第140話 火村陽登の思い
火村君の視点に戻ります。
病室の独特な匂い。壁も天井もシーツも真っ白、テーブルに置かれたフルーツの盛り合わせの色彩が鮮やかさに映える。
「陽登……」
ベッドに寝る母さんが俺の名を呼ぶ。静かな空間で、俺は小さく微笑んで母さんを見つめる。
「なんだい母さん?」
「……なんで包帯つけてるの?」
母さんの視線の先、俺の左手には包帯が巻かれている。
「それはね、壁を思いきり殴ったせいだよ」
「お前何やってんの!?」
だから壁を殴ったんだよ。怒りに身を任せて全力で天水家の屋敷の壁を殴った結果、左手の骨が折れた。
シリアスなムードで屋敷を立ち去った後、俺はすぐに泣きましたよ。痛みのせいでね。
「いやー、俺も骨が折れるとは思わなかった。親子揃って病院の世話になりましたな」
「アンタのは恥ずかしいやつでしょ」
「はい意義あり。過労で倒れたことは恥ずべきことではないと思ってんの?」
どちらも同レベルじゃないですかね。
ため息を吐く母さんは上体を起こすとテーブルのリンゴを手に取った。
「休めよクソババア。リンゴなら俺が剥いてやる」
「片手使えないのにどうやって剥くのよ」
「片手でも出来ることはあるさ。こうやってナースコールを押せる」
「他人任せじゃねぇか」
さすが母さん、口調が俺とそっくり。
血の繋がりを感じているとナースさんが病室に入ってきた。容姿チェーック……二十代後半で、胸は控えめの、顔は中の上くらい。まあ合格としておいてやろう。
「よく来たな。貴様にりんごを剥く仕事を与えてやる」
直後、俺の脳天に拳骨が落ちる。脳細胞が「ファック」と叫んで死んだ。
「クソ息子が失礼しました。どうぞ勤務に戻ってください」
「ナースステーションに戻ったら『あそこの病室イケメンがいる!』って吹聴してね」
「お前フツメンだからなマジで」
普通母親ってのは息子の容姿を褒めるんじゃないですかね。仮にブサイクでも「あなた素材は良いのよ」と褒めるもんだろ。そうだったよなみんな?
実の母親の容赦ない指摘に舌打ちしている間にナースさんは困惑した表情のまま病室を出ていった。
ここですぐにナースコール押したらどうなるんだろう? また今の中の上ナースが来るのかな。とりあえず俺の脳細胞がまた死ぬことになるのは確か。
「馬鹿息子が……」
母さんが呆れたようにため息をついてリンゴの皮を剥く。俺はニヤニヤと笑う。
「いやぁ、それほどでも」
「褒めてないから。某アニメか」
「あのアニメって毒が抜けたよな。もっと昔みたいに過激ネタ放送してほしいよ」
ぞうさんやっていればガキ共は笑い転げるというのに。子供の教育に良くないと苦情を呈した大人が許せないぜ。もっと下ネタ盛りだくさんにしてだな、
「使用人辞めたらしいわね」
「……」
リンゴを差しだす母さん。俺は黙ったまま一つ取って口の中に放り込んだ。
「月潟さんから連絡があったわ。何勝手に辞めてんのよ」
「……別にいいだろ」
咀嚼して飲み込んで言葉を返す。ぶっきらぼうな口調になってしまった。何を気にしているのやら俺は。
母さんがこっちを見る。ため息をつき終えて呆れた目ではなく真剣な表情を浮かべて。
なので俺は視線を横に逸らして口笛を吹く。ぴゅうぴゅー。
「辞めてどうするのよ。ニートに戻るつもり?」
「……」
「まさか高校も辞めるとか言わないよな?」
「……」
「この病院に美人の女医さんがいるわよ」
「是非見てみたい」
「都合の良い時だけ返事するな!」
「え、なんだって?」
「痴呆のジジイ並みにタチ悪いなおいこの阿呆が!」
「ジジイは痴呆、俺は阿呆でウホウホ~」
胸を叩いてドラミングしながらゴリラの顔マネをすると母さんの額に青筋がたくさん浮かび上がった。やだ、母さんの血管、浮きすぎ……?
