She Wolf
ホテルのチェックイン締切時刻は24:00だ。わたしは焦っていた。
サンタルチア駅から約20分歩いてきた。地図を見ると、この付近にベニスラグジュアリーがあるのは間違いない。今まで一度も道を曲がらずに、閉まっている店々の前を通り、ちいさな橋で運河を何度も渡ってここまで来たが、今は途方に暮れていた。
おそらくこの裏路地にあるはずなのだが、看板が見つからない。それならば、一度も曲がらないと言っていた運転手の彼を信じると、この表通りのどこかにでもあるのだろうか。
今は23時半だ。時間がない。
わたしは現地の人にホテルの場所を聞くことにした。
家だか店だか分からないおしゃれな建物から出てきた男性に尋ねるが、地図とホテルの場所を見せるも、面倒くさいのかよく見る前から「分からない」と言われてしまった。
少し歩いたところに、日本でいう出店のように、イタリア式バーのお店が出ていた。近付くと、聞いたことのある曲が流れている。Siaがフィーチャリングしている『She Wolf』がバーの雰囲気をさらに洒落たものにしていた。店員と思われる一人にホテルの場所を尋ねるも、英語がよく分からないようで伝わらなかった。
真夜中だからか、女性がどこにもおらず、道を通り過ぎる人が男性ばかりなのも、何だか心細い。
すると、深夜に犬を散歩させている中年男性を発見した。すかさず聞いてみる。
「すみません。ベニスラグジュアリーというホテルがどこにあるか知っていますか?」
「ベニスラグジュアリー?聞いたことないな」
「この場所にあるはずなんですけど...」
わたしは彼にiPhoneで地図を見せる。
「うーん、確かにこの近くみたいだね」
彼は画面をズームさせたりして確かめてみてくれるが。
「ここらへんにそんなホテルあったかなあ...。うーん、ごめん、分からないや」
どうしよう、今晩泊まるホテルが見つからないなんて。今は23:45。あと15分しかない。
不安が募る。
すると、彼は何か閃いたのか、突然This wayと言いながら手招きし歩きはじめる。わたしは少しためらったが、彼と犬に付いて歩いていく。
「もし君がよければだけど...」
彼は一軒の家の前で立ち止まり、そのドアを開けた。
家の中はソファがあったり、ふかふかのラグが敷いてあったり、奥にキッチンが見えたりと、あたたかい家庭の雰囲気。
「僕の家なんだけど、入る?」
さらに、You can stay here. 泊まっていいよ、の声。
ーーびっくりした。こういう展開は予想していなかった。
怪訝そうな顔をしていたのか、彼は笑って付け足した。
「奥さんもいるから、安心して」
確かに、奥のほうで女性の声が聞こえる。
相手のほうからそんなことを言ってもらえるとは予想していなかったけど、わたしは確かにこういう展開を期待していた。
ベニスラグジュアリーは三泊しか予約していないのだ。そのあとどうするのかは、帰りの飛行機もとっていないし、まったくのノープランだった。
わたしは頭のどこかで、この旅で親しくなった人の家に泊めてもらうという展開を待っていた。日本には帰れないから、なるべく長くベネチアにいるために。
いま、その望みが叶おうとしているのではないか?
「あ、ありがとう。でも...」
でも?
どうしてわたしはそんなことを言うのだろう。
「...もう少しだけ、探してみます」
「そうか。見つかるといいね」
彼はまったく気にしていないように、笑顔で言葉を続ける。
「......ベネチアに滞在中、気が向いたら来るといいよ。僕の家は動かないから」
わたしもつられて笑顔になった。
「本当にありがとう」
遠く日本を離れたヨーロッパの国イタリアで、地球上で、わたしの居場所がひとつ増えた気がして、嬉しくなった。
家を紹介してくれた彼と別れて、さて、ふりだしに戻る。
けれどさっきと違うのは、ホテルが見つからなかったとしても泊まるところがあるという安心感があることだった。
そういえば、ここまで来るときに、石造りのちいさな橋に、人待ちだろうか男性が一人立っていたのを思い出す。ここらへんの人っぽい彼に聞いてみよう。
橋の天辺で、すみません、ベニスラグジュアリー知ってますか、と聞くと、やはり分からないと返ってくる。
まったく、どんだけマイナーなホテルなんだ。
「君、ホテルの住所は分かる?」
「はい、分かります」
「住所に数字がついてるでしょ?その数字が、ドアに書いてあるから、探してみるといいよ」
これは新しい有益な情報だ。サンキューと言って彼と別れ、さっそく住所についている数字・2286を探すことにする。
すると程なくしてドアの上に書かれてある数字・2281を見つける。
次に2283の建物を見つける。だんだん数字が近くなる。
誘われるように、先ほどの薄暗い裏路地に入ってゆく。
少し歩くと、それはあった。2286だ!
この建物は先ほどわたしが目星をつけたものの、Gから始まるイタリア語の看板が付いていたため、ベニスラグジュアリーの建物ではないと判断したものだった。
けれど、よく見るとドアの右部分にも何か小さな文字が書かれているではないか?
目を凝らして見てみると、確かに、そこに刻まれているのはVeniceluxuryの文字だった。
わ、分かりにくっ!
わたしはもう迷わずにドアのベルを押した。
しばらくすると、カチャッと音がして、ドアが解錠されたのが分かった。
恐る恐るドアを開けると、すぐに階段がある。階段を上っていると、頭上で「Come here」と言う男性の声がした。
彼について2階の部屋に入る。ここがロビーのようなところだろうか?日本でサイトを見て予約したのは激安のドミトリーだったので期待はしていなかったが、ベニスラグジュアリーだなんて、完全に名前負けしていると思った。
チャオと挨拶してくれる、やや小太りで穏やかそうな顔立ちの彼が、このホテルのスタッフだ。
挨拶して名乗ると、ようこそ、待ってたよと言われ、ホテル内の案内が始まる。
「まず、ここが共用のトイレ兼バスルーム。使うときは鍵をかけてね」
もちろん、バスルームに浴槽はなくシャワーのみだった。
「こっちのほうは男性用のドミトリーがある。それから男性用のバスルーム。そして、この部屋が女性用のドミトリーだ。三人部屋だよ」
もう12時になるところだから、宿泊客はみな眠っているのだろう。彼はドミトリーのドアを開けなかった。
「そして、ここが共用のキッチン兼、みんなのくつろげる場所になってるんだ」
この部屋はかわいらしく素朴な感じだった。
その後、チェックインの手続きをして部屋の鍵を貰い、彼と別れた。
女子のドミトリーに入る。鍵はかかっていなかった。部屋は電気がついておらず真っ暗だ。三つベッドがあって、二つは埋まっているようだった。
もう夜分遅いし、シャワーは明日でいいや。一日中移動で疲れた。着替えるのも面倒くさいし、ごそごそと動いて彼女たちを起こしてしまったら申し訳ない。このまま寝てしまおう。
なんとか寝床につけてホッとするが、眠れない。飛行機で寝たからか、初めてのベネチアで興奮しているからなのか。
今日はとにかくたくさんのことがありすぎて、充実していた。子どもの頃からの憧れの国に行く勇気がやっと出せて、ベッドの中で達成感に浸っていた。