羽音
クーラーの効いた居間でソファーに寝転がっていると、大きな蚊が飛んできた。
カラダの大きさはこぶし大。
しっぽにある血のフクロは二百ミリ缶サイズに膨れ上がっている。
吸い上げた血液により、黒と赤とで不気味な縞模様になっていた。
蚊は一度満腹まで血を吸えば二度は吸わない、と聞いたことがある。
もし本当だとしたら、この蚊はボクを刺すことはないはずだ。
だが、確実にボクヘ向かってきている。
おもちゃのモーター程度の重く低い羽音を立て、左右へゆらつきこちらへゆっくりと近寄ってくる。
手近にあった新聞をたたんでハリセンのようなものを作る。
届くところまできたときに、叩き落としてやるつもりだ。
待ち構えるボクのすぐ近くに蚊が来た。
新聞ハリセンを振り上げた瞬間、蚊を叩き潰したあとのことが脳裏に浮かぶ。
感触やそこに残るもの、飛散するものをリアルに想像してしまい、背筋に寒気が走った。 ――だめだ、できない。
ボクはハリセンをゆるめ、それをふって『来るな来るな』と蚊を遠ざけた。
蚊は、方向を変えて、居間と一続きになっている台所へと飛んでいく。
そちらには食器を洗う母がいる。
母は羽音にすぐに気がつき手をとめた。
飛んでくる蚊を見て、新聞をふっていたボクを見て、眉にしわを寄せる。
洗い物を中断しゴム手袋をはずす。
そして、蚊に向けてゆっくりと左手首を差し出した。
蚊が不快な羽音とともに母の手首へと向かっていく。
腕にとまる――直前、左腕を引き、右腕に持っていたフライパンを振り下ろす。
びちゃっ、
と、フライパンでつぶされ勢いのままシンクへたたきつけられる。
熟れた果物がはじけるような重たい破裂音を立て、真っ赤に飛び散った。
母は、赤く染まったシンクを水で流し、フライパンと返り血をタオルでぬぐった。
ゴム手袋をはめなおしながら母は深いため息をつく。
「あんた、蚊もまともにたたけないのかい」
母の眉間に先ほどよりも深いしわが刻まれている。
ふたたび深くため息をつき、
「お父さんが知ったらどう思うか、情けない。……あぁ情けない」
耳障りな母の小言を無視して、ボクはソファーに寝転がった。




