第143話 俺のお嬢様
「ハルちゃん走っていっちゃったね」
「火村君なら大丈夫です」
「……ライバルを蹴落とすチャンスだったのに、敵に塩を送る真似して私達も馬鹿だね」
「け、蹴落とすって……」
「うん分かっているよ。これでいいの。全然後悔してない」
「……私も同じです。火村君に辛い思いをしてほしくない。それだけを願って……」
「木下さんも一途だね。……負けないから」
「っ!? あ、あうぅ……っ、わ、私も負けませんっ」
「木下さん顔真っ赤」
「あうぅ~」
「うふふっ。……ハルちゃん、頑張って」
ずっと逃げてきた。目の前に嫌なことが立ち塞がる度に目絵を逸らしてヘラヘラ笑って逃げた。それが楽だった。向き合うのは辛かった。
向き合って頑張って、一生懸命になったところで欲しいものは手に入らない。だったら初めから追わずに諦めた方がいい。期待するだけ無駄。
「ぜぇ、ぜぇ……!」
向き合うことで辛い思いをするかもしれない。欲しいものを掴むことは出来ないかもしれない。今までそうだったように、今回も裏切られる結果になるかもしれない。
そうして逃げ続けるのはやめだ。立ち向かって、もがいて、手を伸ばしたくなった。今はそういう風に少しだけ思う。
少なくても、あいつは俺のことを待っている。
「ぜはぁー……横腹いてぇ。左手も痛いし、つーかなんで全力疾走なんだよ馬鹿かよ熱血かよ」
走り続けたおかげで息は絶え絶え、齷齪と動かす両足に疲労が溜まる。
でも走る。立ち止まらず走り続ける。乱れた呼吸は放置、まともに酸素を取り込まず代わりに口からは汚い喘ぎを恥ずかしげもなく漏らす。
前を見ても辛い現実しかない。目を逸らして楽な道をダラダラ歩いた方が楽しい。そう思っていた。
我ながら賢い生き方をしてきたものだ。人生イージーモードの素晴らしさを味わい続けてきた。
馬鹿だ。クソ野郎だ。それで全て上手くいくわけじゃない。
辛いと決めつけて使用人を辞めて、あいつを拒絶して逃げて、自分の気持ちにも嘘をついていた。
もっと単純に考えろ。母さんのこと、母さんの仕事、親父の死、向き合わなくちゃいけない問題が山積みかもしれないけどさ……。
「今はもっと自分の気持ちに素直になれよ。俺が、何をしたいか、それが一番だろ」
辛いこと、悲しいこと、面倒なこと。その先に待っているのが俺の望んでいるものじゃねーか。
深く考えず突き進めばいい。俺がしたいようにすればいい。後悔しない生き方、間違わない選択、母さんに言われたばかりだろ。
「ふー…………行くか」
ようやく息を整える。息を吸って、吐いて、目を開く。前を向く。
まっすぐ、素直に、俺は天水家の門をくぐった。
自分がしたいこと。欲しいもの。
そして何より、あいつが俺の帰りを待っている。ごちゃごちゃ考えないでいいんだ。とりあえず、あいつが願っているなら、それだけで十分なのだから。
だから、俺はここに戻ってきた。
「……陽登?」
天水家の屋敷、二階の物置部屋。
今朝と変わらず荷物もベッドもそのまま。空調が設備されていないから夏の蒸し暑さが存分に充満する空間。
その中、ベッドに寝転がっていたのは、天水雨音もといクソ女、
もとい、俺の大切なご主人、雨音お嬢様。
「な、なんでここに……」
「とりあえず一つ言わせろ。お前なんで俺の部屋で寝てんの?」
ここは使用人の部屋だぞ。お前には立派なお部屋があるだろうが。何を好き好んで湿っぽくて暑くて狭い部屋で寝ていやがる。ちょっとしたマゾプレイですか?
