第一章 廃墟と少女と戦後
二〇三八年
これは、戦火の傷跡に廃墟となった東京で強く生き抜く一人の少女の物語……
焦土と化したまま放置された廃墟の東京に、今夜も銃火の咆哮が響き渡る。
絶え間なく続く戦闘が日常の人々の営みと入れ替わった戦場を睥睨し、少女の戦いが幕を開く。
二〇三八年 五月二一日 午前二時三四分
今夜はいい風が吹いていると、アキは頬を撫ぜていくそよ風に髪をなびかせて思った。宵も更け、このところの初夏の陽気はなりを潜め、五月の夜風は少しひんやりと冷たかった。埃っぽく、多少湿気を帯びた風が肌に少しまとわりつき、そして離れていく。
風がいよいよもって強く吹き抜けていく。天を仰ぐと雲が群れとなって荒々しく流れていった。東の海上に抜けた低気圧の影響か、昼間は生憎の天気だったことを思い出す。おかげで外にも出られず、洗濯もできずじまいだったと、彼女は嵐の一日を思い出し唇を尖らせた。風が湿っているのもそのせいかもしれない。それにしても、今夜は随分と雲が低く、勢い良く流れていく。星明りを遮ってなおいっそう暗い雲が流れる様は、さながらCGのテスクチャ処理のように薄っぺらな印象を彼女に与えた。
今夜は月が明るい。それは流れていく雲の輪郭をより一層くっきりと印象付けることに役立っていた。おかげで透明処理を施された雲の隙間からは、月明かりが白く輪郭を輝かせ、それがなお一層空の平面さに拍車をかけていた。そんな雲の隙間から、更に申し訳程度に星空を望むことも出来る。
昔は、街の街灯の明かりなどが大気に反射する光害が騒がれ、天の星の代わりに地上の星たちが隆盛を極めていたらしい。だが、今はどうだろう。
少女は風で乱れたセミロングの髪を手でそっとかき上げ、世界を睥睨した。
全てが単色に彩られた世界の中心に彼女はいた。この近辺で一番高い、半壊したビルの屋上から、彼女は世界の全てを見下ろしていた。雲の隙間から時たま差し込む月光がコントラストを生み、スポットライトのように大地にぽつぽつとモノクロームの世界を浮かび上がらせていた。その中で、街は漆黒の中にわずかにその輪郭を漂わせている。時々思い出したように闇の中からシルエットを突出させているのはかつての超高層ビルの残骸だ。
風に誘われるようにつっと顔を上げて背後を伺うと、遠く新宿のビル群の影が墓標のように暗闇の中に佇んでいる。そのまま視線を戻してくると、四谷、市ヶ谷と来て、かつて皇居と呼ばれていた都会に似つかわしくない広大な緑地の跡、先の戦闘で焼失した木々が立ち尽くすだけの荒野がベタ塗りの漆黒に飲み込まれている。その向こうには大きく弓なりに折れ曲がった東京タワーが歪な姿を曝け出していた。
臨海部へ視線を向けると、汐留臨海部の再開発地区は強大な破壊の力で薙ぎ払われ、建設前の姿に戻されてすっかり見通しがよくなっていた。その手前、東京駅、丸の内周辺のビルの破壊の様が目に入った。戦争初期に巡航ミサイルの直撃を受けた東京駅は二一世紀に新設されたビルがその姿を完全に消し去り、かつての赤レンガの駅舎が半壊した状態のまま露出している。その赤レンガに穿たれているのはいくつもの銃弾と砲撃の傷跡だった。そんな臨海部のビル群が破壊されたおかげで東京湾まで視線を向けると、平成の人工島、お台場まで一望できる。台場付近も破壊は間逃れず、フジテレビ社屋の球体はすでに無いし、レインボーブリッジは中程で真っ二つに破壊されてしまっていた。
そうしたランドマークはまだそれなりに形状を保っているし、もとの立地がはっきりしているから明かりの無い暗闇の中でも目が慣れれば大まかな場所は特定できる。それ以外はすべて瓦礫に飲み込まれ、この暗闇で特定できる人間は誰一人いないことだろう。
