅の方に一人、ロッカーを漁る人物がいた。鳴早だ。
「──!?」
昨日の今日で呪い殺されると思った黒金が咄嗟に身構える。
鳴早の顔はぼさぼさの髪の毛で覆われており、その表情は覗うことは出来ない。
よく見ると、鳴早の手には錆びた釘と黒い粉が入った袋が握られていた。
黒金はそれに気が付くと、真っ先に丑三つ時の五寸釘を思い浮かべた。
そして自らの心臓へと手をあてがった。
──やはり呪い殺される。
黒金はそう確信した。
そして次の鳴早の言葉で、その確信は揺るぎないものとなる。
「……はよ……しね」
黒金の意識が一瞬消え失せそうになり足がふらついたが、ぐっと伸ばして踏みとどまる。
黒金はこれ以上関わっては命が持たないと、慌てて走り出した。
机にぶつかり何かが落ちる。鳴早の机だ。
不気味な形をして青いが、しかしそれは確かにロウソクだった。
「うわぁぁぁぁ!!!!」
もう丑三つ時の頭に着けるロウソクにしか見えない黒金は、一心不乱に走り続けた。
「ロウカヲハシルナ!!」
エセ現代文教師のジョンソンが黒金に声をかけたが、黒金は聞く耳も持てずに走り去ってしまった。
おはよう、遅刻なんて珍しいね。
そんな言葉で彼が何故そこまで取り乱したのかは、直接聞くしか知り得ない答えだった。
彼がぶつかり落としたアロマキャンドルをポケットへとしまい、急いで後を追いかける。
道中で理科の実験で使う鉄釘と活性炭を理科室へと置く。
窓から彼が走り去るのが見えた。
自己ベストで走ればまだ追いつくだろうか。自信は無いがやるしかない。
「待って……!」
伸びた前髪が鬱陶しい。
人と話すのが苦手でなるべく見られないようにと伸ばした前髪を、ヘアピンで留めて視界を確保する。
「トマリナサーイ!」
不法滞在現代文教師のジョンソン先生が止めようとしたが、するりと躱してそのまま後者を後にする。
後は見失う前に捕まえるだけ。それだけだ。
「…………」
彼は意外なほど簡単に見つかった。
校舎近くで黒猫に囲まれて顔を酷くなめられていたのだった。
「んほぉぉぉぉ!!!!」
猫の舌はざらざらとしており、それが十匹以上同時に顔をなめているのだ。正直その光景は異様だった。
「わ、ワン……!」
犬の鳴き真似をすると、黒猫達は一匹残らず瞬く間に消え去った。
残ったのは無残にも顔をやられた彼だけだった。
そっと近づくと私に気が付いたのか、驚き狼狽えている。
「だ、誰!?」
私はそっとポケットからアロマキャンドルを取り出した。
彼にあげるために作った、オリジナルのアロマキャンドルだ。
「ひえぇぇぇぇ……!! な、鳴早……!?」
何故か怯える彼。どうやらかなり動揺しているようだ。
「その顔はなんだ!? 悪魔と契約したのか……!!」
ここでようやく前髪の事を思い出し、慌ててヘアピンを外した。彼の前で取り乱してしまい、凄く恥ずかしい。
「…………し……よ」
「──死!?」
彼が白目をむいて倒れた。
口からは泡が大量に吹き出している。泡風呂が出来るくらいにだ。
彼が目を覚ましたのはお昼過ぎだった。
どうやら空腹で目が覚めたらしく、何故自分が保健室で寝ているのかと不思議に頭をかしげている。
「あ、あの……」
声をかけると彼は酷く驚いて、ベッドの中に潜り込んでしまった。
ヤブ医者上がりの養護教師である上原先生が、慌てて彼の様子を覗った。
「ど、どうしたんだい!?」
「先生! 俺呪い殺される……!!」
彼が突然不思議なことを言い始めたので、上原先生と目が合った。お互いに訳が分からないといった様子だ。
「なんのことだい?」
優しく問いかけた先生に、彼は「鳴早が消しゴムに俺の名を──!!」と叫んだ。顔があっという間に赤くなったのは、いうまでない。
先生が此方の方を見て無言で真相を伺った。
そして無言で頷いた。
一呼吸おいて、先生がくすりと笑った。
穴があったら入りたい。そんな気分だった。
「とりあえず落ち着け。呪われたりはしないよ」
先生の声でようやく落ちつきを取り戻し始めた彼に、私はヘアピンを取り出して前髪を押さえた。
「あ、あの……」
「ひ──」
叫ぼうとした彼の口を先生が押さえた。
目で離せと訴える彼だが、先生は意に介せず此方に続きを促した。
「その……あの……」
「私はどっか行った方が良いかな?」
「いえ、いて下さい。居て貰えると助かります」
「そうか、頑張れ」
ポケットからアロマキャンドルを取り出した。
形は悪いが今までで一番の出来なのだから仕方ない。
「これ……良かったら、その……アロマキャンドル……です」
「──ん?」
眉をひそめたのは彼だけだった。
「お、お誕生日……だよね?」
先生が押さえてた手を外す。
彼はもう大丈夫なようだ。
「そういえば……」
そっと伸ばした手からアロマキャンドルを受け取ると、彼は不思議そうにそれを眺めた。
「五寸釘と謎の黒い粉と謎の黒猫でパニクって、俺……」
五寸釘。謎の黒い粉。
どうやら彼は理科の実験道具の事をいっているようだ。
「あれは酸化還元の実験道具で」
「えっ? そうなの……」
あっけらかんとした彼の顔は黒猫になめられすぎて色が変わっていた。
「どうせ朝猫が好きな物でも食べたんだろ?」
「あ、マーガリンに顔突っ込んでそのままだった」
納得した顔で此方を見る彼は、申し訳なさそうな目をしていた。
「ごめんなさい。私が消しゴムに黒金くんの名前を書いたから……」
「あれは?」
「知らないのかお前?」
と先生がにやけながら聞いたが、彼は首をかしげるだけだった。
「消しゴムに好きな人の名前を書いて一カ月バレなければ両想いになるおまじないだよ」
咄嗟に顔を隠したから、彼がどんな顔をしているのかは分からなかった。
ただ沈黙だけが訪れた。
指の隙間からそっと彼を見た。
彼は瞬きを何回もしていた。
訳が分からない。きっとそんな感じだろうか。
「いや、そ、それは……う、嬉しい、な」
彼が言葉を詰まらせながらこたえた。
ゆっくりと手を外し、彼を見る。
「まさか鳴早がこんなに可愛い顔をしていたなんて、知らなかったよ」
またもや顔を隠したくなったが、ぐっと手を握り抑えた。
「それで……俺で良ければ……よ、よろしく……」
先生が私の背中をぽんと叩いた。
真っ白な世界がやってきて全てを包み込む。
嬉しい。
その一言につきた。
「……ありがとう」
そっと彼に寄り添った。
鼓動の高鳴りが伝わるように。
とても強く寄り添った。
「浮気したら呪うからね?」
彼の乾いた笑いだけが返ってきた。