お嬢様は目を見開く。その目は赤く、目の下には涙の跡。髪はボサボサでせっかくの綺麗なサラサラヘアーが台無し状態。服装も俺のジャージを着ており、とてもセレブのお嬢様とは思えない見るも無残な姿だ。てゆーかまたジャージ着ているんかい。
「は、陽登? 陽登……陽登!?」
「何回言うんだよ。言われなくても俺は陽登だよ。……お前に仕える使用人だ」
ベッドが軋む。夕方の落ちかけた陽の光が差し込む、数歩も歩けば扉へと辿り着く部屋の中、駆け抜ける音。あっという間に視界は黒く染まり、同時に鼻へ届くは嗅ぎ慣れた匂い。
「っ、陽登ぉ……!」
お嬢様が抱きついてきた。ベッドから起き上がって跳び上がって俺の懐へ飛び込んできたのだ。考える間もなく両腕を広げるのが精いっぱい。俺は後ろへ倒れないよう踏ん張ってその重さと温もりを受け止める。
「いきなり抱きつくな。日帰り旅行から帰ってきた家族を出迎える飼い犬かお前は」
「陽登……っっ~!」
「何回名前呼ぶんだっつーの。ゲシュタルト崩壊する寸前だ馬鹿」
「うえぇぇん、ごめんなざい……!」
「……」
胸元で泣きじゃくるお嬢様。何度も何度も名前を呼んでは溢れ出る嗚咽を抑えることもせずただひたすら泣く。
俺は、俺も抱きしめて、口を開く。
「……今までの生き方を変えるつもりはない。嫌なことがあれば逃げたいし、辛いことからは目を背けたい」
向き合うとか素直になるとか、未だに面倒くさくてやりたくないのが本音。そう簡単にライフスタイルを変えてたまるか。俺はこうやって楽しく生きてきたんだ。ダラダラ、ヘラヘラ。俺のモットーだ。
「ただ、今は……お前が辛そうにしているのが見たくなかった。だから帰ってきた。……俺の方こそ酷いこと言って悪かった」
色々と考えたが結局のところ単純。お前が帰ってきてほしいと願うなら帰ってきてやる。それだけのこと。おいおい今朝の辛辣な拒絶はどうした俺。
でも、これでいい。気持ちの整理はついていないかもしれない。帰ってきたことで向き合わなくちゃいけないこともあるはず。
でも、それでも。今はこいつを悲しませたくない。だから、
「だから、あー、なんだ、その……これからも、よろしくな」
言っちゃったよ。あー、これ恥ずいやつだ。何普通に素直な気持ち言ってんだよ俺ぇ。ツンデレか、ツンデレのデレ部分か俺ぇ。究極的にダサイぞ。
……で、何か言ってもらえませんか。お嬢さ……
「うぐぅ、陽登ごめんなさい……!」
泣いていた。泣いて謝っている。いや謝ったの俺なんだが。今の俺のクソ恥ずい語り聞いていなかったのかよっ。
あと……離れてもらえます? お前の涙で俺の服ビチャビチャ。胸の部分だけ局所的な大雨状態。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「いやだからそれも踏まえて話をだな」
「陽登に酷いこと言っちゃって……うえぇぇん……ごめんなざい……っ!」
「こいつ号泣じゃねーか……」
あの、な? 一旦離れて話を……うん駄目だね全然離れないね。すげー力だもん。縛道のなんちゃら~ってレベルでガチガチに抱きつかれている。
「はあ……。まっ、後々ゆっくりでいいか」
今はこいつが落ち着くまでそっと抱きしめておこう。
お嬢様の頭をポンポンと撫でる。お嬢様は泣いてばかり。俺に抱きついているくせに俺のこと無視ってどゆことー?
「うえぇぇぇん……ひっく、ぐすっ、うぅ……!」
「聞いてねーなホント」
「聞いてますよー」
その声は後ろから。抱きつかれて身動きは取れないので予想するしかないが、たぶん後ろにメイドさんがいる。
見えていないけど……ちっ、声音から分かる。この人ぜってーニヤニヤ笑っているよ。間違いないよ。決別したの今朝なのに夕方には帰ってきた俺のこと嘲笑っているよぉ。
「メイドさん、その、昼は言い過ぎました。すんません」
「別にいいですよ。陽登君が帰ってきたから、それで十分ですっ。……お帰りなさい」
「……うす」
「うんっ」
「ぐすぅ、えぐ、陽登……!」
「ウチのご主人いつまで泣いているんでしょーね」
「さあ。ちなみに朝も号泣していましたよー」
「長くなりそうだな……ったく」
そうですねー、とクスクス笑いながら鼻をすするメイドさんの声。それに負けないくらい涙を流して嗚咽を漏らしまくる俺のお嬢様。
二階の狭くて蒸し暑いクソみたいな物置部屋で、俺は大切な主をいつまでも抱きしめた。