開戦当初、大量に撃ち込まれた弾道ミサイル、その中には通常弾の他に、サーモバリック爆薬を更に発展強化した広域戦略弾も多く含まれていた。焼夷弾を大幅に向上させたようなそれは、秒速二〇〇〇mもの速度で起爆剤を拡散、分布し気化させ点火される。大気中に撒き散らされた爆薬は大気中の空気と混合し、連鎖反応を起こしながら周囲を一瞬で炎の渦へと変えてしまうのだ。それは凄まじい衝撃波と熱を持って半径数キロにわたって大地に死を振り撒き、ビルを薙ぎ倒し、人を焼き殺した。そして雨のようにミサイルが降り注ぎ、ビルというビルが破壊された結果、東京はいまや大半がコンクリートだらけの荒野に成り代わっている。いや、東京だけではない。ペトリオットPAC4で迎撃された一部のミサイルを除き、大量のミサイルは日本のほぼ主要都市、基地、駐屯地のすべてに降り注ぎ、蹂躙し、人々を焼き殺した。それが、七年前の話……。
ただ、アキにとっては今睥睨している街こそが世界の全てであり現実だった。こんな倒壊寸前の小高いビルの上に立つだけで、世界の全てを見通せる気がする。風が空を翔る音だけが追悼の笛の音のように静寂の中で甲高く鳴り響いていた。五月と言えども冷たい夜風に、不意に肌寒さを感じて、アキは自分を抱きしめるように手で体を覆い、身を縮めた。
小さい頃カズハルに読んでもらった絵本に出てくる、夜の波間に浮かぶ難破船のようだとアキは曇った瞳を台地に向け、大した感慨もなくただそう思った。実際そうなのだ。住む人も無く、打ち捨てられ廃墟となったビルの群れは、さながら東京という海に乗り捨てられた難破船と似たようなものだ。そこに、街の息吹はすでに存在しない。あるのは無残に破壊された街並みだけだ。かつて煌びやかに街を飾っていた地上の星も、人々の活気もなく、ここは寂しく風が吹き抜けていくだけの、風化するだけの遺跡と成り果ててしまったらしい。海鳴りのように響く風の下で、不意に漆黒の大地が波打ったように思えた。その下に、幾万の人々の骸と怨嗟を横たえたまま……。
地上の星を歌う二一世紀初頭の流行歌の歌詞を思い浮かべながら、アキがわずかに目を細める。まだ幼さとあどけなさを強く残す可愛らしい顔立ちに不釣合いな深い哀愁を浮かべて、彼女は小さくため息を漏らした。
―――今はそんなこと考えてる場合じゃないじゃん、バカ……
心の中で小さく自分を叱責し、行動を起こす。タクティカルベストの胸ポケットから携帯電話にも似た情報端末を取り出すと、電源を入れる。有機ELのカラーモニターの硬質な淡い光が、少女の顔を青白く浮かび上がらせた。アキは一連のチェックレジットが完了するのを確認してから、上面のソケットにコネクタを結合した。コネクタケーブルの先はヘッドギアに取り付けられているHMDだ。アキはもう一本のケーブルを足元から手繰り寄せ、端末に接合すると、HMDを目の位置に下ろして固定した。フレキシブル液晶素子と三層マイクロレンズシートによって実現した視野角二四〇度は実際に見る景色と寸分の狂いのない映像を提供してくれる。HMDを通しての景色は先ほどまで見ていたものと同じ生気の無いグレーの世界だった。そこに、レイヤーが展開され、ウィンドウが開かれていく。灰色の背景に浮かび上がる淡いブルーのシグナルとグリーンの円錐、サブウィンドウには気象情報や周辺域の注意事項などがGUIで表示されていく。青色で表示されるのはかつてのランドマーク、最寄の駅やビルといった地図上の目印だ。そして緑は味方のユニットの配置を表している。
色を失っていた世界が一際鮮やかになる。アキはHMD越しに見るこの光景が好きだった。たとえそれが、映像が作り出した擬似的な映像だとしても、それは彼女に失われた過去、甘美な平和と繁栄の時代の面影と、かつてその世界で過ごした穏やかな幼き日を思い起こさせるからだろうと思う。しかし、そんなもう幼い日の幸せな記憶はすでにおぼろげにしか残っていない。今思えば幸福だった日々も、大好きだった父と母の顔も、あの空が燃えた日を最後に消えた。そして今ではそんな両親の面影すら思い出せなくなってきている。それほどまでに今の世界とはかけ離れ、そしてこれまで歩んできた道はとても幸せとは程遠いほどの苦しみに満ちた日々だったのだから。
最後の平和を享受していた頃のこの街は今彼女がHMD越しに見ている景色など比べ物にならないほど美しかったに違いない。今ではもう見ることのできない地上の星、しかし、それでも彼女はこの一瞬だけでも〝地上の星〟を見つけられたような気がすると思った。
