Begin
乗り継ぎ地点であるロシアには空港のなかにしか滞在できないが、それでも存分に異国を感じることができる。
日本でならお客様として丁重に扱われるはずの乗客たちが、金属探知機を振りかざす、縦にも横にも大きい女性空港職員にぞんざいに扱われている。彼女は探知機に引っかかった乗客たちに、無言で指をさし、回れと指示を出す。
わたしはロシア人と思われる男性に続き、探知機のあいだを通過した。
当然のことながら、空港内に日本語の表記はない。英語の表記をなんとなくで理解し、搭乗ゲートの40番に到着した、はずだった。
椅子に座って何分待っても、搭乗手続きが始まらない。このままでは出発時間が過ぎてしまう。
わたしは40ゲートにいた女性のグランドスタッフに、拙い英語で尋ねようとしたが、「すみません」と言った時点で「今忙しいので」と一言言われ、片手でしっしとあしらわれてしまった。
仕方ないので再びしばらく待つが、まだまだ手続きは始まらない。焦りが募る。
今度は先ほどこの場所にやって来た、190cm程あるかと思われる巨体の男性で再チャレンジすることにした。
まだ搭乗手続きは始まらないのか、と聞くと、Boarding Timeとしきりに言われる。けれどわたしはその単語が分からなかった。ハテナマークを浮かべた顔をしていると、高身長から繰り出される文字通りの上から目線で、「この英単語も分かんないの?」的なことを言っている。彼はため息をついてから、自分の腕時計を指差し、Now, seven o'clock.とまるで子どもに言うように、大袈裟なほど超スローリーに説明してくれる。
わたしはいま、完全に馬鹿にされている。しかしこれ程あからさまに小馬鹿にされると逆に笑えてくる。
このやりとりが楽しくなってきたので、必要以上に繰り返し、Boarding Timeをなんとなく理解した気になった。最後は巨体の彼は呆れかえって去っていった。
さらにしばらく待っていたが、ふと、自分の荷物はきちんとベネチア行きの飛行機に乗せてもらえているのだろうかと心配になってきた。わたしは空港窓口に行って聞いてみることにした。
窓口を探し出し、白人の男性スタッフに再びExcuse me.で切りこむ。「成田から来たんですけど、荷物はどうなっていますか?」と聞いたが、返ってきた返事がよく理解できず、さらにしつこく「次の飛行機にちゃんと乗っていますか?」と聞いてみる。すると、苦笑して、「Don't worry.」とわたしにとって親しみのある易しい単語で諭してくれる。先ほどの巨体職員とは違い、とても物腰柔らかだ。その一言だけで気持ちが緩んでしまうほど、わたしは優しさに飢えていた。わたしは彼の説明に納得したが、その後驚愕の事実が判明する。
念のため彼に航空券を見てもらうと、わたしが乗るこの便は、搭乗ゲートと搭乗時間(つまりBoarding Timeだ)が変更されていると告げられる。搭乗時間は遅くなっていたようだ。
わたしは搭乗ゲートを間違え、ベネチア行きの飛行機を乗り過ごすところだったのだ。アナウンスがあったらしいが、わたしの英語力では聞き取れなかったのだろう。
その便を逃せば、数日間のシェレメーチエヴォ空港泊は免れなかった。
わたしはその空港職員にThank youを繰り返し、笑顔と声音で感謝の気持ちが伝わるように努めた。
そんなわたしに、控えめだけれど気持ちの入った笑みを返してくれた彼と別れ、いまわたしは空港内を闊歩している。
様々な人種の入り混じる、ロシアの首都・モスクワの国際空港で、わたしは新鮮な気持ちを味わっていた。ここにいる人たちは、みんな精神的に自立し、自分の足で立っているのだ。それぞれ自分のやりたいことをやるし、行きたいところに行く。日本を出た今は、自分に与えられた義務とか、わたしが他人から求められていることなんて、考えなくていいだろう。
iPhoneで、ジャミールのBeginをかける。
わたしの旅は、始まったばかりだ。
モスクワに到着したときよりも晴れやかな気分で、目的地であるベネチアへの航空機に乗りこんだ。今度はパリ行きではなくきちんとベネチア行きと出ているから、きっとベネチアに着いてくれるだろう。