「真面目に答えなさい」
「……はいはい」
椅子に座りなおして頭を掻く。母さんと向き合い、今思う通りに俺は言葉を紡ぐ。
「今の気持ちを言うわ。俺は高校も辞めてニートに戻りたい」
「ニートになってどうするのよ。また田舎で過ごすつもり?」
「おう」
「ふざけるなよクソ息子。いつまでもニートでいられると思うな」
母さんの怒気こもった一喝。至極まともで、母親なら当たり前の言い分だ。
だからこそ反論する。反論出来る。
「そっちこそふざけんなよ。俺を放置して仕事ばかりのくせに命令するな」
「……それは、ごめん」
「いや弱いなおい!」
ちょっと反論したら母さんは申し訳なさそうに表情を暗くしてしまった。
なんと手応えがない。母親なら正論だけ言って息子黙らせろよ。
「……ずっと陽登に寂しい思いをさせてきたのに今更母親面するのは都合が良すぎるわね」
「それは同感」
「私、仕事ばかりで陽登に構ってあげられなかった。お父さんと、三人で過ごせてあげられなかった」
母さんは俯く。細くて真っ白な手はシーツを掴んで、震える。
……こんな時だけ不幸な顔しやがって。そりゃ悲しいだろうけどさ、その程度だろ。
俺は、この気持ちをずっとずっと味わってきたんだぞ。
「なんでそんなに仕事ばかりするんだよ」
「目の前の仕事にしか映らなかった。気づいた時にはいつも手遅れ。今回も、お父さんの時も……」
「……仕事辞めろよ」
大体おかしいんだよ。親父が死んだ会社で働いて自分自身も倒れたんだぞ。
誰が見ても分かる。母さんが親父と同じ道を辿っていることに。
そして誰よりも分かる。俺にとってそれは耐えられるものではないと。
「辞めて家に帰ってこい。そうしてくれるなら俺は高校だって大学だって社会にも出てやるよ」
「何それ最高に嬉しい」
最上級出ちゃったよ。息子がごく普通のルート歩んだだけで最高なのかよ。やっぱ母さんの基準低い。
「でもね、私は辞めないわ」
「正気じゃねーな。社畜かよ」
「社畜じゃねーよ。私は今の仕事をやり遂げたいと思っているの。何より、逃げたくないから」
「逃げたくない~?」
「私だけじゃないの。社長や奥さんだって一生懸命働いている。あの人達と一緒に頑張りたいのよ」
「……そうすることで自分らの子供が悲しい思いをしてでもか」
「それ言われると辛いわね。都合の良い言葉だけど、陽登のことが一番大事だわ」
「矛盾乙」
仕事はやりたい。そうすると子供に会えない。でも子供は大切。言っていることが無茶苦茶のゴチャゴチャだ。
ただ、母さんがそう言うならもう俺からは強く言わないでおこう。母さんだって分かっているはずだ。後はお好きにどうぞ。俺も好きにさせてもらう。
「じゃあ俺帰るわ。勝手に働いて勝手に息絶えろババア」
残りのリンゴを全て口の中に入れて俺は立ち上がる。
帰るといってもどこに行こうかな。やっぱ実家だな。実家しかねーようん。あの家には帰りたくなかったんだがな~。
「……陽登は間違えないでね」
病室を出る間際、後ろから母さんの声。小さくて細かったが、その中で母さんの確かな思いが詰まっているようにも感じた。
「……」
「陽登には後悔してほしくないの」
「随分と都合が良い言い分だな。当然、後悔しないよう好き勝手に生きてやるさ」
扉を開けて病室を出る。廊下を歩いて、止まり、自分の左手を見つめる。
「あー左手いてー」
俺には後悔しないように、間違えないように、か。
まるで自分は間違って後悔したみたいな言い方しやがって。仕事ばかりで息子放置していた奴が何言っているんだよバーカ。言われなくてもその通りにして生きるってんだ。
……もう二度と嫌な思いはしたくない。だから逃げてやる。嫌なことから目を背け続けてダラダラとヘラヘラと楽な道を歩いてやる。
使用人を辞めたことは間違っていないし後悔もしていない。今のこれが俺にとって最善の選択なんだよ。
間違っていない。後悔しない。そして逃げ続けてやる。俺はこれでいいんだ。だからさ、
「は、陽登……!」
俺の前に現れるな。天水雨音。