ピッという警告の電子音とともに、シグナルにアラート表示が現れる。黄色のマーキングは左手、秋葉原方面を指している。
―――UNKNOWN
敵味方識別が出来ないため、所属不明と報告してきた。突然現れたシグナル、出現位置から地下鉄址を利用したと推測される。
アキはついっと顔を上げると、虚空へ向け声をかけた。
「ハヤブサ、インフォメーション! 該当地域のセンサーノードネットワーク再構築、詳細情報検索と上空からの映像を転送!」
彼女の言葉に、短く「了解」と合成音声が返ってくる。優しさの欠片も無い女性の声だが、その固さは逆に実直に仕事をこなしてくれる安心感があった。もちろん、そんな気持ちを抱くのは受け取る側の人間だけだが。
ハヤブサという識別名称を与えられているのは、アキが使用している広域偵察通信管制用UAV(Unmanned ACTION Vehicle)だ。二一世紀初頭から使用されるようになったグローバルフォークやプレデターなどに代表される無人航空機と同名称だが、ロボット技術の軍事転用が急速に進んだ結果、無人機が空だけでなく陸上、海中と幅広く稼働するようになり、無人行動機へと解釈が拡大された。ハヤブサはその中では初期のUAVと同様の飛行機型をしており、折りたたみ式の主翼は全幅二m五〇cm、全長二mのグライダーとなっている。観測装置を搭載し、補助動力はあるが、基本的に高所からの投擲や離陸補助機を用いることで空に上がり、あとはセンサからの入力で風を読み、GPSによる自己位置を確認しながら滞空し続けるよう作られていた。もっとも、GPS指標衛星が衛星迎撃ミサイルで破壊されてからは、昔ながらの地形観測航法での自己位置検出に頼りきりだが。国土地理院の遺産の三次元測量データだけが現代の命綱だ。翼表面の太陽光発電シートと組み合わせれば待機モードならば五日間の連続滞空が可能となっている。
上空待機中のハヤブサがアキの命令を的確に実行する。秋葉原駅を中心とした半径五〇〇mが格子状に分析され、不明勢力を浮かび上がらせる。ところどころ情報に揺らぎがあるが、それは仕方ない。センサノードが敷設されてすでに一〇年。月に数回、巡航ミサイルに見せかけてセンサノードの散布が行われてはいるが、そういうものは建物の中や地下にまでは行き届かない。度重なる戦闘と七年という歳月がセンサモジュール達の命を一つずつ奪い、場所によってはセンサ情報の行き届かない場所も存在してきている。それが今揺らぎとなって情報の隔たりに現れていた。センサノードはそれぞれが五百円玉程度の大きさをしたチップで、単独で通信機能を持っている。その一つは単に低出力の通信とセンサ情報の取得しか能が無いが、特徴として一つのセンサモジュールが機能を停止しても、別のモジュールが機能を代替し通信が可能ということが挙げられる。ユビキタス技術の発展の過程で空間付与を目的として開発された環境センサが、今では開発意図を捻じ曲げられてこうして戦争の道具として利用されているのだ。
センサが拾い上げた情報が適合処理され、マップに詳細情報として記載されていく。八つの個体の群れが二つ、個体の温度分布から人間だと判る。この二つの組は二〇mの間隔を置いて、中央通から一本奥に入った路地裏を南下していた。そして、その周辺に分散的に動いている個体が約一二……。隊列を組まずに広がりを見せていることから、地上型UAVであることがわかる。偵察用か掃討用かはまだ情報が足りない。
そうするうちに、ハヤブサが新たな情報を転送してきた。ポップアップで新規にウィンドウが展開される。ハヤブサに取り付けられているカメラからのリアルタイム中継だ。ただし、時々映像が欠落する。強いECMが常にかけられている現在、電波を使った通信は遮蔽物が無いところで数キロが限界だった。しかも、多少なりとも電波妨害の影響は現れている。しかも今は夜間、カメラ映像は薄暗く判別しにくい。
「暗すぎて判らないわ。ハヤブサ、IRカメラの画像に切り替えて」
アキの指示に、映像が瞬時に切り替わる。白黒の画像だが、先程とは違い輪郭が鮮明になった。赤外線映像だ。自然発生する熱を解析し画像化する。路地裏に蠢いていた存在がはっきりと確認できた。
