第40話 見たことのない笑顔
車の中、俺とお嬢様は目を合わせず互いにそっぽ向く形で外の景色を眺める。今日も黄色帽子被ったガキ共が楽しげに和気藹々と下校している。
しっかりとは見えていないが、ジャンケンをして一人のガキが全員分のランドセルを抱えているのが見えた。あーゆーのまだ流行っているんだな。
「ふん」
……さっきから隣でクソ女がご機嫌ななめな鼻息をつく。というかあからさまに不機嫌なオーラを放ってくる。怒っているのは見ずとも明らか。カム着火だ。死語だ。
英語の授業からずっとこの態度である。
あれから俺達は一言も喋っていない。まぁこんなクズと喋るつもりなんざ一切ないが。
ったく、どうして他人と接するのを極端に嫌がるんだ。
そりゃ面倒くさいけどある程度のコミュ力は必要だろ。断るにしても、もう少しまともな返しは出来なかったのか。俺レベル、いや俺以上に酷かった。
消えろ、とか、どっか行け、とかさ。あんなこと言われたら誰だって感じ悪いだろ。
「ふん」
「さっきからふんふんうるせー。馬糞みてーな性格のくせして」
「うるさい喋るな」
クソが。めんどくせー。今この場に馬糞かゴリラのうんこあったら間違いなく顔面に叩きつけてやるところだ。
ピリピリと空気が痛い。妙にザラついた車内の空気は不快で、再び俺の舌打ちとお嬢様の鼻息だけが飛び交う。ルームミラーに映る運転手さんの青ざめた顔はとても息苦しそうだ。いつもより速度が出ているのはきっと早くこの空間から解放されたいからであろう。
ったく、どうやって生きてくればこんなねじ曲がったクソみてーな性格になれるんだよ。それは俺にも言えることだけどさ。
「お帰りなさいませ。雨音お嬢様、陽登君」
屋敷に着き、玄関先でメイドさんがお出迎え。
この人いつも屋敷にいるよね。休まないの? 社畜かな。無理しないでくださいねー。
俺は頭を下げた後に扉を開け、お嬢様が入るのを待つ。嫌だが仕事なので扉を開ける。おらさっと入れ、そして部屋に引きこもってろ。
相変わらず不機嫌なまま中へと入っていくお嬢様。
と、その時、メイドさんがお嬢様の背中に向けて離しかけた。
「雨音お嬢様、先程旦那様と奥様から明後日帰宅すると連絡がありましたよ」
ピタッと止まり、お嬢様が固まる。
……あん? おい一体、どうし
「ホント……? ほ、ホントにパパとママ帰ってくるの!?」
突然大声を上げた。今まで聞いてきた罵声や怒号よりも遥かに大きい。
そして圧倒的に嬉しそうな声だった。
「沙耶、それ本当なのよねっ?」
「え、えぇ。仕事の合間ですが帰ってきますよ」
お嬢様はメイドさんにグイグイ詰め寄っていく。グイグイ、グイグイとグイグイ、もう密着する勢いだ。
見ているこっちは不思議とエロイ気持ちになる。だって胸同士が合わさっている。あそこに手を突っ込みたい。
「明後日? 明後日なのねっ。何時頃着くのっ?」
「夕方にはこちらに到着して翌日の朝までいるとお聞きしました」
「やっ……」
やっ?
「ったー! もぉ、パパ達帰ってくるならもっと早く言ってくれたらいいのにー、もうっ」
信じられない光景、とでも言うべきか。
普段は生意気で不機嫌で、さっきもムカ着火のお怒り状態だった、あの雨音お嬢様が……笑っている。喜んでいた。
見たことのない顔。純粋に喜び、お菓子をもらった子供のような無垢な姿。
「言うの遅いっ、沙耶の馬鹿~」
「申し訳ありません。つい先程連絡がありまして」
「お~そ~い~っ」
ピョンピョンと跳ねながら全身で喜びを表している。身も心もピョンピョンしやがって。
こいつは本当にあの生意気お嬢様か? あまりの変貌に戸惑いが隠せない。
「そうとなったら……火村、行くわよ」
「行くってどこに?」
「買い物よ。パパとママが帰ってくるんだからお洋服買わないと!」
えっ、嫌なんですけど。
今帰ってきたばかりなのに外へ出るだと? ふざけないでもらいたい。
「嫌ですよ。俺は今から寝るという大切な責務があって」
「四十秒で支度しな!」
ドーラ!? 僕は海賊にならないよ。
だが俺が反論する間もなくお嬢様は上機嫌のまま階段を上がっていった。
……一体何なんだ?
