Nobody knows your heart
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
微睡みから覚醒したわたしは、今の自分の状況を客観的に見ることができるようになっていた。
ーー目が覚めても、悪夢は続いている。
わたしはどうして飛行機なんかに乗りこんで外国を目指しているのだろう。まるで国外逃亡じゃないか。
自分が馬鹿らしく思えたけど、あのときのわたしはそうすることしかできなかったのを思い出した。溺れそうになったところを夢中でもがいて、息を吸いに浮上しようとするのと似ていた。必死で日本を飛び出してきた。
精神的な病は、悪夢ではなく現実だった。
日本語ではなく英語とロシア語でアナウンスがかかる。周囲の人々はシートベルトを締めたりして着陸に備えている。わたしの前の座席に座っていたのは金髪の白人の夫婦で、彼らが喋っているのは知らない言葉だ。わたしはこの状況に頭が混乱しはじめていた。
約10時間半も飛行機に乗っていた。当機はモスクワのシェレメーチエヴォ国際空港に着陸しました、とアナウンスがかかる。現地時刻は17:41、現地の気温はマイナス2度、......。モスクワはベネチアへの乗り継ぎ地点だ。窓外の滑走路にロシア人の空港作業員が見える。日本人よりも一層白い肌、彫りの深い顔立ち、色素の薄い目。わたしは外国に来たのだ、母国を離れてしまったのだと意識した。
わたしは、もう日本に住むことはできない。それは言葉が怖いから。わたしの理解できてしまう言葉が。でも人は言葉がないと生きていけない。
ベネチアで貯金が底をつくまでどうにかやっていくか、働き口を見つけるか、もしそうできなかったときはーー。
乗客たちは次々と機内を降りていく。周囲を見回すとわたしが最後だった。立ち上がると自分の足が震えているのに気づいた。足だけじゃない、全身震えている。海外に来るのは二回目だが、一人で来たのは初めてだ。医者からパニックになるから旅行は控えるようにと言われていたのに。
乗降口に向かって歩く足どりはふらついている。これからどうしよう、泊まるホテルだけは予約してあるが、それ以外は何もプランが無い。ただ日本を出たい一心で飛行機に乗ったのだ。
もうわたしに保護はない。日本にいれば、困ったときには誰かが助けてくれる。今、わたしを助けてくれる人はもはや手の届かないはるか遠いところにいた。
わたしは、ひとりになってしまった。恐怖が爪の先までわたしを包んでいった。視界がぐらぐら揺れている。
恐怖だけがわたしを支配し、からっぽになってしまった心で乗降口を降り、他の乗客と同じように、空港の入口までゆくバスに乗った。
大半を占める欧米系、アジア系、少ないけれどアフリカ系と、多種多様な人種の集まったバス車内。バックパッカーが多い。
人で混み合っているのに、孤独だった。
モスクワは17:41。黄昏時。
それは、ふと何気なく、車内でわたしの右隣に立っていた人を見やったときのことだった。わたしは、その圧倒的な美しさに息を飲んだ。
この寒空の下、温度を感じそうな程に暖かそうで強烈な朱色、オレンジ、黄色が美しく溶けこんだ夕焼けが、彼をあまねく照らしていた。おそらく日本人だろう、なんとなくやんちゃそうな顔立ちをしたひとりの若い男性が、ロシアの夕焼けを眩しそうに見つめている。わたしはまるで素晴らしい写真を見ているような感覚だった。その横顔は夕焼けが綺麗だからか、またはこれからの旅が楽しみなのか、わずかに笑みを湛えている。その夕焼けのなかのあたたかな笑みも、脳裏に焼きつくには十分な美しさだった。わたしはその横顔に、自分に対する自信と誇りを感じ取った。わたしはその光景に、畏敬の念さえ感じた。
恐怖のなかにある、美しさ。
突然、視界がひらけ、五感が研ぎ澄まされてゆく感覚。
わたしも光源を見た。眩しくて、目を細めながら見たロシアの壮大な夕焼けは、この世のものとは思えないほど美しい。見渡すと、空も遠くの建物も滑走路も夕焼け色、青い目をした老齢の夫婦も、アフリカ系の家族連れも、ヒスパニック系の女性三人組も、日本人の一人旅の男性も、そしてわたしの身体も、ここにいる人々ともののすべてが同じ色に染まっていた。
わたしの耳には、大好きなジブリ映画の曲が流れていた。もののけ姫の主題歌は英語バージョンで、女性の優しく穏やかな声がこう歌っていた。
誰もあなたの心なんて分からない。
あなたの秘密の心は、世界のもの。
後々になって、歌詞を正確に聞き取れていなかったことに気づいたのだけど、そのときのわたしに、その言葉はよく染みた。