二一式自動機関銃を構え、中世の甲冑のように全身を覆うタクティカル・ギア、防毒マスクも兼ねたフルフェイスヘルメットにはナイトビジョン機能つきHMDを装着している。
―――照合結果=大陸軍
考えるより先に戦術PCが答えを出していた。イエローのUNKNOWN表示がその瞬間ENEMYを指すレッドに切り替わる。
大陸軍、正式には中華東アジア国家共同体の統一軍事機構のことだ。二〇〇八年のリーマンショック以降復興の兆しが無く衰退に向かった欧米列強と日本に対し、経済的に成長を始めたばかりの“目覚めの大龍”中国、かの国はその巨大市場と経済発展の勢いを武器に世界の王者に君臨しようと画策し、そして成功した。だが、それは未成熟な国民性とは背反した一方的な見た目だけの社会の膨張であり、国際社会のスタンダードなどは完全に無視された世界の創造だった。そして出口の見えない不況に喘ぎ中国進出をもくろむ各国の思惑を利用し、世界の宗主国となって変わろうとした中国は周辺国と同調し一大連合を築き挙げた。それはかつての帝国日本が掲げた大東亜共栄圏の二番煎じであり、唯一の違いは属国を従わせる国力の違いだけだったが。ともかく、そうした勢いに乗った中国は突如として日本に対し侵攻を開始した。それが七年前の話だ。
敵の姿を見つめ、アキはしばし思案にふけった。
「……分隊二つに支援機一二……他に支援も無さそうだし、ただの偵察かな」
そう呟いて、アキの口元が歪んだ。笑っている……とても少女には似つかわしくない狂気とも取れる残酷で、それでいて魅惑的な笑みが広がっていた。
「無視してもいいけど、後で本隊に来られると厄介よね。どうしよっか、壱華?」
楽しげに下に向かって語りかけるアキ。誰もいないはずのビルの屋上で不意に気配が動く。ハーモニックドライブの回転音、アクチュエータが伸縮し、わずかに身じろぎのような動作をする。それも、アキのすぐ足元で。そう、彼女は今、二mはあろうかという巨大な機械人形の肩に腰掛けていたのだ。そのロボットはまるで主に傅く従者のように片膝をついた姿勢で彼女を肩に乗せ、椅子という立場を甘んじて受けていた。一昔前のSFアニメにでも出てきそうな鋭角的なフォルムはFRPと金属との複合積層装甲。その下に防弾素材のアーマーを配したそれは、まさしくロボットそのものだった。
壱華と呼ばれたそのロボットはツッっと首を上げ、虚空を見上げながらデータリンクでただ黙って状況の確認を行っている。時折センサヘッドにシグナルが点滅し、カラーLEDが状態表示のため点灯する。
TTD、急速に向上したロボット技術を背景に、戦時中に開発が開始された準人型戦闘兵器を指す言葉だ。人と同じ装備を使用し、人間とともに従軍できる事を目指し研究開発された、まるで数十年前のSFアニメを具現化した存在だった。二本足による踏破性と人間と同じロボットアームによる装備を選ばない柔軟性、それは人型を理想とする盲目的な技術者とサブカル系評論家気取りのオタクが人型ロボットを語る上で第一に挙げる利点だが、一方で複雑な機構による繊細な構造は故障率が極端に高く、そのアンバランスさから制御も困難で、本当の意味での不整地(それこそアカデミックではなく現実世界でのという意味だが)の荒れた地面に対してただ立つことさえ困難を極める。そして、モータの性能に依存する二足歩行に起因する物資の運搬に対する積載量の制限と稼働時間の制約、期待できない移動速度と、さまざまな問題から実用性とはおよそ相容れない存在として扱われてきた存在だ。ロボット技術の応用によりその運用と利便性で明確に地位を確立したUAVに対して、それが目指すものは明らかに真逆。よって、その有用性には疑問の声が多く、実戦に耐えうる機体の実現が不可能と考えられ、開発は中断したはずだった。そう、表向きには。それは、確かにそこに実在していた。
壱華がアキを見上げて答える。
《支援機の動向が気になります。データリンクを要求、UAVによる検索を提案します》
淡々とした合成音声は少年か少女か判断のつきにくい中性的な響きを残していた。しかし、その声に迷いがないのはやはり機械だからだろうか。
