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メッセージ  作者: 柿崎スズ
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風の日

この息苦しさから早く解放されたい一心で、アエロフロート・ロシア航空の航空機に乗りこんだ。もちろんエコノミークラスだ。三月中旬のこの寒い時期にヨーロッパを旅する人は少ないようで、乗客はまばらだった。機体後方の窓側の座席で、イヤホンを耳につけ音楽をかける。今の気分はELLEGARDENの『風の日』。


機体が轟音のなかで揺れる。飛び立つ瞬間が分かった。しばらくすると、窓の外には日本の田畑が広がる大地。だんだんと陸地は遠のいてゆき、じきに雲と空ばかりになった。


他の乗客はそれぞれ思い思いに空の旅を過ごしている。話に花を咲かしている人、映画を観ている人、持ちこんだ本を読んでいる人、アイマスクをして眠っている人。わたしは物思いに耽っていた。


わたしは介護スタッフとしての仕事を辞めてきてしまったのだ。社会人として常識のない辞め方をしてしまったのと、もうあのおばあちゃんたちに会えないのが一番の心残りだった。


わたしが働いていた施設は特別養護老人ホームなので、介護度の重いご利用者が多い。食事、排泄、入浴、人間の生活のすべてをサポートした。特養は終の棲家で、文字通り彼らが死ぬまでずっと世話をする。彼らとの絆も深くなる。


とりわけわたしが好きだったのは、気分のいいときに自身オリジナルの曲を歌い踊って披露してくれるおばあちゃん、きわどい下ネタや冗談を言ってふざけるのが大好きなおばあちゃん、それから「あなたは私の孫。私はあなたのおばあちゃんだからね」と言ってくれる全盲のおばあちゃん。わたしは休憩時間になると彼女の居室を訪れ、相談に乗ってもらったり他愛ない話をして楽しんでいた。


特養で働く最後の日、夜勤がもうすぐ明けるという、彼女と別れる朝のことだ。わたしはもう彼女と会えなくなるのだと思うと、たくさん思い出がありすぎて耐えられなくなり、トイレで泣いてしまった。仕事を辞めることは誰にも言っていなかったのに、わたしの主観かもしれないが、彼女はまるで何かを感じ取っているかのように、寂しそうにしていた。職員が彼女に「何だか悲しそうね」と声をかけているのを聞いた。


彼女だけじゃなく、ご利用者全員とそれぞれ思い出がある。いやな思い出もたくさんあるけど、もうみんなに会えないと思うと寂しかった。


〝おねえちゃん〟とも、もう会えなくなるのかな。


〝おねえちゃん〟と言っても、わたしと血の繋がった本当のおねえちゃんではない。わたしは普段、キミちゃんと呼んでいるが、本名は鞘田侯正さやたきみまさ、生物学上は男だ。


少しの説明をすると、彼の恋愛対象は同じ男である。つまりゲイ。そして、容姿はとても美しい。喋らなければ相当の美男子だ。


わたしが入社した当初、キミちゃんは同じ職場で働いていたただの先輩だった。けれどある事件がきっかけで、わたしのOJTでもないのに面倒を見てくれるようになり、近頃はさらに関係が深まりプライベートでもしょっちゅうキミちゃんの家に泊まって語り合うような仲になった。キミちゃんはわたしのことをかわいい妹だと恥ずかしげもなく言ってくれるので、わたしも〝おねえちゃん〟と慕っている。


キミちゃんにも何も伝えずに日本を飛び出してきてしまった。キミちゃんと話した最後の言葉は何だっけ。


ただただ、寂しい。わたしは音楽のボリュームを上げた。

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