8月5日(フェラーラ公国の小さな港町)第1章
アルフォンソ デステは16才、生涯最初の旅に出た。時は西暦1492年の夏だった。
従者は5人、父ジェラルド、子ガレツォのマルキージオ親子とジェラルドの部下の3人の優秀な戦士。
フェラーラ公国の嫡男アルフォンソ デステの旅装にしては少ないようだが、公爵エルコレの腹心の部下であり歴戦の強者のジェラルドと彼の選んだ3人の戦士ならば1個中隊を従えているようなもの、何も不安がる事はなかった。
しかも、行き先はフェラーラ公国内の各地の視察だ、次期当主として領内を直に見て回るという、統治デビューと言ったところ、たいした心配はなさそうなのだが、息子を送り出す父エルコレ公爵には不安があった。
彼の嫡男は風変りな少年だったのだ。
公爵の父は出発前にくどくどと旅行における注意をした。品位のある立ち居振舞いをする事、気ままに行き先を変えぬ事、金をむやみに使わぬ事、忠臣父マルキージオの言う事を聞く事。
大人しく話を聞くアルフォンソも、公爵も、この注意が守られないのは予想していた。
「海が見えるぞ。」
誰よりも早く馬を進めていたアルフォンソは、地中海をのぞむ丘に着いていた。
「船も見えます、中々大きな船ですね。」アルフォンソに追い付いた主人と同い年のガレツォ マルキージオが港に入っていた帆船を見つけた。
「ジェノバの船ですな、この様な小さな港町では商売にはならないでしょう。水や食料を積みに寄ったのかもしれませんな。」
白地に赤い十字の旗を見て父マルキージオが言った。
「おもしろそうな物を積んでいるかもしれないぞ。ようし、見に行くぞ。」
アルフォンソはもう駆け出している。やれやれと溜息をつくと、忠臣マルキージオ達は港町に向かった。
このフェラーラ公国はイタリア半島の北部にある。
ルネッサンスのイタリアはフィレンツェやナポリ、ヴェネチア等の国々に分かれていた。
フェラーラはそれほど大きく有名な国ではなかったが、治安も安定し豊かで住みよい国だった。この国を治めるエステ家が、学問や教養を重視し、おだやかな政をしていたからだ。
アルフォンソの兄弟も、姉たちも、学問を学び、絵画を楽しみ、音楽に親しんだ。
貴族の教養なのでそれなりの上達で良しとするのに、アルフォンソだけは違った。興味のある事にはのめりこみ、ないものはおざなりだ。ガリア戦記を愛読し、聖書は読まない。宮殿での社交は苦手。機械の仕組みや動かし方に夢中になり、自分専用の工房を作り、服を油で汚しながら旋盤で鉄を削ったり、仕組みを見ようと、バラバラに分解したりする。
音楽も家族で合奏するなどとかわいい物でなく、困難なフレーズを何度も繰り返し練習し、新しい楽譜を集めたりした。
こういうところが父公爵には不安を感じてしまうのだが、剣の扱いや馬の稽古、そして戦いに通じる狩り、こちらも熱心に励んでくれるので、君主としては頼もしくもあり、評価できるとも考えている。
この旅が君主としての自覚を芽生えさせてくれれば、エルコレ公爵は祈っていた。
そこは漁村程度の港町だった。やはり商売ではなく水などを船に積み込んでいる様で、アルフォンソの好奇心を心配していたジェラルドはほっとして、船をうらやましそううに見ているアルフォンソの隣に馬を進める。
「アルフォンソ様船内を見るのは無理でしょう。さあ先を急ぎましょう。」
ところが、ジェノバの商人はこの様子を見ていた。
一行の質素な麻の服の仕立ての良い事、馬もたくましく毛並が良い事、守られる様に囲まれている少年のいでたちが品のよさを感じさせる。これは金になる。
「どうぞ、ご覧になって下さいまし。黒海を回り、コンスタンティノープルで積み込みをし、ヴェネチアにも寄りました。東の国の絹、北の国の時計や武器、南の国の真珠や金。たっぷり仕入れてこれから売りさばくところ、今ならよりどりみどりでございます。」
商人はアルフォンソをターゲットにしぼりすり寄ってきた。
もちろんアルフォンソは二つ返事だ。渋い顔のジェラルド達を引き連れて船に乗り込んだ。
薄暗い船倉の中は荷作りされた品物で埋め尽くされている。商人はアルフォンソの気を引くであろう商品をあわててほどいて並べ始める。美しい宝石、真珠、絹。しかしこれには無関心。それではと武器や甲冑の箱を開ける。これにはジェラルド達が集まった。
「父上、この剣はちょうど重さがあって、今のよりも戦いやすそうです。」ガレッツォの剣はまだ少年用で彼の体格のわりに小さかったのだ、この大剣を持てばいっぱしの剣士らしく見える、ぜひとも欲しい。
銀色に輝く帷子や、黒光りする鉾、戦士達は手にとり具合を確かめだした。商人は次々に品物を取り出す、と、そこにフランドル地方のヴァイオリンが出てきた。
それを目ざとくみつけたのはアルフォンソだ。軽くはじいて響きを確かめると、弦をはり奏でだした。船倉の中は狭い、ヴァイオリンの音は響きわたり、軽やかなメロディーが流れ始める。父公爵をあきれさせるほどの腕前だ、皆しばらく聞き惚れていると、奥のほうでガタンと音がする。
薄暗い木箱が積みあがった隙間から、ふらりと人影が現れた。
黒い髪の少女だった。