9 背にみるもの
時は遡り、キャルベラン国軍がステイシア国との国境線となっている氷山プリズマの攻略作戦を決行した時、大森林に棲む獣や精霊が慌ただしい様子を見せていた。
「…………」
喋る事すら体力の消耗に繋がる、独り言すら勿体ないと言わんばかりに下唇から血が滲むほど食いしばりながら一歩一歩、確実に進む若者が一人。
ここはいったい何処なのか、自分はどちらに向かえば正解なのか、全身を血で滲ませたままのリキヤには理解できなかった。歩くたびに朦朧とする意識、このまま気を失って冥土へと逝ってしまえば幾分かは楽なのかもしれない。これ以上苦しい状況は訪れないのかもしれない。
しかしリキヤは諦めるわけにはいかなかった。そうすることのできない理由が、そこにはあった。
リキヤの背にはそれよりも小さい背があった。セネカ・ロージャ、彼女もまた衰弱しきっていて全身がズタボロだ。
人間の姿で居てくれたことが幸いしてか、ドラゴンのままだったら恐らくリキヤは運び出すことが出来なかっただろう。
「…………っ」
進むたびに視界がぼやけてくる。血を流し過ぎたか。
ゴールがあるのか分からない、この先に道が続いているのかさえも分からない。ただこの先がキャルベランに繋がっていると信じて突き進むしかない。
流れ出た血が靴の中にまで染み込み、ただでさえ重苦しい足取りを更に奪いに来る。反応できるまでもなく靴の底が地を滑りリキヤは前方向へ倒れ込む。
「けほっ……けほ」
倒れた衝撃で目を覚ましたセネカが自分のおかれている状況が分からなかった。セネカにとって先ほどまでの記憶を脳内でフラッシュバックされ慌てて自身の手のひらや全身を確認してみる。
「はぁ……もどった?」
いや、どうだろうか。むしろあのドラゴンの姿の事を『もどった』と言う方が正しいのかもしれない。自分がいったい何者なのか。それを理解してしまったセネカはロージャ邸には帰ろうという意志が無かった。
「私は……人間社会に巣食う化物だった」
結論はそういう事だ。姉たちが望んでいるのは人間のセネカであり、神竜としてのセネカではない。
誰かに会うのが怖い。だけど、リキヤだけは違った……あんな姿の私をそれでいいんだと言ってくれた。それがどれだけ嬉しかったか。
そしてセネカは自分が何の上に、誰の上に倒れているのか、それを見た瞬間に背筋が凍った。先ほどまで自分の姿が人であることだけに関心しきっていたが、よく見てみれば服はズタボロで血に汚れていた。
だが、自分自身は外傷が少ない。それが誰の血なのか、少し体を起こして見てみれば答えは目の前にあった。
「リキヤ……リキヤ、リキヤ!」
自分の中で再度確認するように、またリキヤ自身にも問いかける様に声を荒げた。
「なんでこんな……息は、まだある……、ここはいったい……ううん考えてちゃ全て手遅れになる」
周りを見渡せば全方位が草木でこれといって特徴もなければ道しるべも無い。血に塗れたリキヤを小さなセネカが抱えていくことは難しかった。かといって、リキヤには意識がなく、どう対処していいかも分からない。
とにかくセネカは倒れるリキヤの下に潜り込みなんとか立ち上がる。両腕はセネカの首の後ろから前へ垂らし、それを掴み引きずる形にはなるが、セネカは歩き始める。
「うっ……重いっ」
弱音を吐くがその手を放す気は一切なかった。リキヤが歩いてきた道は地面に残る血の跡で理解できた。リキヤの進んでいた方向が正しいという保証はないが、それでもセネカは前へひたすら進むことにした。
「ほんとにこの道、合ってるの?」
リキヤに訊ねたくても当人は意識を失っている為、必然的に独り言になってしまう。寂しかったのかもしれない、いつからか屋敷で独りを好むようになってその状態に慣れ過ぎたということもあるだろうが、使用人には甘えを見せられなかった。そして今は薄暗い森の中をひたすらに歩き続けている。今までだって辛かったけれど、今はこの世で一番辛い状況なのかもしれなかった。
「なんで…………なんで……」
今はとにかく胸が苦しい。今すぐこの場から離れたい、リキヤから離れたかった。
ダメな事は知ってる、だけど、けれども。
「なんで好きになってんのよ」
セネカの頬からいっぱいの涙が溢れ出た。それは決して自分が抱いてはいけない感情だと思っているのに、知ったというのに、それでもこの感情は抑えることが出来なかった。
「こいつは人間で、あたしは化物じゃん」
分かっている、それを呟くだけで重く苦しい現実がセネカ自身の心をギュッと締め付ける。
堪らず大泣きしそうになるのを堪える。
辛い、この感情がたまらなく憎い、なのに失いたくない。それと同時に怖い、せっかく自分を受け入れてくれた相手にこんな感情を抱いていると知って気味悪がられたら……。
「なんであたしは人間じゃないの?」
木漏れ日に向かって問いかけてみても風切音だけが静寂に響く。
世界は残酷だ。
「グルルッ」
獣の鳴き声が一つ、聞こえてきた。
「っ」
セネカはその場に身を屈め、息をひそめる。大丈夫だ、獲物を見つけた状態ならば相手に悟られるような唸り声は上げない筈だ、セネカはそう考えることで一時でも恐怖している自分の心を晴らそうとしていた。
重くのしかかるリキヤを一度横たわらせ先ほどの音に耳を澄ませて捜す。
大丈夫だ、そうきっと大丈夫。自分だってドラゴンの端くれじゃないか。だったら少しは戦える筈だ。
「「ガルッ」」
声が重複した。
相手は単体だと、そう判断を見誤っていた。獣が行うのはただ襲い掛かる事じゃない。狩りだ。獣も狩りをする生き物だ。ならば群れを成して行動しているのが鉄則と読むなら既に囲まれている可能性が一番、状況としては高かった。
「やるんだ、あたしがやらなきゃいけないことなんだ」
大丈夫だ、自分ならできる。
そう信じなければできない。
ひとつの影が茂みから飛び出し、それを筆頭に周りの茂みからいくつもの影がセネカとリキヤめがけて襲いかかる。
「――――――っ」
やはり咄嗟のことで緊張が裏目に出たせいか、魔法を発動することに迷いが生じた。このままでは二人とも助からない。
「どいてろ」
聞きなれた声だったが微睡みを含んだその声量が誰から出たものなのか、セネカはわからなかった。
まさか倒れている人間が立ち上がるとは思わないではないか。しかし、そのまさかだった。
「ぜぇ……ぜぇ……」
口の中には大量の血が固まっているのだろう、声もガラガラで今にも倒れそうな状態で、それでもリキヤは立ち上がった。身体はとうに限界を超えているだろうに、それでもセネカの前に立つリキヤの頼りない背が、セネカにはどうしようもなくまぶしく見えた。