俺に対してイラついていたくせにもうそんなの忘れました的な態度。突然のことに思考と気持ちが追いつかない。
「メイドさん、どゆこと?」
「久しぶりに旦那様と奥様が帰ってくるのです」
「それだけであんなに喜んでるの?」
別人かと見間違う程にテンション上がっていたぞ。キャラ崩壊が凄まじい。
「旦那様と奥様、つまり雨音お嬢様のご両親は大変お忙しい身でして。海外での仕事が多く、お屋敷に帰ってくるのは年に数回だけなのです」
あまり会えていない両親と会えるから嬉しい!ってこと? なんとまぁ分かりやすい。
ふーん……両親との時間、か……。
「お嬢様にとってご両親と過ごす時間は何よりも大切なものなのです。火村君にも分かるでしょ?」
「いやー、俺には分かんないです。うちの母親もクソ忙しくてたまにしか会えないですが寂しくないですね。寧ろウハウハしてます」
あの暴力ババアに会いたいなんて思ったことねーっすよ。嬉しさのあまり会いたくなくて会えないで震えるわ。西野バイブレーションだ。
「ちなみに陽登君のお母さんも帰ってきますよ」
「は? マジですか?」
あの人も帰ってくるのかよ。そりゃ旦那様の秘書をしているから確かに一緒に帰ってくるのは分かるけどさ。うっわ会いたくね~。
どうせまたドメスティックバイオレンスだろ。息子は暴力を振るう対象ではありませんことよ。
「陽登君もたまにはお母さんやお父さんに甘えてみたらどうです?」
鳥肌がスタンディングオベーション。
「死んでも嫌ですねー。母親にもらった愛情なんて幼少時の母乳程度のもんですよ」
「また下品な物言いですねー。そんなこと言って、お母様が悲しみますよー?」
「ははっ、そんなわけないですよ絶対。絶対に、あの人はね」
仕事で忙しいのに俺なんかの言葉をいちいち聞く人じゃねぇよ。
いやいや、ホント……愛情なんてロクにもらった覚えがない。思い出も、ほとんどない。鼻クソ程度だよ。
つーか、思い出したくもない。
毎日、誰もいない家に帰ってさ、暗く冷えた部屋でいつも一人で……。
「……陽登君?」
あー、クソ。
気持ちを入れ替え、俺は笑う。
「何でもありませんよ。メイドさんの母乳って何色かな~と考えてました」
「今日と明日と明後日の晩ご飯は抜きにしますねー」
今日だけでなく二日後まで!? 罰が厳しくないか?
「勘弁してくださいよマジで。あははー」
せめて玄米だけでもいいからくださいよぉ。屋敷での飯だけが楽しみだってのにそれはあんまりですよ。
「冗談ですよー」
「あ、良かった。勘弁してくださいよメイドさん~」
「冗談はさておき……陽登君、つかぬ事をお聞きしますが、陽登君のお父様は今どこに?」
「……んー?」
「さっきみたいに下ネタで誤魔化しても無駄ですよ。お母様の話題になった時、様子が変でした」
微笑みは消え、真剣な眼差しが俺を捉えて離さない。
いつもの微笑み、たまに見せるドSな表情とは違う、冗談の通じない顔。
勘の良いガキは嫌いだよ、ってやつかな。
喉が渇き、吐き出す言葉が刺さって痛い。意識している自分がいる、昔のことを思い返す自分がいる、あの頃の自分が……見える。
それでも俺はヘラヘラ笑う。ニヤリと口角上げて言葉を絞り出せ。
「あはは、メイドさん何をマジな顔してんすか。シワが増えますよ~?」
「陽登君のお母様は秘書として旦那様に付きっきりです。ではお父様の方は? 海外で働いていらっしゃるのですか?」
無視かーい。今あなたを小馬鹿にする発言したんですよ。もっと怒りましょうぜ。三日後も晩ご飯抜きが正解の返しでしょうが。
……誤魔化して納得する顔、じゃないっすね。
「駄目ですかー。いやー、そうっすねー…………察してください」
それ以上、俺から言う言葉はない。
言い終えた後も心には思い出なんて浮かばず、何も思いつかない。
本当に何もないんだ。俺には。
心の中で渦巻くのは、面倒くさいって感情だけだよ。ただただ、面倒くさい。
「……出過ぎた真似をしてごめんなさい。深く聞き入り過ぎました」
沈黙は長くは続かず、メイドさんは深々と頭を下げてきた。
頭良い人で助かる。本当にね……。
「謝らなくていいですって。別に俺は気にしてませんよ。それより……」
そろそろ来る頃だな。
上の階からドタバタと騒がしい音。次第に大きくなって俺とメイドさんの傍にまで詰め寄ってきた。
けたたましい音と共に、私服に着替えたお嬢様が下りてきた。その顔はワクワクドキドキと楽しそうであり且つ嬉しそう。要するにハッピーな笑顔。
「何してるの火村っ、まだ準備してないの?」
お嬢様は俺に怒りをぶつけてくる。けど帰り道とは全く違う感情での怒り方。
なんともまぁ嬉しそうに怒りやがって。俺達さっきまで喧嘩っぽいことしていたんだぞ。自分勝手な奴だなぁ。
「申し訳ないです。今すぐ着替えきます。てことでメイドさん、ちょっと外へ出ていきます。……さっきのは忘れてくださいね」
興奮するお嬢様を躱しつつメイドさんの横を通り抜ける時、そっと囁く。
それだけ言って後ろを振り返ることなく早足で二階を目指す。