そんな彼に、アキが笑みを浮かべて頷いた。
「うん、任せる」
《了解》
返事が早いか、アキのHMD上のグリーンの光点が四つ、画面の中で形を変えた。そして動きを開始する。注釈には、偵察用UAV「ワーム」と出ている。その名のとおり直径一五cmほどの円筒形の無人機で、ミミズのように瓦礫の合間を縫って移動することが可能だ。武装は無いが、全方位カメラと複合センサを持つ。
ワームが徐々に敵無人機に接近していく。最初の一機が、中央通を挟んで分隊と反対側のビルの残骸沿いに移動する敵UAVの姿を捉えた。
サブウィンドウで映像を確認し、アキがふむと頷く。
「戦闘支援用のタンク型か」
彼女の言葉どおり、ラジコン戦車のようなクローラの脚回りに分隊支援用の12.7mm機関銃を改造して取り付けた機体が映し出される。機構が単純で故障にも強く信頼性が高い、長くその姿を変えない典型的なUAVの代表格だ。
「壱華、現在のタンクの移動速度、騒音から類似機体を検索」
アキの命令に、画像のうち分隊前方に展開している三機がタンクに表示が切り替えられた。これで確認されたのは四機だ。
「さて、残りの八機は何かなぁ?」
クリスマスの朝に枕元に置かれたプレゼントを開けるような、無邪気で楽しげな声が漏れる。実際、アキはこの状況を楽しんでいた。
敵部隊の両翼と先頭は偵察用の情報収集機であることがすぐに判明する。不明は残り五機。そうする間にも、敵部隊は南下を続ける。このまま行けば秋葉原駅だ。総武線の高架は戦争中の空爆で倒壊し中央通を塞いでいる。まだ無事な秋葉原駅の構内を通るのか、瓦礫を乗り越えるのか、仕掛けるのはそこで決まるが……
偵察用のワームが不明機を捕らえられる位置に達し、アキはサブウィンドウに視線を向けた。
「こっちもタンク型か……」
そう呟いた瞬間、UAVのカメラと目が合った。
―――しまった!
顔を顰め、心の中で舌打ちする。しかし、その瞬間ワームの映像が途切れた。
「壱華、状況報告!」
《W三〇二、破壊されました。ALIVEシグナル未確認》
「最後の映像回して」
映像が途切れる寸前の映像がすぐさま再生される。タンクは撃っていない。ワームのカメラは大きく横に振動していた。コマ送りで、振動が左から来ていることを確認する。
「まだ何かいるみたい……気づかれちゃったかな?」
《敵部隊、フォーメーションを変更》
「ああ、やっぱり」
言葉とは裏腹に、アキには何の問題でもないようだ。なぜなら彼女にはUDXビルの残骸に身を潜める敵分隊の姿がはっきりと見えていた。
アキが肩の上で身じろぎすると、壱華はゆっくりとした動作で彼女を腕に抱え、立ち上がった。壱華の腕の中に座り直したアキは彼の頭に腕を回し、抱きつくようにして体を寄せた。
「気づかれちゃったら、殺しちゃうしかないよね」
艶やかな唇から楽しげな響きに反して残酷な言葉が漏れる。どこか夢見心地のトロンと潤んだ瞳と合間って、そのアンバランスさから生まれる狂気染みた色気に、今彼女を見ることが出来る人がいれば間違いなく狂っていると評価したことだろう。ただ、それは平和な時代しか知らない心裡アナリストのやることだ。目の前にあるのは平和の残骸、死んでいった人々をその内に横たえなお安らぐことの無く地を吸い荒廃する戦場、そして彼女は多くの死とともに育ってきたのだから。
《了解、作戦内容確認、データリンク再構築、ミッションスタート》
律儀に頷き、的確に行動を開始する壱華に、アキが慈愛に満ちたまなざしで微笑む。
「……壱華のそういうところ、大好きだよ……」
《ありがとうございます、マスター》
彼のいつもと変わらないプログラムによる返事に、アキがにっこり笑う。壱華の頭を抱き寄せ、頬を当てた。FRP複合装甲で作られた外装はひんやりと冷たく、心地良かった。
暗闇の通路を駆け抜ける足音が響く。ヘッドセットの向こうから遠く聞こえる装備が擦れる耳障りな金属音、ヘルメットに装着されたナイトビジョンから映し出されるのっぺりと重たいグリーンの濃淡映像、そこにさらに映し出されるPTCの解析情報が煩わしい。戦闘という極限状況の中で閉塞感に拍車をかけるには十分な環境が整えられていた。
