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メッセージ  作者: 柿崎スズ
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もしも君が泣くならば

三月は、わたしに別れを連想させる。幼い頃からそうだった。親友と別々の学校に通うことになったとき、吹奏楽部の尊敬する大好きな先輩が卒業してしまったとき。そして、学生時代のわたしを支えてくれた〝ピアノの先生〟が亡くなったのも、三月のことだった。悩んでいるとき、心が苦しいとき、ピンチのときに、今でもなお彼女がわたしの頭をよぎる。彼女が今、わたしのそばにいてくれたのなら、と叶わない想いを抱くのだ。







総武線と京成本線を乗り継いでやって来た。ここは成田空港、第一ターミナル。


わたしの荷物は、焦げ茶色のリュックひとつだけ。高校生の頃、通学に使っていたもので、旅行用のバックパックとかでもなく本当にただのリュックだ。中身は財布、バッグ、セーター一枚、下着二枚ずつ、靴下二足ずつ、パジャマ、フェイスタオル一枚、歯ブラシ、薬、充電器(ちなみに変換プラグはない)。さっきeチケットと引き換えた航空券は、パスポートに挟んで右手に。


搭乗カウンターで、綺麗なグランドスタッフさんに言われた「本当に片道でよろしいですか?」の言葉が心に尾を引いている。本当に帰りのチケットは無くていいの?ーーこんなことを考えても、今は手荷物検査を目前にしているのだからもう無駄じゃないか?


「スズ!」


そのとき、どこかからわたしの名前を呼ぶ声がした。


ーー歩みは止めない。警備員の横を通り過ぎる。


「スズ、待って!」


ここから先は、航空券がないと入れない。


「スズ!スズ!」




何度も呼ばれて、彼の声を無視していられなくなってしまった。以前は心底大好きだった人の声だから。


手荷物検査の入口の手前に、彼が立っていた。名前は名代柚樹。わたしの恋人だ。


来てほしくなかった。もう会いたくなかったのに。


ーーその心の声は本心?


「スズ、ちょっと話そう、な?」


柚樹の目はそこから出てきてくれと言っていた。


東京のアパートで同居しているわたしの妹が、柚樹に教えてしまったのだろうか。突然「明後日、ベネチアに行ってくる」と言われたら、勘ぐられて当然だ。ベネチアを旅すると決めたのは、二日前のことだ。日本から出ないと、わたしは息をしていられないと思ったから。だって、何を考えていればいいのか分からない。柚樹が、職場の人が、家族が、道をすれ違う人が、わたしの頭の中を読んでいる。





わたしは精神のビョーキにかかっている。統合失調症、と心療内科の先生から診断を受けた。


心を読まれている、という強迫観念に囚われて、その考えからどうしても離れられない。


「柚樹......」


あなたのせいで病気がひどくなったんだよ。汚いわたしの心の声がそう言う。だけど、「だから別れよう」とは言えなかった。統合失調症だと打ち明ける勇気がない。


「スズ、ちょっとだけでいいから、話し合おう、ほら、」


わたしはもうあなたのそばにはいられない。苦しい。早く楽になりたい。いま戻っちゃいけない。ここから逃げなくちゃ。


それでも、彼と視線をそらすのは辛かった。

後ろ髪を引かれながら、パスポートを手に荷物検査のほうへ歩いてゆく。







二日前、わたしは妹のネイルボトルのコレクションを眺めていた。キラキラのラメ入りだったり、パステルカラーの可愛らしいものはなく、みな燻んだような大人っぽい小洒落た色だ。わたしはそこから暗めの赤と緑、それから白を選びとって、PCの前の椅子に陣取り、手の爪に丁寧に塗ってゆく。


さすが服飾学科卒業の我が妹はセンスが良いと、可愛く変身した手を見て思う。仕事柄、ネイルは禁止だったので、この感覚は久々だ。


ネイルの乾ききらない手で、パソコンの画面の、印刷のボタンをクリックする。


PCの隣に置かれた灰色のコピー機から、印字されたA4の用紙が機械的なリズムで出てくる。これはeチケットの控えで、これを搭乗カウンターに出せば、航空券と引き換えることができる。






一時的にパニックになっているだけかもしれないよ、とどこか冷静な自分が頭の中で語りかける。病気が治って、本来の自分が戻れば、こんな馬鹿な真似はしないのかも。


すごく身勝手なことをしていると分かってる。家族を、職場の人を、友だちを、〝おねえちゃん〟を、困らせることになるのも分かってる。







けれど、現在のわたしは無事に出国審査を終え、時間になるまで25ゲート付近のソファで待機していた。長い滑走路と数機の飛行機が広い窓から見える眺めだった。


わたしはイヤホンをつけ大音量で音楽を流している。周囲の人の話し声が聞こえてしまいそうだったから。こうしないと、わたしは家の外にいられない。


ミュージック画面でかけたのは、銀杏BOYZの『もしも君が泣くならば』。


「誰も君のことを悲しませたくない


誰も君の泣顔見たいなんて思ってない


胸の中にある気持ちを決して恥じる事はない


人間なんて誰だって駄目なんだ」


これはわたしが弱っているとき、一番染みてくる唄だ。人の良心を信じる唄だ。


彼らはなんて優しいことを言ってくれるんだろう。わたしはこんな優しさに触れたことがない、と思いこんでしまう。人間はみんな、頭の中では何を考えているか分からないものだ。柚樹の言葉や態度や表情を信じたくとも、心の奥底では何を考えているかなんて結局は本人以外分からない。彼の本心を推し量って一喜一憂することに疲れてしまった。


わたしがいい例じゃないか。頭で考えていることと実際に人に伝える言葉が違う。裏と表がある。でも、人間はみんなそんなものだと彼らは歌ってくれる。でも、わたしは社会のなかでは偏見にさらされる精神障害者だ。



この歌の優しさに浸かりながら考えるのは、柚樹のこと。




飛行機に搭乗しようと列に並んでいるとき、To Paris(パリ行き)とゲートのところに出ていることに気がついた。けれど、ここはたしかに25ゲートで、チケットにはきちんとTo Venice(ベネチア行き)と書かれている。本当にこの飛行機に乗っていいのだろうか、と少し迷ったが、周りの旅行客(もうすでに日本人より外国人が多い)や空港職員に尋ねることはせず、そのまま列の流れに乗ることにした。最近、パリでは大きなテロが起きたばかりで旅行客も減り、危険だという認識はあったが(この日は2016年3月15日だ)、パリに行こうが、イタリアに行こうが、何とでもなれと思った。だってわたしは、どうせ、もうすぐーー。




最後に見た柚樹の顔と言葉が引っかかり、後味の悪い出国になってしまった。

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