Reverie
長い夜が明けたようだ。うたた寝しただけなので疲れが取れるはずがなく、身体はだるいし頭は重い。トイレで顔を洗って鏡を見ると目の下にくっきりクマができていた。
空港がゆっくりと活気を取り戻していく。窓口やレストランやカフェにスタッフが現れ、CAやパイロットがフロアを闊歩し始める。わたしたち空港泊まり組も行動を開始するときだ。
あんなに苦労して取った航空券がパアになったので、利用するはずだったエティハド航空に電話して下手な英語でやり取りするも、代わりの航空券は結局もらえなかった。
このままでは日本に帰れないが、徹夜明けで頭が朦朧としており、焦ることさえできない。というか、ここらへんの記憶がものすごく曖昧だ。
再びトラベルコちゃんの力を借り、レオナルドダヴィンチ空港発、成田空港行きの当日航空券を何とかゲットした。
その結果、経由地は当初予定していたアブダビではなく、インドの首都デリーとなった。航空会社は赤のカラーリングが特徴のエア・インディアだ。
夕方になり、窓から見る外はもう薄暗い。フィウミチーノ空港で足止めされてから、もうすぐで二十四時間になる。
前日の反省から、早めに搭乗ゲートに行き、国際色豊かな他の旅行者と共に広いフロアで待機していた。
けれどあまりにも暇だ。この搭乗ゲートに着いてから気になっていたのは、フロアのすみにある青い絨毯のうえに堂々と鎮座しているグランドピアノだ。
海外の空港にはピアノが置かれているところがあるらしい。飛行機を待っているあいだ、旅行者が退屈しないように設置されているとのことだ。昨日の搭乗ゲートにも置いてあったが、周りに人が大勢いるし、そのときは大して退屈でもなかったので弾かなかった。
でも今のわたしは夜のあいだから暇を持て余しているし、頭に靄がかかっているようで悲しいかな羞恥心さえもなかった。いまピアノを触っている二人組の女の子がいなくなったら、弾いてみようかな。
やがて女の子たちは飽きたのか去っていったので、思い切ってピアノの前に座ってみる。すると、本物のグランドピアノではなく、操作ボタンのたくさん付いた電子ピアノだということが判明した。ちょっとがっかり。
鍵盤に触れてみる。音は小さく設定されている。それほど周囲には聞こえないだろう。
曲は何を弾こうかな。いま住んでいるアパートにピアノはなく、実家でしか弾けないから、久しぶりだ。
アップテンポの曲よりも気持ちを込められる美しい曲が弾きたい気分だ。韓国の天才ピアニスト・イルマの『River Flows in You』を奏でる。
電子ピアノだから鍵盤は何となく軽い気がした。
楽譜はいま手元に無いが、わたしは暗譜派なので、曲はすべて頭の中に入っている。
続けて、SHINeeの『Replay』のピアノバージョン。
それからドビュッシーの『夢』。
それからまたドビュッシーの『アラベスク第1番』。
指がうまく動かないけれど、弾いていて高揚感があった。
それからもたくさん曲を弾いて三十分くらいピアノの前を陣取ったのち満足してから、ピアノのすぐ近くの椅子に戻る。
すると、隣に腰かけていた若い男性が、印象に残る笑顔で「Thank You.」と声をかけてくれた。長髪で気だるげな雰囲気がお洒落で、なんとなくフランス人ぽい。
すごく嬉しかったが、嬉しすぎて言葉が出てこず、はにかむことしかできなかった自分を殴りたい。
地獄の空港泊だったけれど、夜8時頃に、無事飛行機に搭乗し、終わり良くイタリアを発った。たくさんの思い出をくれたイタリアとお別れだ。
けれど1日寝ていないわたしは感慨にふける余裕もなく、まるで白昼夢のなかにいるような感覚だった。
○
「お客様、眠る気満々ですね?」
離陸直後、わたし以外数人しか乗っていない機内で、空いていた三人分のシートをすべて使って横たわり、昨日眠れなかった分を補おうとしていたとき、クスクスと笑いながら彼はやって来た。
「何か飲まれますか?」
「お、オレンジジュースプリーズ......」
勢いよく体を起こす。デリーへ向かう飛行機のなかで、わたしはオレンジジュースをカップにそそぎ入れる客室乗務員のその顔に見惚れていた。
はあぁ......。なんて美しいんでしょう!
ぱっちりした目に、鼻も唇も、すべてが整いすぎている!
背の高いそのインド人男性CAは、タレントのローラをそのまま凛々しくした感じの顔だった。本当にそっくり。まさに男版ローラだ。
「どうぞ」
「センキュー......」
「......もしかして日本人ですか?」
どうしても日本人だと見破られてしまう。
「はい、そうです」
「どこに行ってきたの?」
「ベネチアと、フィレンツェに......」
「楽しかった?」
「はい!」
「それはよかったね」
彼は人懐こそうな笑顔でそう言った。イケメンが笑うと破壊力がすごい。わたしは簡単にノックダウンだ。
彼が運んできたチキンのカレー煮とパンと角切り野菜とフルーツの機内食をお腹いっぱいに食べ(一日ぶりの食事だ)、すぐに眠りについた。
浅い眠りのなかにいたが、肩を指でトントンと叩かれて目覚めた。
「おはよう」
「ぐ、グッモーニン......」
昨日のCAの彼だ。寝起きの顔を見られるのが何だか恥ずかしい。それに、二日もシャワーを浴びていないから自分が臭い気がする。いや、気がするじゃなくて確実にクサいな。セーターも靴下も下着も、数日着たやつだし......。いまのわたしは女子力どころか人間力さえもゼロだ。
「よく眠れた?」
「そこそこです」
「僕にはよく寝てたように見えたけれど?」
彼はまたクスクスと笑う。ーーこれ、すごい恥ずかしい。
ボリューム満点の朝食をいただいたあと、しばらく音楽を聞いて過ごす。エアインディアはメカに強いインドらしく、座席でスマホの充電もできて、これがけっこう助かる。
もうすぐでデリーに着くという頃、また彼がやって来た。
「何を飲みますか?」
「コーヒーで」
コーヒーを注いでわたしに手渡すと、彼はおもむろに口を開いた。
「......ねえ、僕を日本に連れてってくれない?」
ーーは?
「日本で一緒に過ごそうよ」
二日分の汗でクサいわたしに何を言ってんでしょうか。
ーーアレか。そういうヤツか。
イエスともノーとも言わずただヘラヘラしてごまかしていると、彼は去ってくれた。
イタリア人にはナンパされなかったのに、インド人にナンパされるとは。ーーいや、これをナンパと言っていいものかーー。
デリーに着いて、飛行機を降りる。そのときも、彼は接触してこなかった。
彼の誘いにイエスと答えていたらどうなっていたかは、今となってはもう分からない。