劉永春は恐怖と焦燥の中で叫びだしたいのを必死に抑え、銃を構えたままただひたすらに走っていた。瓦礫だらけの地面は走り辛く、重くかさ張る装備が動きを制限する。極度の緊張に息が詰まった。呼吸ができない。しかし、口を開いたら悲鳴が迸りそうだ。だからぐっと歯をかみ締め歯の隙間から呼吸する。
秋葉原ラジオセンター跡、細い通路に、電子機器・電子部品などの専門店約五〇店が一畳にも満たないような狭いカウンターに電子部品を並べていた場所だ。太平洋戦争後の露天を発祥とし、時代の変遷と変わり行く時代の中で消え去ろうとしていた秋葉原の原風景、だが線路のガード下という特異な地形が幸か不幸か、空爆の影響を受けることなくかつての姿を残したまま遺構としてその姿を残すとはなんとも皮肉な話だ。
天井からぶら下がる電線が煩わしい。足元に四散したICチップやスイッチ、何に使うかもわからない電子部品がタクティカルブーツに踏まれ、嫌な音を立てて砕け散った。
すぐ目の前を、同じ部隊の黄が走っている。他にはいない。事態が開始して数分、すでに生き残っているのは二人だけだった。何が起きたのかわからない。ただ突然無人機たちからの信号が途絶え、そして発砲音とともに、先頭にいた二人の頭が吹き飛んだ。咄嗟に応戦し敵を破壊したが、それは味方のはずの自軍のUAVだった。そして更なる悪夢がやってくる。周囲に散らばっていたUAVの残骸、もはや破壊されて野ざらしにされ朽ち果てるのを待つだけのそれらが、次々に起動音を発し、歯車を軋ませ、LEDのほの暗い明かりを鬼火のように揺らめかせて起動してきたのだ。それはまさに墓場から起き上がってくるゾンビのような光景だった。そして、分隊はそのまま圧倒的な数の「何か」に翻弄されるままに壊滅した。
背後から、カラカラカラと歯車の回る音が追いかけてくる。走り抜けて舞い上がった砂埃が狭い通路の中をもうもうと立ちこめ、レーザーの赤い光が光線となって浮かび上がっていた。
「他妈的! 止まれ! 行き止まりだ!」
黄が苛立ちとともに叫ぶ。その声に劉はたたらを踏んで立ち止まった。思わず黄の背中にぶつかりそうになった。見れば、天井から崩れ落ち、コンクリートの瓦礫が通路を完全に遮断していた。
「他妈的!」
黄がもう一度吐き捨て、瓦礫を思い切り足で蹴り飛ばす。だが、そんなことでは瓦礫は動きそうも無かった。どうするか、その間にも、クローラの回転音はますます近づいてくる。ゆっくりと、しかし確実に。あえて焦らす様な遅さに、恐怖心が煮えたぎる。呼吸が荒く、心臓の音が早鐘を打つ。
劉は耐え切れずに激鉄を引きチェンバーに弾を送り込むと、アサルトライフルを構えて、背後に向け引き金を引いた。
5.8mm弾のフルオート射撃、両腕の中でライフルが暴れる。薬莢が排出され、壁に当たって弾けとんだ。撃ち出された弾丸は柱を穿ち、かつて店舗だった場所を破壊し、そして、通路の向こうに姿を現したタンク型UAVに射線が収束され、それを打ち抜いた。装甲を銃弾が叩いて火花が飛び散る。センサヘッドが吹き飛び、モニタカメラが四散した。側面に取り付けられたマシンガンがあらぬ方向を向いてスイッチが入り、弾丸を吐き出す。右側のクローラが破損したまま進もうとして瓦礫に乗り上げ、車体が横転した。それでも動こうとするUAVに、劉は弾倉が空になるまで打ち続けた。銃声に全ての音が塗り重ねられ、マズルフレアがカメラのフラッシュのように視界を染める。弾倉にこめられた二七発の弾丸を撃ち尽くすまで数十秒もかからない。その一瞬とも永遠ともつかない時間、UAVが倒れる姿がスローモーションのように目に焼きついている。
弾丸が撃ちつくされ、激鉄がロックされる。熱を帯びた銃口からは硝煙の煙が名残となって立ち上っていた。
銃撃に完膚なきまでに破壊されたUAVが通路の向こうでわずかに身を震わせ、その度に小さく火花を上げていた。
一瞬の静寂、他に動く物もいない。銃弾を掠めた店舗の軒に吊るされていたかつての商品が、支えていた電線が切れて地に落ちて派手な音を立てた程度だ。
