第4話 夏の始まり
それからまた数日が経ち、七月になった。うっとうしい梅雨空の中、やはり学校に行くのは苦痛である。去年よりいじめられることは減ったとはいえ、教室、廊下、体育館、いろいろなところで僕に対する嫌な視線が向けられる。だけど、いちいち気にしていたら埒が明かないし、なおさら怪しまれる。
視線は気づかなければ突き刺さらない。そう思ってとにかく前だけを見て過ごしていた。
その日の放課後、図書室で日々の日課となっている読書が始まる。この前借りた小説の続きを読んでいて、もうラストシーンになる。倒すのに大苦戦したラスボスを撃破し、世界に平和が訪れる。まさにそのシーンを読み進めていた。続きが気になり、どんどん先へ先へ進んでいく。
だが、いきなり後ろから引き戻された。現実に。
「ねえねえ、卯花くん」
「な、なんですか」
一瞬怪訝な顔をしながら振り向くと、図書委員の風馬さんが立っていた。少々申し訳なさそうな顔をして。
「ちょっと時間いいかな。話があるんだけど」
「は、話……?」
「すぐに終わるから。ごめんね。隣座っていいかな」
そう言って風馬さんは隣の席に座った。彼女はまた難しそうな黒い本を持っていて、台の上に置いた。この前会ったときはケガをしていたけど、すでに治ったようだ。
「話って、何ですか?」
「卯花くんって、卯花神社やってるでしょ?」
「え? ま、そうですけど」
どうして知ってるんだ?
「やっぱり。名前からそうかなって思ったの」
「まあ、確かに僕の苗字は神社から取ってますが……」
「卯花神社って人魚伝説で結構有名なんだよね」
「人魚? あの魚と人間がくっついた妖怪のことですか?」
「うん。でも、八百に伝わるのはその肉を食べた女の人の話」
風馬さんによると、今から千五百年以上前の古墳時代。八百周辺を治めていた豪族が近隣の国に呼ばれ、その時に人魚の肉を授かった。持ち帰ったときに豪族の娘が人魚の肉を食べてしまい、不老長寿の体になってしまう。娘は尼さんとなって日本全国を旅し、困った人を助けながらなんと八百年も生きたらしい。
「つまり、室町時代まで生きたってこと?」
まあ、伝説だしそんな話があってもおかしくないよな。
「そう。それで、尼さんは最期に卯花山にあるという洞窟に身を隠し、往生を遂げたってわけ。卯花くん、聞いたことない?」
「え、あ、あります」
その話は小さかったころ、亡くなったおばあちゃんの昔話で知った。尼さんは比丘尼さまといって、人々に恵みと慈悲を与え、八百の人からたいそう慕われていたらしい。でも、この話は卯花神社のいわれと似ているような……。
「そうね。そして、比丘尼さまは卯花神社に祀られてるの」
「まさかそれって、ビクニさまのこと?」
「ま、名前も同じだしそうかもね。それで、キミにお願いがあるの」
「お願い?」
風馬さんは僕に目を合わせると、じっと僕を見つめた。
僕の体はなぜか硬直した。図書室に響いていた環境音が消えた。逆に僕の心臓の拍動が大きくなり、鼓膜を揺らし、胸を内側から叩いた。
風馬さんの口がゆっくりと開く。
――今度神社に、行っていいかな。キミと一緒に
風馬さんから放たれた言葉。それは彼女にとっては普通のことなのかもしれない。だけど、ぼっちだった僕にとって衝撃的な言葉だった。
「風馬さん、今なんて……」
「え? 来週から夏休みでしょ? その時にキミんとこの神社に行きたいの」
「風馬さんの知り合いが病気で……とかじゃなくて?」
風馬さんは一つ頷く。
「この前郷土史の発表会のこと話したでしょ? でも、人魚のこと調べていくうちにもっと知りたいって思ったの。それで夏休みの自由研究にしようって思って」
「そうなんですか……」
「卯花くんのとこって資料とかあるでしょ? できたら見せてほしいんだけど、いいかな」
確か、社務所にあったと思うけど……。でも、神社のことはおじいちゃんに聞かないと。
「また聞いてみるよ」
「やった! ありがとう!」
風馬さんは嬉しそうに微笑んでいる。ちょっと面倒なことになったなと僕は内心思った。思わず後頭部がかゆくなる。
だけど、この風馬さんの言葉が僕たちの壮大で、一生忘れられない夏休みの始まりになるなんて、今は思いもしなかったのだ。