二話 必死の逃走
ーー右腕が使えない。肉が抉られた。骨が断たれた。頭が痛い。ガンガンと頭を打ち付けられたみたいだ。
足を動かせ、目を開けろ、止まれば死ぬ。後ろを振り向くな、前を向け、走れ、走れ走れ走れーー!!
★
目を覚まして数分間、地団駄踏んで暴れていたが、ようやく少し落ち着いた。
今後どうするかが、俺が生き残るか否かの分岐点になる。
すると、不意にポケットに突っ込んだ手に、紙のようなものが触れた。
「お、宝くじかな」
くしゃくしゃな紙を広げてみると、よくわからない文字の羅列と、簡易的な地図が描いてあった。
「おぉぅ、親切な人も居たんだ。異国語で書く時点で嫌味にしか見えないけど」
文字を解読する事を諦めて、ぐるりと周りを見渡してみる。森、森、森、森。
唯一整備されているのがここなので、全くアテがない。
路頭に迷った子羊じゃ済まないレベルで遭難したな。
「……もういいや、進もう」
どうしようもない為、太陽の進む方向へと歩みを進めることにした。
森を掻き分けて進むに連れ、どんどん登りになって行き、ここが山だと理解する。
小鳥のさえずりや、木を縦横無尽に移動する、小動物に癒されながら、やっと頂上という所まで来たんだけど。
「……霧?」
辺りがのみこまれるように白んで行き、遂には視界が真っ白に染まった。
いつの間にか、辺りは静まり返り、生物の気配は感じられなくなった。
「な、なんだよ……なんでいきなり霧が……」
異質な空間が、怖くなってきた。
神経を尖らせ、何が起きてもいいように身構えた瞬間。
ーーグルァァアァァア!!!
大気を揺らす咆哮を聞くと同時、大きな手が頭の数ミリ横を掠める。
「ぐあっ!?」
吹き飛ばされ、近くの木に後頭部をぶつける。
「なにが……っ!」
理解できないダメージを思考する間も無く、視界に巨大な何かを捉え、本能が危険だと訴えかける。
木に右手を当て、立ち上がろうと試みるが、肩に鋭い痛みが迸り崩れ落ちる。
痛む右肩を見ると、鋭利な何かで抉られており、背後の木も同様に削られている。
そして、何故か木の葉が合唱をしだした。
「まさか……風圧でこれを!?」
恐らく、木の葉が大きく揺れたのは風が吹いたからだろう。現実味は感じられないけど……。
「ウガァアァア!!」
叫び声と共に、声の主が遂に姿を現す。
赤茶けた剛毛に身を包み、鋭い爪と頑強な歯を持ち、頭には刺々しい翡翠の渦巻きが乗っている。
「……なるほど、異世界風の熊か」
血走らせた目でこちらを見る熊は、どうやら相当お腹が空いているらしい。
滴る涎は止めどなく流れて、地面に着地すると同時に、焼けるような音を立てて土を溶かしている。
しかし、様々な箇所に裂傷があり、それらは古くないものだ。
「……お前も、あの自分勝手な奴らにヤられたんだな」
さっきのエリート共に……。
ちょっと同情するなあ……だからって俺を襲うのはいけ好かないけど。
「グルラァァ!!」
熊の身体が僅かに沈んだと思えば、視界から熊が消える。
そして、気づけば身体が背後の木もろとも吹き飛んでいた。
「〜〜ッ」
一瞬、声が出なかった。背中を地面に強く打ち付けて空気が漏れたみたいだ。
体勢からするに、熊に突き飛ばされたようだ。頭も強い衝撃を受けて、鈍く痛む。
まず、身体の確認をしよう。
目、無事。鼻、無事。耳、右耳が聞こえない。右足、無事、左足、無事。左腕、無事。右腕ーー
「うがあぁぁあ!?」
右腕が、現在進行形で熊に齧り付かれていた。
咄嗟に落ちていた木の棒を至近距離の熊の目玉を突き刺す。
すると、熊は俺の右腕から口を離し、絶叫する。
気持ち悪い感触だ……。
異世界に召喚された時には既に着ていた、青地のジャケットには穴が開いていて、そこから見えるのは、脈動する血管と、粉々になった骨。
その光景を見て俺も気が飛びそうになる。
そして、傷に気づくと同時に襲いかかる、切り傷等とはまた違った、ピリピリと弾けるような痛み。
「ーーグギャァァァァアァァア!!!」
自分の命に諦観しかけていると今日一番の叫びが耳をつんざく。
熊は左目を失いながらも、残った右目には闘志が満ちている。
そんな、諦めの悪い熊に、ちょっとだけど心動かされた。
「クソッ!諦められるかよ!絶対に!」
まさか、敵に喝を入れられるとは思わなかった。
思えば今、妹の事を考えられるのも命があるからだ。
復讐に闘志を燃やせた事も二度目の生を受けたからだ。
こんな所で死んでどうする、情けないどころか無駄だ。
存分に、生きる事への執着心を回復できた。
右腕無しでなんとか立ち上がり、熊を睨みつける。
「グルルゥゥ」
熊はいつでも飛び出せるように四足でスタートの形を取っている。
「……覚えておけよ熊公」
声を合図に、またも熊の身体が僅かに沈む。
俺はそれを確認した後、左側に大きく飛び込んだ。
それによって木を倒す程の風に襲われながらも、俺は熊の突進を回避してみせ、受け身を取り、即座に立ち上がって。
「次会ったら泣かせてやる!」
捨て台詞を吐き捨てて俺は山の急斜面を駆け下りた。
自制できない右腕が、不規則に生い茂る木々に当たり、激痛が走る。ぶつけた頭はずっと殴られているような痛みが襲いかかってくる。
けれど、俺は走った。闇雲に、前だけを見て……。
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