1 さようなら、寂しくも優しかった世界
五月の下旬のこと。それはあまりに突然で、そしてあまりに残酷な出来事が一人の青年に降りそそいだ。
「ココでお前に名前なんぞ必要ない。使い捨ての駒に発言する権利すら無いと思え」
「は?」
その素っ頓狂な声に対して眉根を寄せた男が棍棒で頭を叩き突けてきた。一切の容赦もなかった。これまで生きてきた人生の中で味わった事のない痛みに打ちひしがれながら周りに目をやった。
西洋の開拓時代のような鎧をまとった人間が沢山そこには居た。まるでこれから戦争に行くような、映画のワンシーンのようなその光景に夢ではないかと、頭の痛みすらソレを考えることを許してはくれなかった。
「ある程度の武器は持たせてやる。死にたくなかったら俺達に忠誠を誓え、敵と戦え。そして勝ち星をあげろ」
その男の眼差しは人間を見る目ではなかった。そう、それはまるで汚物を見るような情がいっさい無い顔をしている。
「お前の存在理由は俺達が決める」
兜と槍を持たされた。そして防具は鱗状の胴あてのみで動きやすさだけを重視している。なんともありえない情景にボソリと呟く青年。
「なんだよ……これ」
里山力哉は凡庸な青年だった。これと言って特徴があるわけではないし、特に頭が良くも、またスポーツが万能というわけでもない。今日も放課後のバイトに汗水たらして働き、貰った給金は全て自身の小遣いとして貯金している何処にでもいるような青年。事情があると言えば、両親の仲があまり良く無いという程だ。そのせいで力哉は家に帰る時間を少しでも遅らせようと必死だった。貯金をしているのもいつかは家を出て行って不自由のない暮らしをする為であった。それでもバイトが終わった後にどうしても時間がある日は、幼馴染みの家へと足を運ぶ。その幼馴染みは嫌な顔を一つもせず部屋へといつもあげてくれる。行き場のない力哉を受け入れてくれる女の子。
その優しさにいつまでも甘えていたくなる。そんな彼女だった。
「最近、行方不明者とか多くねえか?」
「そうだねー、景気も良くないし」
唯一、力哉の家の事情を知っている幼馴染みの竜崎雹華。力哉が抱えている悩みを誰よりも理解していて、それに親身になって考えてくれる数少ない親友だった。
「ねぇ……リッキーは、本当にこの町から出て行っちゃうの?」
その問いには一拍置いて答える。
「……わかんねぇけど、あの家は絶対に出て行くよ」
テレビを見ながら他愛もない話をしているのが、何より力哉にとって幸せだった。時間を忘れさせてくれる、雹華のことが好きだったからかもしれない。しかし、弱気な部分ばかりを見せている力哉には告白なんて出来る自信が無かった。今の関係が崩れてしまえば誰にも心を打ち明けられない。そんな恐怖心が力哉の勇気を根こそぎ奪い取る。なによりこんな自分に、異性としての価値など恐らく無いだろうと、思っていたから。
「リッキーが出て行くと寂しくなるよ」
不機嫌そうに呟く雹華は机の上のお菓子を頬張った。「一緒に暮らしてほしい」と一言、力哉が勇気を出して言えれば簡単だっただろう。それさえ言えない力哉は力なく笑うだけだった。そこでふと外が暗い事に気付いた。時間を忘れていようと、それは必ず二人の仲を裂きにくるのだ。
「あっ、いい加減に帰らねえと……ゴメンなこんな時間まで」
スマホの画面を見て立ち上がるとジャケットを着こんで部屋を後にする。見送りのために雹華が階段を下りる力哉の後ろからついてくる。
「別にいいのに……、お父さんもお母さんも今日は帰ってこないし」
階段を下りながらボソリと呟いたつもりだろうが、距離が近いからハッキリと聴こえた。
「流石に若い男女が夜遅くまで一緒だったらいろいろと問題になるから、そこはメリハリつけないと」
答えが返ってきて若干顔を赤らめる雹華、そんな姿に微笑ましさを感じつつも別れはやってくる。
玄関先で靴を履いてドアを少し開ける。外の寒さが家の中に入ってくるほど温度差が感じられた。いつまでも開けていては雹華が風邪をひいてしまうかもしれない。そう思った力哉は素早く外へ出ようとする。
「じゃ、またな」
「またねー」
互いに手を振ってドアを閉めた。寒さに身を窶しながら、空を見上げた。
「寒いと星が綺麗に見えるっつーのは本当だろうかね」
ほとんど空は真っ暗だった。星でも見えるなら雹華を誘ってどこかへ行きたいと思いつつも、それを誘えるかどうかも今の力哉には厳しかった。
暗い道を歩いて帰宅する。自宅まではそう遠くない距離だったおかげで、少し遅い時間でも補導されずに済む。しかしその足取りは重い。
帰りたくなど無かった。いつまでも、出来ればずっと雹華の家に居たかった。竜崎の家の人たちは事情など何も聞かず力哉に優しくしてくれる、はっきり言って力哉の理想の家庭像に近かった。その幸せそうな家庭が妬ましかったこともあるがそれももう昔の話。今では本当の家族のように接してくれる竜崎の家の人たちが自分にとっての第二の家族と言っても過言ではなかった。
あっという間に家に着いてしまった。だが、入らなければ心配される。
「ただいま」
玄関を開ける。相変わらず返事は無い、代わりに聞こえるのは怒号と激しい璧音の入り混じった何とも言えない恐怖感。
リビングの電気が点いてるが、そんなことはお構いなしに力哉はキッチンに入り、冷蔵庫から麦茶を取り出し飲み干す。
「いい加減にして! 力哉が見てるじゃないの!!」
「お前はいつもそうやって自分が不利になると、すぐ力哉の事をネタに逃げようとしてるじゃねえか!! それが気に食わねえって俺は言ってるんだっ!!」
二人とも力哉の事を溺愛している。それだけが、この家庭を繋いでいる細い綱だった。それが原因ではないかと考えた事もある力哉だがそれに対して何かを抱くことはない、力哉は両親が好きなはずなのに……だからこそどちらかを選ぶなんてことは出来なかった。だからいつまでもこの状態が続いている。どうにかしなければならないと思っていても、どうしたらいいのか、力哉には答えが導き出せない。とにかく今の両親を見ていられなかった。
風呂は雹華の家であらかじめ済ませておいた。そのため力哉はそそくさと二階に上がっていった。部屋に入り鍵を掛け、ベッドに突っ伏する。
「俺の世界はなんで、こんなにも狭いんだ」
涙が溢れそうになった。近所の評判も悪いせいで学校でも友達ができにくい。何も知らないバイト先の仲間と全てを知っている雹華だけが力哉の話し相手だった。
「おやすみ」
いつからか両親に面と向かって言わなくなった一言を呟いた力哉は夢うつつに堕ちていく。
そして目覚めたときには、当たり前の日常が無くなっていた。