しばらく、トリガーにかけた指が離せなかった。まるでその形に固まってし合ったように、引き金を引き絞ったまま指が動かなくなってしまっている。劉は動かなくなったUAVを照準越しににらみつけ、それが動かないと理解するとようやく一息吐いた。ただ、張り詰めた緊張だけはそのままに、周囲を窺いつつ背後を振り返る。
「黄、UAVは片付けた。ここは危険だ、早く脱出し……」
唐突に側面の店舗が爆発した。いや、爆発ではない。店舗を覆っていた瓦礫や板が突然吹き飛んだのだ。劉が驚きに顔を歪めるのと、黄の頭部がヘルメットごとスイカのように潰されるのがほぼ同時だった。瓦礫の隙間から、一本の腕が伸びている。腕? 人間かと思い、そして脳内の冷静な部分がそれを却下していた。こんな人間がいてたまるものか。漆黒の無機的な肌、鋭利な金属の指先、そして片手で人の頭をFRP製のヘルメットごと砕く力……そんな人間などいるはずがないのだ。舞い散る瓦礫の破片がまるでスローモーションのように虚空を漂う。そして、その中に揺れる赤い光を宿した二つの眼……光学センサのレンズが収縮するのがわかった。
ついさきほどまで黄であったモノから生命としての息吹が失われ、だらりと崩れ落ちる。その体を、突如壁から現れたそれが片腕だけで頭であった部分を掴んで持ち上げていた。黄の体から血液が噴水のように噴出し、天井を血で染め上げていく。その血飛沫が劉に降り掛かり、べっとりと生暖かい血を頭から被る。
「……ぅぅううわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
劉の口から悲鳴が迸り、よろける様に尻餅を着いた。
黄を殺したそれはただ静かに死体を掴んだままだ。マネキンのようなそれが劉の方へ首を向ける。劉は本能的な恐怖を感じた。目が合った。そう、次の標的は自分なのだ。
劉はもがき這いずる様に後ろに下がると、アサルトライフルを手に取り、構えた。もたついている暇は無い。こんなに近いのだ、照準を合わせる必要も無い。腰だめに構え引き金を引く。だが弾は出ない。
焦ってチェンバーを引くが弾がこめられる形跡が無い。手が震えて上手くいかない。二回、三回、チェンバーを引くが手応えが無い。弾詰まりではないのか? そこでようやく、先程タンクを潰すのに全弾撃ち尽したことを思い出した。
「……くっ、弾切れ!?」
緊張で声が裏返る。慌ててマガジンをエジェクトし、タクティカルスーツのそこかしこについているマガジンポーチから換えの弾倉をむしり取る。間に合うか? 後ずさりながらも、目だけは目の前の異形のモノから離す事が出来なかった。
黄を殺した人形はまだ首だけを劉に向けた状態で固まっている。ジッと見つめる光学センサの冷たい眼差しが気色悪い。だが、まるで何も考えていないように動かないことに、劉は救われた。恐怖に震える手がマガジンを銃に取り付けるのに二度三度としくじる。焦りが大きくなり、背筋の筋肉が強張った。
マガジンがはまった。
「よし!」
勢い良くチェンバーを引き、弾を薬室に叩き込むのと、敵が黄の死体を手放し彼の方に向くのはほぼ同時だった。
相手がモーションに入る直前、劉が銃を構えて引き金を引く。手の中で息を吹き返した二一式が震えた。
銃弾が人形へと襲い掛かり、奴の左腕を切り飛ばし、肩を抉る。さらに胴を穿ち、そして射線は頭部へと炸裂した。骸骨の面のような外装甲が吹き飛び、その下から電子回路が露になった。ゾンビの腐り捲れた肌ではない、ロボットのそれだ。
吹き飛んだ破片が狭い通路の壁にぶつかって跳ね返り、容赦無く劉に降り掛かる。排出された薬莢が宙を舞い、マズルフレアを受けて真鍮が炎に輝き、足元に落ちて転がった。
銃を連射したまま振り回す。解き放たれた弾幕が縦横に暴れ、敵の胴を穿ち、足を薙ぎ払った。相手の右足が破損し、立っていられない。バランスを崩して不自然な倒れ方をする。傾くようにして倒れる中、ロボットの無機質な顔に骸骨の不適な笑みが広がったように見えたのは気のせいだろうか。
足元がぐらつく。驚くより早く、劉の足元が崩落した。もともとが地下道だらけの東京だ、そこにこれまでの戦火と先程からの戦闘の衝撃であちらこちらで地盤が緩くなっていても当然といえるだろう。
「うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁ…………」
劉が絶叫を上げる。体が落下する不快な浮遊感。銃口が上を向き、残りの銃弾が天井を破壊していく。破壊されていく天板、長い年月溜め込まれた埃が真綿のように飛び散り、砕けたコンクリートがそれに混じる。空中でもがく。銃を放り出し、左手を伸ばして掴もうともがく。だが、何を掴めばいい? 伸ばした手は何も掴むことができずに空をかいただけだった。まるで溺れた者のように、水面に浮かび上がろうと、必死に手を伸ばした。そして、体が完全に穴の淵の奥に吸い込まれようというところで、視界が紅蓮の炎に包まれる。爆発。だが、何が起こったのか劉が理解する前に、彼は爆風で頭部を穴の淵に強かに打ち付け、意識を失った。かすかに覚えているのは、あのロボットが自爆したという事実。そして、深い深い闇の奥へと落ちていく、その感覚だけだった。
遠く風に乗って聞こえてくる爆発音を耳に、アキの口元に笑みが浮かぶ。彼女は壱華の肩の上でしゃがみこみ、膝に肘を置いて頬杖をつくような格好でHMDの映像を見つめていた。センサノードを中継に引っ張ってきていた戦場の映像も、爆音と同時にすでにブラックアウトしている。
「あ~あ、最期は爆発オチか……もっとスマートに殺したかったんだけど、仕方ないね」
言葉とは裏腹に気にもしていないようなさっぱりとした口調で呟く。彼女は壱華の肩の上で立ち上がると、ツッと人差し指でHMDを額に押し上げた。
途端に漆黒に彩られた街並みが姿を現す。HMDの煌びやかな合成映像に慣れてしまっていた目には暗闇は多少酷だ。唯一の明かりである月光に誘われるように空を見上げる。青白く冷たい月明かりが、火照った頬を冷ましてくれるようで心地よかった。興奮して爛々と輝く瞳に月が写り、青く輝かせる。整ったつんととがった鼻筋、細い顎のラインが月光の中で輪郭を露にする。それは幼い顔立ちでありながらどこか年齢を超越した大人の横顔をしていた。
「壱華、インフォメーション」
アキの言葉に、壱華が顔を上げて答える。
《敵分隊生存者無し、UAV破壊は五、TTD端末ゴーストX-6破損、残ったUAVの掌握率一〇〇%。該当地域の戦域破損率六四%》
「さっきの爆発で高架下は壊滅か……ネットワークが死んだけど、通路も無くなってるはずだからそれはいいや……アップデートしたソフトの方はどう?」
《指揮ネットワーク侵食アプリケーション実行から効力発揮まで九四秒、アプリケーション・エデンの蛇は有効に実行されました。ネットワーク侵入時のインターセプトは検出されませんでした》
「そっちはまずまずか……もうちょっと実行時間を短縮したいなぁ……あとでカズ兄に相談しよっと」
そう言って、アキが壱華の肩から飛び降りる。軽やかに着地すると、そのままくるりと壱華に向き直り、巨人の顔を見上げて白い歯を見せて満面の笑みを浮かべた。
「今日も楽しかったね、壱華。それじゃ、帰ろっか」
場違いなほどに屈託の無い年頃の少女らしい無邪気な笑顔。その笑顔に答えるように壱華がゆっくりと立ち上がる。
《了解。ミッション終了、RTB》
巨人が宝物でも扱うような優しい動きで、両手でアキの体を抱え上げる。その腕の中で、アキは心からの安堵の表情を浮かべていた。そして、巨人はそのままビルの淵まで歩き、虚空へ足を踏み出す。空の高みから重力の誘いのままに虚空に身を躍らせる。
耳に響くのはアクチュエータの回転音と、ワイヤーの音だけだ。ビル側面に取り付けておいたリペリング用のワイヤーを頼りに降下する。
二人の姿がビルの谷間の暗闇の中に溶け込み、消えていった。
随分昔に途中まで書いていた小説を、この機会に公開してみることにいたしました。
当時はリーマンショック直後で、あのままの閉塞感が続いて耐え切れなくなったらどうなるかと考えておりましたが、現実は小説より奇なりというか、相変わらずキナ臭い一線の上ですね。
遅筆ではございますが、どうにか続けてみようと思います。